003:何杯飲んだか覚えてねぇわ
「そういえば部長、
キンキンに冷えた生ビールのジョッキを片手に、ふと吉岡がそんなことを言った。
「ああ? なんだそりゃ」
「いえ、別に大したことではないんですがね。単なる都市伝説──もとい怪談の類なのですが」
その日の晩、吉岡から相談に乗って欲しいと言われた俺は、駅近くの大衆居酒屋にいた。
「なんだ、吉岡。まさかお前、そんなくだらない話をするために俺を呼んだんじゃあないだろうな? こちとら忙しい身だと言うのによ」
酒は嫌いじゃない、むしろ好きな方だ。
しかしそれ以上に俺は笹原ちゃんが好きなわけで、吉岡とサシ飲みをするくらいならば日課のストーキングをしたい。
「そう言わずに聞いてくださいよ。けっこう最近ではネットの掲示板なんかにも取り上げられていて、なかなかにホットな話題なんですって」
いきなり真面目な話はしづらいですし、と吉岡は付け加えた。
「まあ、そこまで言うなら聞いてやってもいいがな……」
中身のない話にだって、部下のためなら耳を傾けてやる。
なんて素晴らしい上司なのだろうか。
そんな悦に浸っている俺をよそに、吉岡は存外熱心に語り始めた。
「そもそも被り猫ってのはモノノ
「モノノ怪?」
「あ、モノノ怪ってのは要するに妖怪や怪物、まやかしみたいなものです。そういったモノのことを総称してモノノ怪と呼ぶんですよ──最近は」
最後の三文字だけ妙に強調されたような気がしたが。
こいつ、もしかして俺のことを流行遅れなおじさんとでも思ってるんじゃあないだろうな?
「ふむ、とりあえず被り猫というモノノ怪がいるというところまでは理解したが、それがどうしたっていうんだ。結局はただの都市伝説だろう?」
「それがどうもただの都市伝説ってわけでもないんです。なんと被り猫の目撃談も各地で相次いでるんですよ」
人面犬や口裂け女の世代にモロでドンピシャだった俺にとって、それはちょっとだけ興味を沸かせる話だった。
「ほう、その被り猫ってのはいったいどんな見た目なんだ」
「見た目はごく一般的な猫です。猫と言っても黒猫だったりシャム猫だったりと種類は様々ですがね」
「それじゃあ結局はただの猫じゃあないか」
「でも、一つだけ普通の猫とは違うところがあるんです──それは尻尾です」
「尻尾?」
「尻尾が三本あるんですよ──被り猫は」
「──え?」
言われた瞬間、俺は手に持っていたジョッキを落とした。
まだ一口二口しか飲んでいなかったから、中身は随分と残っていたのに。
「ちょ、部長! 何やってるんですか!?」
「す、すまない。ちょっと酔っ払ってしまったのかもしれん」
「いや、まだ全然飲んでないじゃなないですか。あの部長がたったそれだけで酔っ払うわけないでしょうに……」
吉岡の言う通りだ。
確かに俺はまだ酔っ払ってなどいない──となると、今の話も聞き間違えってことはないのだろう。
そうこう考えているうちに店員が片付けにやってきてくれ、そのタイミングで謝罪をしつつも新しいビールを注文した。
「──で、もう一度その被り猫っていうモノノ怪について話くれないか?」
「もちろん構いませんけど……、大丈夫ですか?」
明らかに様子のおかしい俺を心配しながらも、吉岡は再び話し始めた。
「何度も言うように、被り猫というのは猫の見た目をしたモノノ怪です。しかし普通の猫と異なるのは尻尾が三本あるということですね」
俺は頷く。
少し、オーバーリアクション気味に。
「そして被り猫は、僕たち人間に憑依します。取り憑かれた人は徐々に理性を失い、まるで自由気ままに生きる猫のように本能の赴くままに行動するようになります」
「……ふむ」
「その途中過程で、その人がどこか猫っぽくなるのもポイントですね」
「猫っぽくなるってどういうことだ?」
「詳しくは知りませんが、趣味嗜好が一般的な猫と似てくるんじゃあないでしょうか。毛づくろいをしたり、コタツで丸くなったり、魚を食べたり」
すごく重要なところなのに、えらく大雑把な回答だった。
あまり参考にはならないばかりか、その頼りない知識は俺のモヤモヤを大きく刺激した。
「で、でも、猫耳や尻尾が生えてくるってわけではないんだろう?」
「それがですね、この被り猫にはちゃんとしたオチ──もとい、憑かれた人の最期があるんですよ」
「……なんだ?」
ゴクリ。
喉に魚の骨が引っかかってしまったのかというくらい、俺は大きく息を飲んだ。
「憑かれた人は、最終的に完全な猫になってしまいます。理性を失い本能で生き、人間社会に居場所失った末に野良猫となるのです。しかも憑かれて三日目で」
そして猫となった人は、世間から忘れられてしまいます。
そう言いながら吉岡は、普段と変わらない調子で話を締めくくり、乾いた喉を潤すかのようにジョッキのビールを飲み干した。
「…………」
正直、そこから先のことはあまり覚えていない。
吉岡の話を聞いて悪い予感がし、頭の中が混線状態になったということもあるだろうし、さらにそれも相まっていつもより多く酒を煽ってしまったからだ。
被り猫、笹原ちゃん、三本の尻尾、猫になる、三日で。
海鮮嫌い、毛づくろい、焼き鯖弁当、昨日のこと、忘れられる。
そんな言葉たちが頭の中をぐるぐると回る。
「──部長、大丈夫ですか? 着きましたよ、部長が言った通りのコンビニです」
「あ、ああ。すまない」
気づけばいつものコンビニにいた。
状況から察するに、どうやら酔いつぶれた俺は吉岡にこのコンビニまで送ってもらったらしい。
あくまでここは笹原ちゃんを観察するための場所であって、我が家の最寄りというわけではないのだが、泥酔状態だった俺は無意識にもこのコンビニを指定したということか。
どこまでもストーカーなんだな、俺は。
「助かったよ、吉岡」
「いいですよ、このくらい。いつも部長には助けてもらってばっかりですし」
ここから家までは結構な距離があるのだが、できた後輩を前に、これ以上の注文はできまい。
吉岡はタクシーを呼んだらしく、俺も彼が帰ったのを見計らってタクシーで帰ろう。
せっかくの後輩の親切を無下にしないための算段を立てつつ、今日のお礼を込めて少し多めにタクシー代を渡す。
「悪いですよ、こんなに」
「俺はお前よりも稼いでいるからな。いいんだ、気にするな」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えていただきます。すいません、ありがとうございます。悩みまで聞いてもらったのに、その上お小遣いまで」
そうだ、そういえば俺は今日、吉岡の悩みを聞くという話で飲んだんだった。
記憶が飛ぶくらいには酔っ払ったことだし、ちゃんと話を聞いてやれたのかは心配だったけれど、当の本人の様子を見るに、最低限のアドバイスはできたんじゃあないだろうか。
「ところで、お前の悩みとやらは解消されたのか?」
しかしそれでもちょっと気がかりだった俺は、どんな話だったのか探りを入れる。
「はい。おかげさまで、まだこの仕事を続けていこうという気になりました」
「そりゃあよかった」
適当な相槌をうつ俺。
「でもやっぱり、保健所の仕事にはなかなか慣れませんね──」
タクシーがやってきた。
彼が言い終わるちょうどのタイミングで。
「──罪のない犬猫を殺処分するのは心苦しいですから」
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