第3話 フェイド・アウト

 君はぶらぶらと散歩に出かける。特にあてもなくちょっとその辺を歩き回るつもりで。しなければならないことは片付けたし、やり残したこともこれといってない。朝まだ早めの明るい水色の空にぷかぷか浮かんだ雲たちが、眠そうな朝日に照らされてふちだけ白く輝かせている。空気は冷たく澄んでいる。何種類もの鳥たちが元気よく鳴き交わしている。聞いただけで何の鳥かわかれば楽しいだろうになあと君は思う。カイツブリでないことだけは確かだな、などととりとめもなく考えてから、ふと君は何かを感じて立ち止まる。


 何かを。


 かすかな気配。それはちょうど香りのようなものと言えるかもしれない。さっきまでその場にいた女性の香水。女は立ち去って、もうそこにはいない。でも香りがまだ漂っている。いま君が初めてその場にやってきたとしたら、その香りに気づかないかもしれない。気づかないかもしれないが、それでも何かの気配を感じて、ふと立ち止まるかもしれない。


 言い換えればそれは亡霊のようなものと言ってもいい。既に死んで、もうこの世にはいなくなってしまっているのだけれど、まだ何かがそこに留まっている。もっとも、なにしろ本体はもうないのだから見ることも触ることもできない。でも確実にそこには何かを感じてしまう。誰かがここにいる、もしくはつい最近までいたんだと感じる。


 それは耳鳴りのようなものと言ってもいい。

 あるいは目覚める直前に耳元で聞いたささやき。

 ふとよみがえる口づけの味。

 肌をたどる掌の感触。

 よく知っていたはずなのに思い出せない人の顔。


 君は街角で立ち止まり、よく知っているはずの景色を、初めて訪れる場所のように眺める。そして思う。もう終わっているのだけれど、その気配が、あるいは影響がまだそこにある、と。それから自問する。終わっている、だって? 何が? でも自分でもその問いに答えることはできない。だから君はその場を離れ、またそぞろ歩きを始める。


 ふと見上げた先の窓を見て、空き家なのかなと思う。でも奥に家具の影を見て取り、空き家ではない、誰か住んでいるのだと思い直す。どうして空き家だと思ったのだろうと思うけれど、すぐに先に行ってしまう。駅近くの建物に開いた開口部を見て、ある店の情景を思い描く。その階段をとんとんと下りて行く先にカフェがあるはずだ。けれど実際にはそんな店に入った記憶はない。


 駅を眺め、その駅のホームで傘を探したことがあったような気がするが、そんなとりとめもないことを覚えているのがおかしい。あるいは人違いされたんだったか。少し歩くと古びた洋風建築の家の門に緑青をふいた看板が出ていて、そこがかつて何かの研究所だったことをうかがわせる。そうそうここの博士、新しい研究を発表していて何かとんでもない災厄を引き起こしたんじゃなかったか。でもそれが何なのか思い出すことはできない。


 マジック好きの牧師さんで有名な教会の前を通り、映画館の前を通り過ぎる。リュック・ベッソンが日本人女性とコラボレートした作品のポスターがかかっている。公園にたどりつき、噴水を見ながら君は自分が小さい頃、母親がその噴水の中をばしゃばしゃと歩き回ったことがあるような気がする。でももちろんそんなわけはない。だって君はこの町で生まれ育ったわけではないのだから。


 公園の奥には小さな動物公園があってそこは君のお気に入りの場所だ。いつも通りゾウガメのいる檻の前で立ち止まり、じっと動かないゾウガメをじっと立ち止まって見つめ続ける。いつかこいつが何かを話し掛けてきそうな気がする。そう思うけれど、別に根拠があるわけじゃない。ゾウガメは黙って瞬きもせずじっとしているだけだし、よく見かける飼育係の姿もない。


 公園内を縦横に走る散歩道を辿りながら ぶらぶらと池のほとりにたどりつきベンチに腰掛ける。池を見ているとそこから女神が出てきて「あなたが落としたのはこの軽い槍ですか? 重い槍ですか?」と聞くんじゃないかと考えて君は心の中で微笑する。 何を馬鹿なことを言っているんだ? とりとめない思いは次々に浮かぶ。さようなら風博士。さようならスマトラタイガー。


 それから不意に君は胸がいっぱいになる。喜びと悲しみと満足感とさびしさが押し寄せてきてどうすることもできなくなる。200もの夢の名残に包まれて君は公園の池のかたわらのベンチで身動きを取ることもできなくなる。そうして君は消えてしまう。誰にも気づかれずに。どこでもない街のどこでもない公園のどこでもない池のほとりのベンチで。


(「名残」ordered by くー--san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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