第20話 聖イグナティウス修道会の醜聞

 聖イグナティウス修道会について、はなはだ無責任な憶測が流れていることに気づいたのは3月の、まだ肌寒い頃のことだった。最初はほとんど聞き逃していた。罪のないジョークに過ぎないと思ったのだ。ぼくが帰りじたくを始めてカバンに持ち物を詰めていたらその話が聞こえて来たのだ。


「すごい勢いでなくなるらしいのよ」

「画鋲が?」

「何に使うのかしら」

「そんなにたくさんの画鋲を」

「とげとげのベルトにして腿に巻き付けたりなんかして」

「きゃー」


 カトリックのカルト教団が苦行のために用いた体罰器具のシリスは、まさしく鋼鉄の棘が飛び出したベルトを腿に巻き付けて自分を痛めつけるものだった。おおかた映画の『ダ・ヴィンチ・コード』でも見て言っているんだろうということは想像がついた。若い母親たちがずいぶんグロテスクなジョークを飛ばすものだと感心はしたが、その時はその場限りの冗談としか思わず軽く受けとめていた。


 しかし4月に入って、全然別な場所で同様な話を聞いた時にはさすがに「おや?」と思った。駅ビルのスーパーに買い物に出かけた時、ぼくの母が話しかけられその話が出たのだ。話しかけたのはぼくと同じきく組のユカリのおかあさんだった。ユカリは自分のことを可愛いと思い込んでいて、世界が自分の話を聞くのは当然というような喋り方をする。そうでなければ本当に可愛いと思うのに。母親もユカリに似たところがある。


「ねえねえ聞きました? ゆり組のマサル君のこと」

 母はゆったりとうなずき、

「求めるものには与えられるのです」

と答えた。わけがわからない。でも、それはいつものことだからか、ユカリのお母さんは気にせず続けた。というか、ユカリのおかあさんは、どうも相手は誰でもいいから話したくてたまらなかったのだろう。

「幼稚園から帰って来たら背中にひどい傷痕があったんですって。それがどう見ても」

「無知であることを自覚することこそが真理の探究へとつながるのです」

「やっぱりそう思います? 鞭ですよねえ」


 明らかな聞き違えである。けれども、いまから思えばこの時の、母とユカリのおかあさんとの会話が噂を加速させてしまったのではないかと思えなくもない。なぜならユカリのおかあさんは、歩く2ちゃんねるとでも呼ぶべき存在で、噂、推量、あてずっぽうレベルの玉石混淆の情報を瞬く間に幼稚園のママさん全員に広める力を持っていたからだ。


     *     *     *


 ぼくが通う聖イグナティウス修道院付属南山手幼稚園では、建物の内側にも外側にも2階への階段があって、外側の階段の横にはなんのためのものかよくわからない斜面がついている。この外階段を使うと園庭に直接出られる。ぼくたち年長さんの教室が2階にあるので、この階段は年長さん専用の階段だ。もちろん、ぼくらのかっこうの遊び場になっている。でも中には年中や年少組も一緒に遊びたがることがある。ダンボールのソリを使って斜面を滑降する「ダンボール滑り台ごっこ」はぼくが開発した遊びだが、身体が軽くて小さい子たちはすぐにバランスを失って倒れたり、階段側に転げ出したりすることになる。


 そういうわけで、年中さんの、ゆり組のマサルの背中が傷だらけになったのは鞭のせいなどではなく、ぼくが開発した「ダンボール滑り台ごっこ」のせいであることはあきらかだった。でもこの段階では、まだぼくは問題の大きさを理解していなかった。やがて噂には尾ひれやらはひれやらハラヒレハレホレが付き、話はいきなり聖イグナティウス修道会をめぐる、神秘主義やら狂信的カルト宗教やら血やら苦痛やら生贄やらが入り乱れたオカルティックな都市伝説へと変容していた。


 そう。

 ぼくが毎日通って、お遊戯やら体操やらお絵かきやらを楽しんでいる幼稚園は(厳密に言うと、ぼくはそのどれもそれほど楽しいと思っているわけではないが、まあここはステロタイプに無邪気に楽しんでいることにしておこう)、突如ヨーロッパ中世暗黒時代の魔女裁判的な世界と見なされるようになっていたのだ。


 曰く、子どもに残忍な体罰を与えるらしい。曰く、子どもに自罰的な器具を取り付けさせるらしい。曰く、数年前ひとりの幼稚園児が失踪したそうだが、実は園内のどこかに埋められているらしい。曰く、鶏小屋の鶏は儀式に使うためのもので、毎年ハロウィーンには1羽ずついなくなっているらしい。曰く、兎小屋に二羽いる白兎と黒兎は……。


 気がついた時にはもうどうすることもできなくなっていた。噂の中の一つ、子どもの背中についた無数の傷痕の原因をぼくは知っているのだが(というか、ぼくが原因なのだが)、いまさらそれを言い出しても、もう誰も耳を傾けてくれない。そんな説明では誰も納得してくれない。状況が手に負えなくなっていることは察しがついた。とは言え、ここまで無責任な噂話が広まっていいはずがない。大して楽しくもない幼稚園だったが、だからと言って身に覚えのない(どちらかというとぼくの側に身に覚えのある)濡れ衣を着せられていいはずもない。ぼくは内心焦った。


 そういった噂話を母がどのように受けとめていたのか、ぼくにはわからない。家ではそんな話が出たこともないし、仮に出たとしても「三段論法の一番下だけをだるま落とししてやったわ!」とか「今日の薄力粉は手強いわね」とかいうような言葉をまきちらす母が相手では何のことかさっぱり要領を得なかったに違いない。だから一体どういう経緯で母があのような形でその問題に介入しようと思ったのかは(例によって)誰も想像ができないのである。


 新年度が始まって間もなくの保護者会で、聖イグナティウス修道院の院長にして幼稚園の園長先生であるイライザ先生が、ひととおりの説明を終えた後で「最近、当修道会について残念な噂を耳にしました」と始めた瞬間、保護者席から鋭い声が飛んだ。


「すべての懺悔マスターはピルクルとともにあるのです!」


 ぼくは、その場に居合わせなくて本当に良かったと思う。母がこのようにしてその場を引っ掻き回すところをこれまで何度見て来たか知れない。そしてそのたびにぼくは文字通り顔から火が出るような思いを味わって来たのだ。いまこうして、聞いて来た話を書きつけていても恥ずかしくてたまらない。それでも、その場に居合わせなかったからまだマシだ。友だちに顔をじろじろ見られたり、「おまえんちのママだろ」と言われたりしなくてすむだけ百万倍も気が楽だ。


 母は続けた。

「あなたたち! 出産の痛みを忘れたのですか?」

 保護者席全体を見回して母は吠えたという。


 この時点では、まだ保護者の多くは母の言葉を聞いていなかったに違いない。なぜなら母は全身に緑青(ろくしょう)色のトーガのようなものをまとっており、顔もどうやらうっすら緑青色に塗っているように見え、頭にはとげとげのついた冠(やはり緑青色)、左手には大きな古い洋書らしきもの(これも緑青色)、そして右手には巨大なソフトクリームのような形のもの(当然緑青色)を握りしめており、大多数の保護者たちは(特に今年入園して来た児童の保護者たちは)、その風体に唖然としていたからだ。


「飛騨の尾奈谷に古くから伝わる風習では……」

 ひとり悦に入って喋り続ける母の言葉を聞き流してママさんたちはひそひそと囁き合い始めた。

「自由の女神?」

「自由の女神みたいだわ」

「でもどうして自由の女神?」


 何事が起こっているのかわからず壇上で凍りつく院長兼園長先生、騒然と私語を交わす保護者席、そして滔々と意味不明なスピーチを展開する母。誰が見ても収拾のつかないカオスが場を支配していた。その喧噪が頂点に達しようという時、突如母は身をおおっていたトーガを脱ぎ捨てた。スカート(もちろん緑青色)を着ていたのが不幸中の幸いだが、母は上半身真っ裸になっていたらしい。一瞬にしてその場は静まり返った。母の隣の席の人が突然おおいかぶさってきた緑青色のトーガに埋もれてもがいている以外は。


「勝手なことばかり言いなさんな!」

 母は一喝した。無責任な噂話に対して言ったのか、その場の私語に対して言ったのかよくわからないが、とにかくそう言ったそうだ。そして「経営者の悩みを社員はわかってくれない」と続けたと言う。またまた何のことかさっぱりわからない。


 その日を境に、妙な噂はぱったりとやんだ。「ソウ君のママが身体を張ってやめさせた」という言葉をその後何回か聞いた。身体を張ったのは間違いないが、母が何をしたのか、何をしたかったのかは本人のみぞ知る、である。でも、友だちのお母さんたちがその時のことを話し合うのをこっそり聞きながら、「この人たちには絶対に母のことはわからないだろうなあ」と思ったら、ぼくはなんだか得意な気分になった。そう。母のことをこの人たちは決してわかりっこない。


 そして心の中でそっとつぶやいた。

「経営者の悩みを社員はわかってくれない」

 本当は、ぼくにもさっぱりわからないんだけどね。


(「経営者の悩みを社員はわかってくれない」ordered by きのの・ランドヌール-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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