第19話 ブザーが鳴って
ブザーが鳴って、返事するより前にドアが開いた。
顔を上げてドアのほうを見るとそこには大男がいた。自慢じゃないが、おれもそれなりに背が高く、たいていの場所では大男扱いされる。背筋を伸ばして立つとみんなの頭の上を眺めることになる。一斉に見上げられるとまるで自分が小学校の先生になったみたいな気分になるのが嫌で、できるだけ自分を小さく見せようとしてきた。そのせいで猫背になってしまったくらいだ。けれど戸口に立つ男はそんな気づかいはしたこともないらしく、背筋をピンと伸ばして実に威風堂々と立っていた。いや、あそこまで背が高くなると、もうみんなに合わせようとか考えなくなるのかもしれない。
その時おれはパソコンに向かって仕事のメールに返事を書いていたところだった。メールというのはどうも苦手で、うまく書けたためしがない。ちょっと面白いネタを思いついて書いて送っても全然相手に通じていなかったり、場合によってはひどい侮辱を受けたと誤解されて以後音信不通になってしまったりする。久しぶりに会った女性にいきなり平手打ちされたこともある。よくよく聞き出したらメールの文末に書いたジョークがセクハラと感じたらしい。おれは自分のオフィスについて自虐的なギャグを書いただけで、それがどうしてセクハラになるのかわからない。メールに関してはいままでロクな思い出がない。
まあ、面白いことを書かなきゃいけないわけじゃないんだろうけれど、面白いことを書かないとなると、もうおれにはメールを書く理由はない。だから仕事の事務的な返事のメールにいたっては何を書けばいいのかさっぱりわからない。一緒に仕事をしている仲間は「わかりました」の1行でも「何日何時にうかがいます」の1行でもいいと言うのだけれど、それだけのことしか書かないメールを送るのがおれには苦痛なのだ。だったら電話で話そうや、とおれなどは思ってしまうのだ。おれは古い人間なのだろうか。
「お取り込み中ですか」
中に入って来て、戸口を完全にふさいだ形で立ち尽くしている大男が、信じられないくらい低く深い声で言った。あまりにも低く深いいい声なので、そのまま催眠術にかけられてしまうんじゃなかろうかと思ったくらいだ。あ。これは面白い。メールにこのネタを使おう。たったいま来たお客さんの声があんまり低くて……。 これセクハラじゃないよな。
「出直しましょうか」
特に苛立つ風でもなく大男が言った。
「あ、いえいえ。大丈夫です大丈夫です」
同じ言葉を2回繰り返して言うのはおれのクセだ。あんまりみっともよくないので常々これはやめたいと思っているのだが、いったん身に付いたクセというのはなかなかとれるものではない。おれは大男に、中に入って好きな椅子にかけるように勧めた。
おれのオフィスはもうすぐ築50年になろうかという古い雑居ビルの5階にあって、当時の建造物にありがちなのだが、エレベーターがついていない。だからここまでたどりついた人は、たいていちょっと息を弾ませている。息を切らしている人もいる。ぜいぜいと肩で息をしている人もいる。それが面白い。ふだん別な場所で会うときには外向けの取り澄ました顔をしているような人が、ここに来ると少しだけ頬を紅潮させていて、はあはあ言っていたりする。それだけでその人のことが好きになれる気がするのである。
ましてやそれがきれいな女性だったりすると得なものを見せてもらったような気にもなる。あ。こういうことをメールに書いたらセクハラだと思われかねないことくらいわかっている。さすがにおれもそんなことは書かない。黙って心の中でみんなの息の弾ませぶりを観察するだけだ。ところが、その大男にとっては、エレベーターなし徒歩5階は何の障害にもならなかったようだ。息も切らせていないし、汗一つ浮かべるでもない。その巨体からすると意外なくらいの軽い足どりですいすいと部屋に入ってくると、一番頑丈そうな大振りの椅子を選んでどっかりと腰を下ろした。
「ええと」
おれがどう切り出したらいいか迷っていたら、大男はまたしてもあの低く深い催眠術にかかりそうな声で言った。
「ホームページでここのことを知りました」
「ああホームページで。ホームページで、ね」
おれはまた2回繰り返して返事をした。大男は椅子にすわったまま身体を大きくひねってオフィスの中を眺め渡して、感想を述べた。
「うんなるほど。これはホームページで見たよりも素晴らしいですな」
「アンティークがお好きなんですか?」
おれのオフィスは、もともとがらんとした大きな空間だった。10人程度の小さな会社がデスクを並べて仕事できるくらいの広さがある。空間の片隅に自分のための作業スペースを小さく区切って、残りの部分を「ギャラリー」と称するレンタル・スペースとして貸し出しているのだ。それもただのレンタル・スペースなどには興味がないので、趣味で集めた古道具やアンティークを並べて、自分でメンテナンスした椅子やテーブルやその他の調度類を配置して、まるでいつかどこかの誰かの家みたいな空間にしてしまったのだ。
オープンしたばかりの頃、仕事仲間は「そんなクセのある空間じゃ使い手がいないだろう。しかもエレベーターなしの5階だし」なんて分析していたが、実際に営業を始めたところ、ここは意外なくらい人気があった。古道具店の人が展示会を開いたり、アーティストの作品展が催されたり、ミニコンサートがあったり、演劇やダンスのライブが開催されたり、落語のプライベート寄席が開かれたり。それまで会ったこともないようないろんな業界のいろんな人種に会えるようになって、おれはここでとても楽しい思いをしている。そして訪れた人の多くは、ビルの古さと、おれが集めた(そしてメンテナンスした)古いモノたちを眺めて褒めてくれる。それも嬉しい。
「とてもいい場所ですね」大男はにっこりと、これも深い笑みを浮かべて言った。「気に入りました。ここを使わせてほしいんですが」
「ああ、はいはい。どういったあれですか? ライブとかですか?」
「卒業式なんですが」
「卒業式?」
おれの声が少し裏返った。何かを聞き間違えたのかと思ったのだ。同時に、「ああ、いまはおれ、2回繰り返さなかったな」となんとなく思った。大男はゆったりと自信に満ちた口調で答えた。
「はい。卒業式です」
すっかり腰を落ち着けた様子の大男に「ワインでも飲みますか」と勧めたら快く応じたので、結局その日は「卒業式」に関する打ち合わせをしながらさんざん飲んでしまった。オフィスに置いてあった酒のストックをほとんど飲み干してしまったくらいだ。振る舞い酒用の紙パックの安いワインをあけ、ボトルのワインを赤と白の少なくとも2本あけた。大男はアンティークのさびついたソムリエナイフを器用に使ってするするとコルクを抜いてくれた。
おれのオフィスは、というか古道具のソファやおれの手製のテーブルが並ぶギャラリースペースは、ある種の人にとってはひどく居心地がいいらしく、初めて来たのに長時間滞在していく人が多い。これはおれの自慢だ。もっとも口の悪い仕事仲間などは「みんな、せっかく5階までエレベーター無しで上がって来たんだから、ただ降りるのはもったいないと思って元を取ろうとしてねばっているだけだ」などというが、それだけではないはずだ。
その夜、大男は「次は必ず酒をぶら下げて来ます」と恐縮しながら帰っていった……と思う。「と思う」というのは、どうも飲んでいる途中から記憶が曖昧で、気がついたら(めったにないことなのだが)、おれはギャラリーのソファで眠り込んでいたらしく、目が覚めるともう朝だった。
おれが片付けたのか、大男が片付けたのか、グラスはきちんと洗って棚にしまってあり、ワインのボトルもなくなっていた。だから、本当にそんな打ち合わせをしたんだろうか、だいたいここで卒業式をやるってどういうことだ、と疑いたくなるような感じさえあった。夢でも見ていたんだろうか。不安になると酒のストックがなくなっているのを確認して、間違いないだろうと自分に言い聞かせる。そんなことを何回か繰り返したところで大男からメールが届いた。
「事情ができて前日のリハーサルはキャンセルさせてください。当日、ぶっつけ本番になりますがよろしくお願いします」
とまあ、だいたいそんなことが書かれていた。正直に白状すると、おれはあの打ち合わせの日に何を話したのか全然覚えておらず、リハーサルがなくなると非常に不安だった。なのですぐに「こちらで用意することをもう一度確認したい」という旨のメールを返信したが何の反応もなかった。いったいどんな卒業式をしようというのだろう。そもそも本当に大男はやってくるのだろうか。リハーサル同様キャンセルしてしまうのではなかろうか。そうしてくれた方がほっとする、と思わなかったというと嘘になる。
やはりそのことが気になっていたのか、おれは何度かその「卒業式」に関する奇妙な夢を見た。大男と同じくらいの背丈の男女が何十人もやってきておれのオフィスの入ったビルを内側から破裂させてしまう夢。大男がすごい美人を連れて来て、いまからこの女とセックスするのでそれを見ていてほしい、それが私たちの卒業式ですと説明するという夢。大男の皮がべろりとめくれるとその中からとても小さな人間が百人くらい出てきて卒業式をするという夢。どの夢も設定は非現実的なはずなのに妙に生々しく、どの夢も本当に起こりそうな気がした。
当日、大男は一人の女性を連れて来た。二人とも黒っぽいきちんとしたスーツ姿で、大きな荷物を抱えて来ていた。大男は相変わらず息一つ乱すことなく、すいすいと歩き回っていたが、連れの女性は頬を紅潮させ、はあはあと大きく肩で息をしていた。夢の女と似ていたかどうかまではわからないが、髪の長い美しい人で、挨拶しながらおれはなんだかへどもどしてしまった。
大男はそんなおれの様子を知ってか、横から割り込むように「これ、先日いただいた分のお返し」と言って、ワインを2本差し入れてくれた。ワインには詳しくないが、そこに書かれたグランクリュというのが非常に高価なワインであることは想像がついた。「いやそれは悪いです、悪いですって」と断ろうとしたが、きっぱりした態度で手元に押し付けられ、つい受け取ってしまった。ああいうきっぱりした態度と言うのは見習いたいものだと思う。
そして。やがて始まった「卒業式」は、おれが想像していたどんなものとも違った。二人は大きな荷物の中から、たくさんの物を取り出して、おれのギャラリーの椅子の上に並べはじめた。お菓子の箱でつくったロボット、粘土細工の風変わりな動物、ビー玉を転がして遊ぶ迷路のような玩具、バドミントンかなにかをしている人物の姿をかたどったトロフィーのようなもの、ペットボトルをくりぬいて作ったミニチュアの都市、木を削って作ったトーテムポール。そしてたくさんの絵。
絵を飾る場所に迷っている風だったので、おれが木の洗濯バサミを使って壁面のピクチャーレールの下につるしてあげた。ひどく古い作品もあれば、割と真新しい作品もあった。そのうち、絵の下に付けられた小さな紙に5人ほどの名前が繰り返し登場することに気がついた。1年3組うばじまかほ、3年4組片野大吾、4年2組新城すみれ、6年4組久保田君江、6年1組遠山昇。
名前を読んでいるおれを見て大男が説明した。例の、低く、深く、いい声で。
この子たちはね、卒業できなかったんですよ。事情があって受け取ってくれる方もいなくて、作品だけが学校にずっと残っていたんです。もちろん、できればずっと取っておきたいんですが、なかなかそういうわけにもいきません。学校だって無限にスペースがあるわけじゃないんでね。
どういうことか事情がわかっておれは息が詰まったようになってしまった。そこには卒業できなかった子どもたちの描いた友だちの顔があった。お母さんの顔があった。校庭にはえている木、ペットらしい動物、学校の近くの風景があった。画用紙に粘土を貼って地中の化石を表現した作品、水たまりに映った自画像。卒業できなかった子どもたちの残影があった。おれは一枚一枚、彼らの絵を洗濯バサミでとめながら涙が止まらなくなった。
「ありがとうございます」
女の先生が涙ぐみながら言った。おれはただうなずくことしかできなかった。
「それでは今から卒業式を始めます」
大男が低く深い声で言い、卒業できなかった子ども達の名前を、ひとりひとりやさしく読み上げはじめた。
(「卒業」ordered by Dr.T-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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