第86話 初詣
えー、新年あけましておめでとうございます。みなさまがたにおかれましては、調子のいい方はますます調子良く、そうでもないって方はちょいとばかし上向きになる、そんな年になりますことをお祈りいたします。あたしは去年までどうもロクなことがなかったンで、今年はその埋め合わせにめっぽういい年になってもらわにゃあ困る。何から何までいい年にしちまおうってんで、もう日付が変わってからずっと飲み通しなんで。ええ。どんなことが起きても「まあ、あれも酒の席でのできごとだから」なんて言えりゃあ、腹も立たないし笑い話にできるてえ勘定です。
あのう、酒飲みってのは面白いですな。花が咲いちゃ飲み、暑気払いに飲み、紅葉が綺麗だから飲み、雪見酒と称して飲む。正月なんざ、あれですよ。大晦日から元旦に日付が変わっただけで飲む。花も暑気も紅葉も雪もなくても飲む。目出たい!なんて言いましてね。何も変わったことはないんですがね。変わったのは日めくりだけで。
考えてみれば不思議なものですな。初日の出だ、なんてやってますがね。別に昨日までと何が変わったわけじゃない。だいたいおんなしところからおんなしように日が昇る。お天道様が普段の三倍くらいの早さで上がって来るとか、大きさが五倍くらいになるとか、景気付けに十も二十も出てくるなんてわけじゃあない。それだのにみんなして初日の出をありがたがる。わざわざ前の晩から苦労して山登りまでして、そいでもって拝んだりする。あれは何ですな、自分ちの窓から眺めてるんじゃ、大晦日の日の出とどこがどう違うかわかんなくなっちまうから、いつもと違う日の出を演出しにいってるんですな、察するに。
でもまあ気は心と言うんでしょうか、お正月の朝は、なんてんですかね、すがすがしい。せいせいしている。さえざえしている。笑う門には福来たるなんて申しますが、そうやって気分がすっきりしていると、いろんなことが楽しくなる。たいていのことなら腹も立たなくなる。あれは不思議ですな。
「おう、酒だ。酒をくれ」
「はいよ、おまいさん」
「なんだこの! 朝っぱらから酒を飲んじゃダメだって亭主に説教する気……え?」
「だから、はいよ、おまいさんって言ってるじゃないのさ」
「酒をくれって言ったンだよ?」
「だから、はいよ、って」
「なんだよ説教しねえのかよ」
「説教なんてしませんよ」
「飲む前から酔っぱらってんのに?」
「いいじゃないの」
「まだお日(し)様上がったばっかりなのに?」
「正月だよ。朝っぱらから飲もうじゃないのさ、あたしもお相伴にあずかりますよ」
「お? おう。そうか。そうか正月か」
お酒ってのはこわいもんですな。飲んだくれの亭主は今日がいつかなんてすっかり忘れているらしい。女房に今日は正月だって言われて目を白黒させている。
「やだねえ、お正月をお忘れかい」
「いや、忘れちゃあいねえさ。あれだろ? 大晦日の明くる日にこういきなり新年でございと」
「そうそう」
「誰が決めたか目出たい日ってことで、年にいっぺんか二へん巡って来る……」
「おほほほ。おかしなこと言うわねえ。正月が年に二へんも巡ってくるもんですか」
「今日がその正月だってのか」
「あらおかしなことを言うじゃないの。外に出てご覧なさい。門松だの、注連飾りだの」
「うちン中はどうなんでい。何にもねえじゃあねえか」
「玄関にはお餅を、表には松の枝を拾ってきてちゃあんと飾ってますよ」
「そうか」
「そうですよ。そりゃあ御節を用意する余裕はないけど、その分、やりくりしてこうして、ほら、お神酒も用意しましたよ」
「そうか! そうかい?」
「さあ、いただきましょう。目出たい日なんだからさ」
「おう。飲むか」
年がら年中、酒を食らっては女房と言い争いばかり。そんな飲んだくれの男ですから、こう聞き分けのいい女房を前にすると調子が狂っちまう。でもまあ酒には目のない男です。うまそうな樽酒の木の香りがぷんとするってえと、細かいことはどうでもよくなる。馬やなんかの落とし物に惹き付けられてく銀蝿よろしく、お神酒の香りの方につつい〜っと引き寄せられてしまう。
「さあ、おひとつどうぞ」
「おう。お酌をしてくれるのかい? うん。おーっとっとっとっと。じゃ、あれだ。おめえもひとつ」
「あら、おまいさんがかい? あたしにかい? 嬉しいねえ。じゃあいただくよ」
「ほらほらほら」
「ああもうあたしは一口あれば」
「あに言ってやんでえ、いつもお世話になってる女房様じゃあねえか。何はなくともお神酒は用意してくれておいらも嬉しいんだよ。ほら、じゃあ乾杯だ。何に乾杯する?」
「ばかねえ。お正月なんだからお正月らしく挨拶すりゃあいいじゃないのさ」
普段なら「ばかねえ」なんて言われようものならそれだけで猛り狂う男が、気分がいいもんで、うんうん、なんて聞き流す。こういうのもお正月効果のひとつですな。
「じゃあ、あけまして」
「おめでとうさん」
「今年もあれだ、ひとつなにぶんに」
「よろしくお願いいたします」
「おう。乾杯だ」
「いただきます」
「ングッングッングッ」
男が威勢良く飲む。
「うん、うん、うん」
女房もかわいく喉を鳴らす。
「プハーッ、こりゃ驚いたいい酒だね」
「うん、うん、うん」
「お、なんだおめえ、色っぺえ飲み方するじゃあねえか」
「やだよう。あたしはちょいとずつしか飲めないから」
「そうか、何だな。おまえたあ長い付き合いだが、こうして一緒に飲むこたあ、あんましなかったもんなあ」
「そうだねえ。あたしも嬉しいよ」
「ま、飲みねえ」
「あい」
なんて感じですっかり気分良く飲んで、あれこれ話を始める。小さいころの正月はどんなだったか。何をして遊んだか。喧嘩凧で一等になったなんて男が自慢すれば、女房は曲芸みたいな独楽回しができたなんて知られざる過去をあかしたりする。雑煮には何を入れたか、初詣はどこへ行ったか、何をお祈りしたか。懐かしい話に花が咲いて、すっかりきこしめして、気分が良くなった夫婦は、ふたりして一緒に初詣に行こうなんて話になる。玄関先の餅を見て男は感心する。うまいこと飾るもんだね。誰がどう見ても鏡餅だ。おまいの才覚にはほとほと感心する。がらっと戸を開けて男は目を細める。まぶしいねえ。何日ぶりだろう。
そんな調子でふらふらと表に出る。ふたりで神社の方にてくてく歩っていく。鳥居をくぐって何やら賑わった境内に入る。なけなしのさい銭を放り込んでパンパンっと柏手打ってお祈りして、そのうち男が気がつく。なんだ? あんまり正月らしくないね。おや、門松がないじゃないか。そういや、うちにも門松がなかった。松の枝を拾ってきたって門松はどうした。何だ。どうして泣いている。いいんだよ、おまいさん。いいんだって何がいい?
「あたしは嬉しいんだよ。外には出ねえって言って家ん中に引きこもりっぱなしになってたおまいさんが、こうしてあたしと一緒にここまで出てきてくれた。それだけであたしには新しい年が来たも同じだよ」
「何だ? じゃああれか、今日が正月だってのは」
「ごめんなさいよう」
「嘘だったのか。ほんとだ。セミが鳴いてら」
「堪忍しておくれ」
「堪忍も何も。おめえのおかげで出られなかった表にこうしてまた出て来られた。おう!」
「あい?」
「おめえの言う通りだ。今日がおいらの謹賀新年、めでてえ元旦だ。これからおいらは外に出るよ。仕事もする。それがおめえへのお年玉だ」
「おまいさん!」
「泣くなって」
「あたしの大好きなおまいさんが戻ってきた」
「ええ?」男は照れてしまう。「セミがミンミンうるさくて聞こえねえや」
ひきこもり男奇跡の生還のお話でございます。
(「生還」ordered by ハンサム-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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