第80話 仕入れてないものを売るわけにはいかない[ブザーが鳴って6]

 ブザーが鳴って、しばらく待ったが誰も入ってこなかった。どうぞ、と声をかけてみたが、もう遅すぎたのかもしれない。そんなことがあるたびに、おれは先生のことを思い出す。いつも唐突にやって来て、唐突に去って行った先生。ある日を境にばったり姿を見せなくなり、連絡の取りようもなくなってしまった先生。その先生がブザーを鳴らして、でも入るのをためらって階段を降りて行く。そんな姿を想像してしまう。


 だからおれは思わず立ち上がり、机の前を離れ、試しにドアまで行って開けてみる。けれどそこにはもう誰もいない。留守だと思われたのかもしれない。そのたびに馬鹿だなあと自分に毒づく。ブザーを鳴らして返事がなければ、留守だと思って帰ってしまう人もいて当然だ。けれどおれは、自分が声を出したら先生が入って来れなくなるような気がして声を出せないのだ。


 もっとも、ブザーの問題は他にもある。調子が悪くてボタンを何度押しても鳴らないこともあるらしく、ここのことをよく知っている仕事仲間はときどき「押したけど鳴らなかったよ」と言いながら入って来る。接続が悪いらしいから、ギターのシールドジャック用の接点回復スプレーでも試せばいいのだが、どうも億劫で気が進まない。新しいものをつくるならともかく、もうとっくにできたつもりのものを延々いじるのはおれの性に合わないのだ。


 そんなことを考えながら作業卓の前に戻り、マックに向かって仕事をし始めるとまたブザーが鳴った。さすがに今度はおれもすぐに返事をした。どうぞ! でも誰も入ってこない。座席から腰を浮かせて波ガラス越しに様子を見ても人影も見えない。どうぞ! さらに声を張って言ってみるが一向に誰も入ってこない。耳を澄ますが人の気配もない。


 ピンポンダッシュかとも思うが、なにしろここはエレベーターなしの徒歩5階だ。ピンポンダッシュのためにわざわざ5階まで上がって来る酔狂な奴がいるとも思えない。これが夜なら怪談めいて来るけれど、いまは午前10時。明け方から激しく降っていた雨がすっかりあがって、いまはもう遠くの空に青空も見え始めている。怪談にもならない。


 気が進まなかったが、もう一度ドアを開けに行った。思った通り、廊下には誰もいない。そのとき不意に、こっちこっち、と声が聞こえた。女の子の声だった。こっちこっち、ねえ、もっと下、あなたの足元。おれが足下を見ると、戸口から30cmほどのところにリカちゃん人形が立っていた。赤い派手なチェックのワンピースに黒いレギンス、靴はヒールに木目を使った以外はシンプルな赤一色のカジュアルなものだった。


 こんにちは、私、リカちゃん。とリカちゃん人形が言った。おれはゆっくりと戸を閉めた。別に何か考えがあったわけではない。ただ、平日の午前10時にブザーが鳴って、ドアを開けたらリカちゃん人形が立っていて、こんにちは私リカちゃんと挨拶するなどということがあるはずがないと思ったから、それをなかったことにしたかったのだと思う。


 次の瞬間、やけくそのようにブザーが鳴り始めた。ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ! 仕方なくおれはドアを開け、足元のリカちゃんと再び対面した。リカちゃん人形なので顔つきはそのままだったが、明らかに怒っているのが感じられた。なにドア閉めてんのよ! 案の定、怒気を含んだ声でリカちゃんが言った。頭おかしいんじゃないの? 私がここにいるのになんでドア閉めちゃうわけ?


 いや。おれは何と答えたらいいのか迷いながら言った。気のせいかと思って。気のせい?! リカちゃんの声がヒステリックに裏返った。気のせいって何? 人が一生懸命、苦労してこのろくでもないおんぼろビルの5階くんだりまで上がって来て、必死になってブザー押してるのに返事もしない。出てきたと思ったらすぐにドアを閉める。それも2回も! 2回目なんか目も合ってるし、私の挨拶も聞いてるのに! 気のせいって何よ!


 あの。同じフロアの他の人が聞き耳を立てているにではないかと気がついておれはリカちゃんの言葉を遮った。よかったら中で話しませんか。リカちゃんは、心なしか顔を上気させているように見えたが、いつもの通りの表情でこくんとうなずき、事務所に入って来た。足元をはう配線カバーやコード類、彼女にとってはビルのような大きさに見えるはずのガラスケースなどを器用によけながら、最初の肘掛け椅子にたどりついた。


 どうするかと思って見ていると、軽々ぴょんと飛び上がり、湾曲した木製のバーの下をくぐるようにして座面に乗り、深々とすわった。それは1960年代の肘掛け椅子で、おれのお気に入りで、リカちゃんがその椅子を選んでくれてちょっと嬉しかった。おれはその辺にあった丸椅子を引き寄せるとリカちゃんがよく見える位置に座った。何か飲み物でも、と言いかけておれは言いよどんだ。飲めるのかな。


 ばかね。リカちゃんはちょっと笑ったような声で言った。わたし、人形よ。確かに。おれはその当たり前の事実をもう一度自分の中で反芻した。それで、ご用件は?

 ここに置いて欲しいの。

 は?

 ここに、リカちゃんは強調するようにゆっくり言った。おれが聞き取れなかったと思ったのかもしれない。置いて欲しいの、私を。


 それはどうかなあ。おれは状況がうまく飲み込めず、何だかあやふやな声を出してしまった。それはどうかなあ、置くって、なに?

 この探偵事務所は古道具のギャラリーでもあるんでしょう? きっとした口調でリカちゃんが言った。だからここに置いて欲しいの。

 おれが返事をためらっているとリカちゃんは続けた。


 素敵なギャラリーよね。この椅子も、あの棚も、古いラジオやミニテレビ、あれは鳩時計ね。それに電気のスイッチや蝶番、試験管やガラスボトル、医療器具。アフリカ調の人形もあるじゃない。ほらあそこにはコインを入れると男の子と女の子がキスをするおもちゃがあるわ。奥に見えるは峰不二子のフィギュアね。だったら私がここにいてもいいんじゃない?


 ちょっと待って。そうすると君はギャラリーの商品になってしまう。

 当たり前じゃないの。

 当たり前?

 だって買いに来て欲しいんだもの。

 誰に?


 その瞬間、ブザーが鳴って、ひとりの若い女性が入って来た。おれは椅子から腰を浮かした姿勢で振り返り、いつもの調子で、いま接客中ですからと言おうとして、その言葉のおかしさに気づいてへどもどしてしまった。女性はそんなおれのあたふたした様子には気づかず、探し物をしてほしいんですと言った。思い詰めた表情だった。それでおれは思い当たった。


 おれは眼を落としてリカちゃん人形を見た。リカちゃんがとびきりの笑顔を浮かべて、ね? と言った気がした。おれは女性に言ってみた。

 ひょっとして人形だったりしますか? リカちゃんとか。

 どうしてわかるんですか?

 ため息をついて、おれはリカちゃんをそっと抱き上げ、女性に見せた。

 たったいま届いたものなんですが。

 リカちゃん! 予想通り女性は声をあげた。わたしのリカちゃん!

 お金を払いますからと言い張る女性を、いいですから本当にいいんですからとなだめ、リカちゃん人形をお持ち帰りいただいた。リカちゃんは嬉しそうに何度か手を振ってくれた、ような気がした。


   でもお店の商品なんでしょう?

   いえいえ。その子は自分でここに来たんです。

   なんですって?

   仕入れてもないものを売るわけにはいきません。


 押し問答の最中におれはそんなことを言ったらしく、後に女性がブログにアップしたそのフレーズが一人歩きし、リカちゃんファンの間でおれのギャラリーはにわかに有名になってしまった。もっともエレベーターなし徒歩5階を乗り越えて訪ねてきてもらっても困るのだが。リカちゃんファンが欲しがるようなものは、残念ながら、ここにはないのだから。


(「リカちゃん」ordered by kyouko-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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