「——で、あるからして――」

 

 退屈。

 挫けるを退ける、って書くのに、全然その兆しも見えないまま、世界史の安西先生の言葉を右から左に聞き流して、連日降り続く、世界を洗い流すような雨を眺めていた。


 昔から、大雨はそうやって世界の地形を大きく変えているのに、まだまだ飽き足らず、僕のこの退屈だけはそっとこの場に残したまま、人々を、傘を、木々を、動物たちを、強くたたいて、どこかへ流れていく。地面に、海に、吸収されて、それから天に戻って。循環している。

 狭い東京の、狭い校舎の、狭い教室の中で。狭い狭い僕一人の考えが、グルグルと回り続けていく。


 ズボンのポケットから、ワイシャツの袖を通って耳に刺さるイヤフォンの、ショパン。ノクターン。

 いとこの舞香さんが、彼氏に振られたときに弾いていた。


「夜を想うの。いくつもの夜。それで、いつまでも夜に囚われ続けて」


 和室の中に、どっかりと似合わないグランドピアノは、舞香さんの細い指で旋律を奏でながら。まるで歌うみたいに、彼女は言っていた。舞香さんがその時購読していた別冊マーガレットから顔を上げた時、彼女は閉じた瞳の隙間から、ぽろんぽろんと、ピアノの擬音と同じ音で、涙を流していた。

 

 人とひとが出会って、別れていくことを、僕はその時初めて、大変なことなんだ、と思った。


 それからすぐに舞香さんは東京を出て、今はどこにいるのかわからない。おばあちゃんが死んだときも、美智子おばさんが大病を患った時も、そのまま急に世界から消えてしまった時も、舞香さんは僕の隣で一緒に泣いてくれなかった。


 雨は勢いを弱めないまま、このまま関東から北上し、二日後には北海道全域を襲うと聞いた。

 そうやって洗い流したつもりになって、ただ、移動させていく。人々の顔を曇らせて、雨を降らせる。なら、舞香さんもたぶん、どこかできっと、少し、泣いたんだと思う。


 この曲を聴いていると、いつも、そう、思う。

 右から左に。

 世界は順当に、ずっと、流れ続けていくんだと、思う。


 曲が終わった隙間に、チャイムが鳴った。


「ここ、テスト出るからよく覚えておけよー。じゃあ、号令」


 起立。気を付け。礼。


 全員が頭を下げる中、一人だけ、僕だけが前を向き続ける、小さな遊び。


 僕の退屈しのぎは、全力で、ただ、それだけだった。

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