第11話 あとかたづけ

 本当に勝手な人だったから、姉からの電話で死んだと聞かされても「そうか死んじゃったか」と思っただけだった。泣きもしなかったし動揺もしなかった。これでやっと振り回されずに済む、そう思っただけだった。電話の向こうで姉が泣いているようなので私は少し意外に思った。母に対しても、姉に対しても、私に対しても、あの人は迷惑をかけ通しだったから、とてもじゃないが悲しむ気持になれなかったのだ。


 母と別れた後、何人かの女性とくっついたり離れたりした挙げ句に、一緒になった人がいると聞いていたので、お葬式も何もそっちでやったのだと思っていたら、聞くとその人とも別れて晩年は一人で暮らしていたらしい。そして身寄りのない老人として福祉課の方で火葬されたらしい。どこまで迷惑をかけたら気が済むんだろう。お葬式らしいお葬式もできなかったという。いろいろ終わったあたりでようやく私たちの連絡先がわかり、通知が来たということらしい。「部屋の片付けや遺品の整理をどうしますか」と。


 自由に動けるのは私しかいなかったので、結局私が向かうことになった。父が最期の日々を過ごしたという家に。それはいつの時代のものとも知れない、文化住宅と呼ばれたタイプの古い旧いアパートだった。壁は苔むしていて元の色がわからなくなっていた。父の部屋に上がる階段はどこもかしこも錆びていて、いくつかの段は外れてしまうのではないかと思えた。ここで父は生活保護を受けていたという。父が気の毒というのではなく、ただその惨めさに胸が痛くなった。


 202号室の前に立つ。父の姓が書かれた紙が表札代わりに貼ってあり、飴色に変色したセロテープでべたべたと貼られていた。紙のふちはぼろぼろになっていた。中に入ると、一瞬、もう片付けた後なのかと錯覚するほど物がなかった。薄いカーテン、やかん、ご飯茶碗、小さな棚に何冊かの古ぼけた文庫本。そして背の低い書き物机の上には何冊ものノート。手に取って、ぱらぱらとめくり、そうか、最期まで書き続けていたんだとつぶやいた。そう。父はある時期までそれなりに売れた作家だったのだ。


 もともと調子のいい人だったから、売れっ子になってちやほやされるようになって、どこかで何かが狂ってしまったのだろう。父が関係を持った女たちの中には、父とうまく行かなくなると、どういうつもりなのか私たちのところに無理難題をふっかけにくるのもいた。そういう理不尽な目に合う母を見ながら私は育った。あんな卑しい女にだけはなりたくない。そして別れて後までも母を苦しめ続ける父を絶対に許さない。そう。晩年が気の毒なことになっていたからってどうだというのだ。やりたい放題やってきて。


 片付けるような物はほとんどなかった。手書きのノートは持って帰るとしよう。本は古本屋に持って行くほどでもないのでゴミに出そう。本棚もやかんも食器類もゴミだ。袋に入れて出しておけば、持って行きたい人は持って行くだろう。それから書き物机の前の壁に貼られた紙を見て、そこに書かれた文字を見てわたしは息をのんだ。それは本当に突然やってきた。全く忘れていた情景がまるでついさっきのできごとのようにありありと蘇ってきた。


 私は5歳で、昔の家にいる。夜で、もう寝る時間だ、でも私は暗い廊下をとたとたと歩き、突き当たりの父の部屋を覗き込む。デスクに向かって父は何か作業をしている。母から聞いたところでは、父は何かに追われていて、それはとっても怖いものらしい。私は驚いている。あんなに強くて大きくてかっこいいおとうさんをあんなに怖がらせるなんて! それは一体どんなオバケなんだろう? いたずら心でそっと父に忍び寄り、私は作り声を出して言う。


「おとうさん、しめきり〜」

 それを聞いて父は大袈裟に反応する。

「しっしめきり!」本当は私が近づいてきたのもとっくに知っているのだ。「しめきりが来た!」

 わたしは調子に乗って父に迫る。

「しめきりだぞ〜」


 父は目を見ひらき、恐怖の表情を見せる。私はその顔がちょっと怖い。でも続けて父が「うわー! やめてくれー」と変な声を出して苦しがってみせるのでおかしくて仕方ない。だから私は笑って笑って笑い転げる。笑い転げて座っている父の上に倒れ込む。父が私を抱き上げて膝の上に座らせる。父が言う。

「しめきりがこんなおばけなら、おとうさんは頑張れそうだな」


 そして父のデスクの前の壁に、一枚の紙が貼られていたのだった。


 アパートの、書き物机の前の壁に貼られていたのはその時に見たのと同じ紙だった。父の筆跡で書かれた「締切り」の文字の下には当時の締切りの日付がいくつか。30年もの時間を経て、色が変わり縁は痛んでいたけれど、あの時の紙だということは一目見て分かった。なぜならそこにはこう書いてあったからだ。5歳の子どもの筆跡で7文字。「しめきりおばけ」。


(「締切り」」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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