第88話 冬の花火

 ぼくにとって集団での共同作業というのは果てしなく続く拷問に他ならない。意思の疎通がはかれない相手に了解を取り付けるのは、いつ終わるとも知れない苦行にも似た徒労としか思えない。明らかに何かを勘違いしているメンバーが、たまたまその集団の中で声が大きいばかりに、ものごとが誤った方向に突き進んで行くのを黙って見ているしかない場合もある。というか、経験上、必ず一度はそういう事態に陥る。


 初めの頃はぼくも経験が浅かったので、間違いが起こりはじめた早い段階で「それは違う」と指摘したこともある。けれどもそれがどんな正論であっても、声の大きなメンバーの前では何の役にも立たないことを思い知らされた。彼は、あるいは取り巻きを含めた彼らは、明らかな間違いだということを目に見える形で悟るまでは絶対に方針を変えようとはしない。一旦決めた方針を貫き通す。時には明らかな間違いが露見してさえ、そのまま突き進んで行く。そんな有様を見ながら、こういうやつらが取り返しのつかない戦争を遂行するんだな、とぼくはひどい無力感を味わう。


 だからぼくは余計な口出しはしなくなった。今回も、卒園前の最後の大イベントである「はっぴょうかい」のための飾り付けが深刻なカタストロフィーに向かっていくさまを黙って見ていた。言い忘れていた。ぼくはこの南山手幼稚園で、間もなく卒園を迎えようとしている。ロクなことのない幼稚園生活だったが、何人かは仲のいい友人もできたし特に今年のエリ先生は最高だった。だからそれなりに愛着もある。でもその全てをアキオが、やたら声の大きなアキオが台無しにしてきた。


 三年間、不幸なことに同じ組に居続けたアキオは、今日も笑ってしまうくらいに激しい思い込みで間違った方針を立て、それをみんなに指示して、さくら組全員を取り返しのつかない破局へと導いていた。このままいけば、舞台はごみため同然になるし、それが判明した時にはもう、修正を加えるための素材が払底しているはずだ。どうしてそれがわからないのか不思議でたまらないが、誰も疑問に思っていないようだった。


 ぼくはできれば被害が最小限になるよう、あるいは、方向転換時に使える資源を確保できるように工夫を試みた。けれどこれは裏目に出た。アキオからすれば不満分子がサボタージュしているようにしか見えなかったらしく、ぼくのやっていたことは全て取り上げられてしまい、舞台袖の掃除係に回された。アキオは罰のつもりだったらしいのだが、舞台袖の掃除はこの部屋の中で起こっているすべてのできごとの中で最も有用な作業だったので、ぼくは文句を言わずにそれを遂行した。


 やがて何もかもがうまくいっていないことにエリ先生が気づき、さくら組のほぼ全員が気づいた。それでもなお呪われた舞台美術の完成に向けてひた走り、まわりを従わせようとしてきたアキオも、ついにようやく自分がやってきたことが間違いだったと認める時が来た。ぼくはちりとりのゴミをゴミ箱に流し込みつつ思わず吹き出しそうになってしまった。アキオの顔が、とんでもないドッキリをしかけられた時のリアクション芸人そのままに見えたからだ。ドッキリをしかけたのは自分自身だろうが。


 その時、思ってもいないことが起きた。アキオはあたりを見回し、ぼくを見つけると大声でぼくを呼びつけた。そして「うまく行かないことがわかっていて黙っていたんだろう」とぼくを責めた。ぼくは驚いた。うまく行かないことが、早い段階でぼくには分かっていたのだと、アキオが理解できたことに驚いたのだ。


 けれども事態はそれでは終わらなかった。アキオは「こうなったのはおまえのせいだ」と怒鳴り、「おまえが何とかしろ」と言ったのだ。「一人で何とかしろ」と。当然エリ先生が止めに入ってきたが、アキオは聞かなかった。「教育上、こういうのは徹底してやらなきゃならんのです」アキオは言った。「ずるずると見逃し続けるとこういう不貞腐れた態度を取るようになるんです。幼稚園児のくせに」。


 エリ先生は副担任であり、アキオがこのさくら組の担任なので(このことはもう言ったろうか?)、結局、理不尽なことにぼくは一人でアキオのとんでもない愚行の後始末と、発表会のための飾り付けをさせられる羽目になった。ぼくはまるで平気な顔をして、アキオの愚かしい所業を丁寧にはずして回り、新たな計画を立て、少しでも発表会にふさわしい状況を取り戻すために工夫した。何人かの友人がアキオの目を盗んで手伝ってくれた。紙の輪っかをつくり、セロテープを切ってくれ、アキオの雑な仕事の残骸を片付けてくれた。


 がんばったけれど、予想通り、どうがんばっても、もう取り返しのつかない状態なのは明らかだった。そんなことは始める前からわかっていた。手に入る限りのあわれな残骸を駆使して、できる限りの飾り付けをしたが、幼稚園児のぼくには高すぎて届かない所もある。エリ先生は手伝ってくれるが小柄なエリ先生にも無理で、大人の男であるアキオしか届かない場所がある。ぼくは意地でもアキオに頼む気はなかったし、アキオも恐らく受ける気はなかっただろう。意地悪い目でぼくのやることを見て、音を上げるのを待っていたのだ。音を上げたりするもんか。困った様子なんかみせるもんか。


 いつも気の小さなトオルが突然アキオに向かって何かを喚きはじめたのはその時のことだった。あまりにも甲高い声で、しかも泣きじゃくっていたので、何を言っているのか全く聞き取ることができなかったが、トオルがぼくのために、こんなことはやめてくれといってくれているのはわかった。それにつられて女の子たちが泣き出し、同じようにもうやめてと叫んだ。中にはごめんなさい、ごめんなさいと謝る子もいて、ぼくは舌打ちをしたいような気分になったが、ほぼさくら組の全員が泣きながらアキオに詰め寄るのを見て、ぼくの涙も止まらなくなっていた。


     *     *     *


 収拾がつかなくなったその日、お迎えにきた保護者たちは泣きじゃくる子供たちを見て仰天した。「飾り付けがうまく行かなくてショックを受けているようですが、あとは私たちがうまくやりますから」と言っているアキオの言葉にぼくは卒倒しそうになった。


 おかあさんは、ぼくの頬についた涙の跡に付いては何も言わなかったが、あまりにも理不尽なできごとだったので、ぼくは何もかもを克明に伝えた。「ベルリンの壁はいきなりできたのよね。ある日いきなり」というのが母の唯一の感想だった。もちろん、いつも通り何を言っているのかさっぱりわからない。ただ、珍しく心を決めたように「おいで」と言ってぼくの手を取った。


 家に着くと母は納戸から何かを持ち出してきた。夏に買ったまま使いそこねていた花火のファミリーセットだった。これ、どうするの?と、我ながらバカな質問をしてしまったが、もちろん花火をするに決まっている。まだ昼間だと言うのに、そんなことは母には関係ない。裏の小さな庭に出ると母は花火をぼくに持たせ、ライターの火を近づけた。ちょっと湿気ていたのか、最初パチパチ小さな音がはじけるだけだったが、やがてブワッと勢い良く炎が噴き出した。ぼくは思わず大きな声を出した。


 母も自分用の花火に火をつけると、それをぶんぶん振り回し始めた。あぶないよとぼくが言うと、「見つめているだけじゃ、頂上の方から足元に来てはくれないの!」と母はこわい顔をした。仕方なくぼくも花火を振り回すとすぐに消えた。母は次の花火をぼくに持たせるとまた火をつけた。そして自分も新しい花火を振り回しながら「エスクレメントー!」とか「おけはざまー!」とか叫び、ぼくにも復唱させた。


 大声で叫びながら、ぐるぐる回る花火を見ながら、ぼくはアキオに立ち向かって行った級友たちのことを思い出していた。一人ひとりは力もないし、まともにしゃべれもしない。でもみんなに詰め寄られたアキオは口をぱくぱくさせて慌てふためいていた。冬の花火は寒々と、季節外れもいいところだ。けれど、勢い良く噴き出す炎を振り回すうちに、胸のへんにつっかえていたものがいつのまにか消えていた。いや。消えたんじゃない。花火のファミリーセット同様、ちょっとずつ減って燃やし切ってしまったのだ。


(「冬の花火」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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