第81話 brain train
もうどのくらい乗っているだろうか。ひんやりとつめたい金属の支柱に頬を押し付けながらぼくは考える。窓の外はすっかり山の景色だ。木々が枝を張り出し、今にも列車の窓をたたきそうだ。開けた窓から流れ込んで来る空気は冷たく澄んでいて、ちょっと身震いするほどだ。人家はめったに見えない。いや。すでにまったく見かけない。人里離れた深山を列車はひた走る。
立ったままうとうとしていたのか頭がぼんやりして、いつごろからこの列車に乗っているのか思い出せない。突然真っ暗になる。トンネルに入ったのだ。ゴトゴトと音を立てて走る古びた列車は車内灯もつけない。昼間の日差しあふれる景色が一瞬にして消え、全てが闇に閉ざされる。何も見えない暗闇。トンネルの中にいると判断できるのは音の変化だけだ。耳が信頼できる器官になる。
トンネルを抜ける。窓から光がなだれ込み、闇に慣れ始めた目はその眩しさにくらんでしまう。次の瞬間、目に飛び込んで来るのはフルーツのような黄色、紅葉を思わせる鮮やかな赤、どこまでも吸い込まれそうな深い青、珊瑚礁を思わせる緑がかったブルー。新緑の明るい緑。フラミンゴの群れのようなピンクのかたまり。視界を埋め尽くす色彩の氾濫。ぼくは思わず知らず声をたてる。
「だから言ったろう?」サングラスをかけた父が言う。「ここではスコップが必要なんだ」
スコップ? サングラスじゃなくて? ぼくは聞き直そうとするが、もちろん父がそばにいるわけがない。父はぼくが幼稚園のころに雪山で遭難死してとっくにいない。かわりに学生時代のころに同棲していた彼女がそばに立っていて、ほら、と真っ黒なサングラスを差し出して来る。
手を伸ばし受け取ったのは一本の糸だ。それはとても長く、とてもカラフルで、たぐり寄せてもたぐり寄せても、赤黄青緑とさまざまに金属的な光を放ち続けるばかり。いっこうに端にたどりつけない。橙紫桃藍と色を変えながら糸はどんどん太くなりいまはもう綱と呼んでもいいくらいだ。いったいどこから、ぼくは疑問に思う、こんなにも長い綱がやってくるんだ?
ああそうか。急にすとんと腑に落ちた気がしてぼくは列車の窓の外を見る。この列車は決して端にたどりつくことはないんだ。窓の外は色彩の海で、それは比喩的な意味ではなく、ほんとうに海の中で、海の上で、海ではないどこかで、神の悪ふざけのようなデザインの魚が無数の人々を追いまわしている。人々は逃げ惑いながらもそれを楽しんでいる。
ほらね、と懐かしい声がする。本当だと答えながら声がした方を向く。君がそこにいる。
「天国は」ムベキが漆黒の肌を光らせながら言う。「おまえたちだけのものだとでも思っていたか?」
「ムベキ」ぼくは喉を詰まらせる。「会いたかったよ」
「もちろん会えたさ」ムベキは姿をとどめて答えてくれる。「おれたちの愛に終わりはない」
(「天国」ordered by kyouko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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