第12話 神話の時代
そのリストランテは高台の上にあった。
急坂にしがみつくようにしてくるまを転がし、ようやく登りきれるような場所に店はあった。お客さんがわざわざ徒歩で訪れることなど考えられなかった。まわりは住宅ばかりで他に店があるわけでなく、特に見るべきものが近くにあるわけでもなく、ぶらぶら散策するのに向いた場所でもない。それなのに店には駐車スペースがなく、店の利用者がどうしていたのか、いまとなっては調べようもない。店についてわからずじまいなことはそれだけではなかった。
店の名前は「リストランテ・タッペッツェリーア」。タペストリーのレストランという意味らしいが、一体それが何を意味するのか、子どものころのぼくに確かめる術はなかった。タッペッツェリーアがタペストリーという意味だと知ったのだって、もっとずっと後のことだし、仮にその時点でそう聞かされていたとしても小学生の頃のぼくにはタペストリーが織物の壁掛けだということもわからなかったし、仮にそう説明されたとしても、壁掛けなんて見たことがなかったし、そもそもどうして織物なんかを壁飾りに使うのか見当もつかなかったはずだ。
正直に告白すると、いまだって見当がつくわけではない。織物を壁飾りにするような知り合いはいないし、そんなことをしている家を見たこともない。ただヨーロッパ辺りの貴族や金持ちが広壮な屋敷の装飾としてそういうことをしていたらしいと聞き知るのみだ。小学生のぼくは「タッペッツェリーア」という音の連想から単純に、「食べる場所」くらいの意味だと思っていたのだが、リストランテがレストランのことだと誰かが教えてくれてからは、すっかり混乱してしまった。だってそうなると「リストランテ」も「タッペッツェリーア」も「食べる場所」という意味になってしまうからだ。
ぼくらは、ぼくとマサヤとヨシオの三人は、しばしばリストランテ・タッペッツェリーアの敷地内に侵入した。なぜならそこは少年たちにとって実に魅力的な、秘密めいた場所だったからだ。門はいつも開け放たれ、奥に見える洋館までは砂利を敷き詰めた道が続き、その両脇にはこんもりとした植栽が迫っていた。道はそのまま建物の前面の車寄せに続くのだが、建物の右手に回り込むと驚くべきことにそこには橋が架かり、下を小さな渓流が流れていた。橋を渡ると建物の裏手に続く庭になるのだが、いったんその奥の森に踏み込めば、もう誰からも見とがめられる心配はなかった。
近所の悪童どもがそうやって公園代わりに利用していたことをリストランテの人が知っていたのかどうか、ぼくらにはわからない。なぜなら昼間ぼくらが訪れるときにはいつだってドアは閉め切られており、建物には全く人の気配がなかったからだ。ドアの前には準備中を意味するらしいイタリア語の書かれた札がかかっていた。ぼくらはこっそり門柱の脇をかすめ、木立に沿って建物の右手に回り込み、そのまま庭の奥の森の中に駆け込んで身を隠した。自転車で走り回ったり、野球やサッカーをすることに夢中だったぼくらをそこまで惹き付けた理由は、一頭の子馬だった。
その子馬は森の中に放し飼いにされていた。初めて見つけたときには仰天したが、子馬の方はぼくらを見かけても逃げもせず、むしろ好奇心いっぱいに近づいてきた。全身まっ白で、首を伸ばしても大人の背丈ほどしかなく、額の部分が少し隆起していてまるで角でも生えてきそうに見えた。子馬とぼくらはたちまち仲良くなった。教えたわけでもないのに子馬は鬼ごっこやかくれんぼに参加した。あんなに輝かしい純白の毛並みのくせに、かくれんぼをするときの子馬は絶対に見つからなかった。ぼくらが降参だと言って初めて姿を現すのだが、それはまるで何もない空間に突然滲み出してくるように見えた。
一度こんなことがあった。鬼ごっこの途中にヨシオが転んで怪我をした。膝のあたりを尖った枝かなにかに引っ掛けて切ってしまったのか、血がたくさん流れた。ヨシオは身体を起こした姿勢で膝を見て、声も出せずにぼろぼろ涙を流して痛がった。それを見てぼくなどは文字通り足がすくんでしまったくらいだ。子馬はゆっくり近づくとそっと傷口を舐めた。きっとしばらくそうしていたのだと思うが、気がつくとヨシオの膝の血は止まり、傷口もきれいに塞がっていた。ぼくらはそれを奇跡だといい、子馬の首をみんなで撫でてほめた。
ヨシオの怪我だけではない。子馬についてぼくらはそれぞれに特別な思い出がある。マサヤは一度子馬の背に乗せてもらったことがある。それはマサヤだけの体験だ。ぼくはあるとき子馬からプレゼントをもらった。それはリストランテの厨房からくすねてきたらしいコック帽だった。いたずら好きなぼくらは大笑いして子馬の手柄をほめたものだった。刺繍で縫い込まれたカッペッロという文字を人の名前だと思い、ぼくらは長らくカッペッロさんも気の毒になんて話していたが、後に調べたところ、それはイタリア語でただ「帽子」という意味だった。
こんな話を書いたのは、夕べ、ネットのニュースに、そのリストランテの話題が出ていたからだ。リストランテはとっくに閉店してしまっていたらしく、建物がどこかの企業に引き取られたという話だった。今後、一般人は入れないようになってしまうが、建物には文化財的価値が高く、特にそのタペストリーは注目に値すると紹介され、写真が出ていた。写真のサムネイルをクリックして拡大表示すると、タペストリーの中央には純白のユニコーンの姿があった。そしてその周りにはたわむれる3人の少年たち。
ぼくは妻を呼び、パソコンの画面を示し、ざっと話をした。妻はにっこり笑って、お客さんが来る前にあんまりワインを飲んじゃダメよと言い、客席のテーブルセッティングに戻った。ワインなんか飲んでないよ、まだ2杯しか。ぼくが言うとフロアから笑い声が聞こえた。ぼくはコック帽をかぶり厨房に入った。さあリストランテ・カッペッロの開店時間だ。
(「リストランテ」」ordered by Dr.T-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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