第85話 brain train2

 目の前を魚が泳いで行く。きらり、きらり、と鱗を光らせて。その光のつぶつぶが、わたしの目の前にふわふわ漂う。はるか向こうには黄金色に輝く麦畑。豆畑の緑にくろぐろと縁取られ、まるで光がそこから溢れ出しているようだ。子どもたちの歓声のように。


 わたしは歩く。買ったばかりのジョギングシューズで跳ねるように歩く。跳ねるように? 跳ねるようにどころか、実際に跳びはねながら歩く。遠ざかった地表を眺めながら、こんなに跳び上がったことはないなあと考える。考えたところで、これはきっと夢の中なんだと思う。


 そのとたんにわたしは自由になる。わたしの身体から自由になる。わたしの年から自由になる。わたしの性別から自由になる。わたしの時間から自由になる。わたしはぐんぐん広がりすべてを受けとめる。見るのでも聞くのでも嗅ぐのでも味わうのでも触れるのでもない。ただすべてを受けとめる。


 そうじゃない。

 ここにはもう、受けとめるわたしすらいない。

 わたしがすべてになる。すべてがわたしになる。


 わたしは笑う。世界が笑う。何年も前に亡くなった兄が現れてご機嫌だねという。お兄ちゃんもと言おうとするけどわたしには身体もないし口もないから声にならない。それでは口をあげようとどこかから聞こえてきてわたしには口ができる。すかさずその口がふさがれてしまう。熱くとろけるような口づけ。ふりむくとそれはやっぱりムベキで、ムベキはわたしにあの頃の身体を与え抱きしめ愛してくれる。ムベキを受け入れたわたしの身体はいくつもに引き裂かれ枝分かれし、そのひとつひとつがぷりぷりとした官能の塊になる。


 多肉植物になったわたしのまわりにみんなが集まってきて、わたしをなで、つまみ、さすり、もみ、むしりとって食べてしまう。あまりの気持良さにわたしはあられもない声を上げ続ける。けれど、多肉植物のわたしにはもう口がないのでその声はほとんど誰にも聞こえない。わたしと、兄と、ムベキだけがそれを聞き、分かち合う。


 そうやってわたしはどんどん増殖してみんなの中に入っていくんだ。みんなの中に入り、ゆっくり動き、あるいは激しく動き、みんなを愛し、呻き声をあげさせる。列車の振動に合わせて極限まで快楽の縁をたどる。しとどに汗をかいてぐったりとした彼女の中から自分を引き出すとわたしは君に口づけをする。ああムベキ。と君は言う。わたしはムベキじゃないよと言おうとするけれど、同時にわたしは自分がムベキだということも知っている。


 きらきらと光の粒をまきちらし魚が目の前にやってくる。口吻の先にアロエをくわえ運んできてくれる。ギフトを届けてくれたのかい? とわたしか君かどこかの誰かが言って、はちきれそうな愛の肉塊を指先につまみ、半開きになった誰かの口におしこむとそれはぷちぷちと音を立ててはじけ、口元から溢れそうなジュースをほとばしらせ、無限に拡散する無邪気な笑い声を引き出す。


(「多肉植物」ordered by さんぽ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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