「アスマぁ、購買行こうぜ」


 両手を伸ばして身体を強張らせながら、内海が近づいてくる。それからゆっくりと首を回して、原も。


「うん」


「今日は焼きそばパン残ってるといいな」


 教室を抜けて、昼休みで散り散りになっていく生徒たちの合間を縫って、三階の教室から、一階の購買へ向かう。

 すでに大きな人の塊が出来上がっていて、僕たちはお互いに顔を見合わせて、結局、寄ることはなかった。雨だから、近くのコンビニに行くこともおっくうなんだ、と同じことを思うから、あきらめるにも納得ができる。

 食堂へ行こうかという話も出たけど、行かずとも結果は見えているから、僕たちはしぶしぶ昇降口へ移動して、各々黒い傘を広げて、隣接するファミリーマートへ行った。


「ファミチキひとつ」


 内海も原も、放課後に部活を控えているから、お弁当とパンと、エナジードリンクなんかを買っていたけれど、放課後に何も控えていない僕にとっては、これ一つで十分事足りる。人体を動かすには、食事よりも気力が大事だ。とはいうものの、そんな気力もわいては来ないけれど。


 退屈。


 窓際の僕の席を中心に、前後の席に二人が座る。僕を挟んで、会話は右から左。相槌があろうがなかろうが。二人は二人だけでも、十分に事足りる。

 遊馬。遊ぶ馬。大層な名前を付けてくれたものだな、なんて。思っても、言わない。舞香さんなら聞いてくれたかもしれないけれど、今は言えない。


 僕の周りには誰もいないな、と感じることがあった。漠然と、茫漠な時間を食い潰すだけの、でも、それも世界史から見ればほんのわずかな、形すら見えない大きさの、ちっぽけな存在。地球上の、砂糖の一粒にもならない僕。


 両親が事故で死んだとき、僕はまだ、言葉もしゃべれない子どもだった。

 だから当然実感なんかなくて、舞香さんのことはお姉ちゃんだと思っていたし、美智子おばさんのことは、母親だと思っていた。

 中学生になった時、美智子おばさんにとっては僕が早熟に見えたようで、その話をされた。自分は遊馬のお母さんじゃない。お母さんの、妹。


「でもね、私は遊馬のことを、息子だと思っているよ」


 目じりのしわ。少しこけた頬。

 薄く塗った口紅が、滑らかにそう言ったのを、たぶん僕は一生忘れないと思う。


 もう、誰もいないけれど。


 午後の授業も、退屈だった。

 

 ホームルームが終わって、みんなが部活へ向かう。じゃあな、と声を掛けて、内海たちも体育館へ向かった。

 一人だけ、人波を逆行しているような、不思議な感覚。僕を取り巻いているのは、退屈じゃなくて、退行の二文字かもしれない。


 雨の中を、ぽつぽつと歩く。

 赤いセダンがまき散らした水を足元に浴びて、ぐっしょりと染みたスニーカーを引き摺って、そのまま、僕はずっと何かを引き摺っているような心地になって、雨の流れには逆らえないまま、水たまりの中に、地面に、吸収されて行ってしまえればいいのに、なんて、ぼんやりと、思う。


 雲のせいで時間のわりに薄暗い細道。

 先週から明滅している街灯。

 ひっそりと看板をこしらえた風俗店。

 薄手のカーテンの奥で笑う母親と子ども。


 耳元で鳴る、ノクターンの旋律。


 もし。

 もし世界がひっくり返ったら、みんな空へ吸い込まれていくはずなのに、僕だけが、この場所にさかさまになって吊るされてしまうような、そんな、どうしようもない考えが、僕の足と連動して、頭の中に根を張る。


 きっと。この、本当にどうしようもない思考も、世界にとっては、取るに足らない、見えもしない、ちり芥の一つ。


 ――ドン、と衝撃を受けたのとほとんど同時に、


「危ない!」

 と女の子の声が、うっすらと聞こえてきて、

 ——瞬間、視界いっぱいに、ライトの光がまぶしく見えて、

 ——あ、僕はもう死ぬのか、

 ——これで終わりか、

 ——まあ、いっか。

 なんて、考えていたのに、


「——え?」


 

 次の瞬間には、ハイエースが、右から左に。

 僕は、さっきより、少し後ろに。


 差していたはずの傘は通り過ぎたハイエースに跳ね飛ばされて、塀を超え、誰かの家の庭に消えていった。

 その右手は、誰かのぬくもりが絡みついていて、振り向くと、そこには、


「あれ?」


 きっと、僕よりも動揺している、女の子の顔。

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