004:オルニチンはガチ


「……おえっ」


 翌日。


 しっかり二日酔いとなり、今もこうして例のコンビニで日課である笹原ちゃん観察をしている時間になっても無限に嗚咽が止まらない俺だった。

 

「さすがに飲みすぎたな、昨日は。今日は仕事にもまったく集中できなかったし、この歳になって酒に飲まれるとは情けねぇ」


 二日酔いにはシジミなどに含まれるオルニチンがよく効くらしいが、欲を言えば笹原ちゃんに俺のちんち──おっと、危ない。


 もう少しでどうしようもなく下品で知性のカケラもないことを言ってしまうところだったぜ。


 ここは大人しく彼女を遠目から眺めることによって笹原ちゃんイオンを摂取し、体調の改善に励むとしよう。


 会社だけの絡みだけでは物足りないからな。


 いやしかし、今日の笹原ちゃんも一層可愛かった気がする──なんというか、甘えてくるような感じで。


 まず声が可愛かった。


 いつもはハキハキとしているのに、今日はなぜかだったな。


 手の甲についた昼飯のぶり大根の汁をペロリと舐める仕草も愛らしかったし、仕事中に居眠りをしていた寝顔も大変キュートだった。


 とは言え、あの真面目な彼女が居眠りというのは珍しい話だ。


 聞けば、


「寝不足もので……」


 と言っていたけれど、「な」を「にゃ」と噛んでしまうほどに呂律が回らないのは心配だ。


 昨日、当の笹原ちゃんから熟睡するための豆知識を教えてもらった身としては、幾分か気がかりでもある。


 本当にただの睡眠不足のせいなのだろうか?


 肌のツヤ的にはいつもと変わらずだったし、健康状態は申し分のないように見えたけれど。


 昨晩、飲み屋で吉岡から聞いた話も相まって、変に考えすぎてしまう。


 「…………」


 来ないな、いつもの時間ならとうに過ぎているのに。


 普段なら彼女は、21時頃にこのコンビニに訪れる──しかし今はもう22時を回っていた。


 この寒空の中、体調がすこぶる悪いにも関わらず、笹原ちゃんのためなら平然と1時間くらい待ち続ける俺のストーカー執念は置いとくとして、彼女の身がちょっと心配だ。


 俺が退社する頃には彼女も帰り支度をしていたし、こんなにも時間にズレが生じるとは思えないのだが。


「気になるからと言ってこちらから迂闊に連絡できないのが、ストーカーの辛いところだな」


 なんでいつものコンビニにいないんだって聞いてやりたいけれど、それをやったら最後、俺がストーカーをしているのを自白しているようなもんだ。


 ……仕方がない。


 もうちょっと笹原ちゃんをここで待つとして、その時間を有効活用して、俺が解決するべき今のモヤモヤを整理しよう。


 被り猫──というモヤモヤを。


「そもそも被り猫なんているのか? この21世紀に」


 あくまで三尾の猫──被り猫はモノノ怪であり、都市伝説の域をでない。


 通常なら、そんな話をいい歳した大人である俺が信じる道理もない。


「でも見ちゃったんだよなぁ、尻尾が三本ある猫」


 そう、俺は見てしまったのだ。


 二日前、このコンビニで笹原ちゃんのストーカーをしていた最中に。


 しかもその猫は彼女の後ろ姿についていき、闇に紛れるように消えていった。


 俺はあの時シラフだったし、近場でも見たんだ。


 見間違うわけがない──確かに尻尾は三本あった。


「となると、やはりあれは被り猫だったってことか……」


 にわかに信じられないが、この目で見てしまったのだから仕方がない。


 次に、笹原ちゃんが被り猫に取り憑かれてしまったのか否かという話なのだが、これもおおよその答えは出ている。


 答えは──


「取り憑かれているよなぁ、やっぱり」

 

 吉岡にこの話をされてから、気になった俺も実はネットで情報を集めたりしていた。


 主に今日の仕事中にな。

 

 まあどれも信ぴょう性に欠ける情報ばかりではあったけれど、悲しいかな。


 笹原ちゃんのここ連日の異変は、すべて被り猫の症状と一致した──つまり、彼女は被り猫に取り憑かれていて、猫化の症状が進行している。


 やがて彼女は、


「世間から忘れられる、か」


 それはきっと、笹原ちゃんという存在がもともといなかったというように俺たちの記憶が書き換えられるという意味なのだろう。


 普通に考えるならば、そんな自体はありえない。


 けれども被り猫というそもそもが普通ではなく異常で、そして尋常ならざるモノノ怪の話なのだから確証もなく、やはりどれだけ考えたところでモヤモヤが晴れることはなかった──そんな時だ。


『うぅ〜、つい久しぶりの同期飲みだからって飲みすぎちゃったわぁ』


「──!」


 笹原ちゃんのカバンに仕込んある盗聴器が彼女の声を拾った。


 ネット通販で買ったこの安物の盗聴器の有効圏内はせいぜい数十メートルで、それが反応したとなると彼女はすぐ近くにいることになる。


 状況がどうであれ、見つかるのを恐れた俺はすぐさま物陰に隠れ、それとほぼ同時のタイミングで苦しそうに頭を押さえた彼女がやってきた。


 昨日の俺ほどではないにしろ、彼女もずいぶんと酔っ払っているらしく、幸いにもバレてはいないようだ。


『とりあえず水よ、水。今にも吐きそうだわ』


 言いながらコンビニに入っていく笹原ちゃん。


 言動から察するに、同期同士での飲み会があったのだろう。


 それならここにやって来るのがこの時間になったのにも納得がいく。


『でも水だけじゃあ、この酔いは覚めそうにはにゃいわね。にゃのは不幸中の幸いだわ』


 フラフラとした足取りでインスタントコーナーに向かった彼女は、とあるカップを手に取った。


『今の私にはシジミの味噌汁は必須よ! それに吐いたからか小腹も空いたわ。この時間に食べたら体に悪いのはわかっているけれど、我慢にゃらにゃい。ちょっと夜食も買っていきましょう』


 まるで何かのタカが外れたかのように、彼女は食欲の赴くままに商品をカゴへと投げ入れていく。


 鮭おにぎり、おかかおにぎり、シーフードヌードル。


 カニカマに牛乳、あたりめにツナマヨパン。


 遠目だったが、俺はしっかりとそれらを確認した。


「やっぱりありえねえよな……」


 もはやアレルギーと言ってもいいくらいに魚介類を敬遠していた笹原ちゃんが、こうも海寄りのメニューで固めてくるなんて。


 会計を済ました彼女は、足元に若干のおぼつかなさを残しつつも駆け足で──まるで魚をくわえたどら猫のように帰っていった。


「……もう、認めるしかないよな」


 やはりここ数日の彼女の身に起こった異変はどう考えたって異常であり、正常だとは思えない。


 確信した──彼女は、笹原ちゃんは被り猫に取り憑かれている。


 ともすれば、俺にできることはなんだ。


 近くの神社にでも相談して、彼女にお祓いでもしてもらおうか。


 でも仮にその旨を彼女に伝えたところで信じてもらえるとは思えないし、俺の頭がとうとうおかしくなったと思われるのが関の山だろう。


 あゝ、何もしてやれることはない。


 俺は自分の無力さに打ちひしがれるとともに、それでもなお諦めまいと思考を張り巡らせながら帰路へと着いた。


 そして、後々になってこの時の行動を後悔することになることを俺はまだ知らない──いや、厳密には後悔をすることすらできないのだけれど。


 ともかく気づくべきではあったのだ。


 今日が何曜日であり、俺が脱法ストーカーであるということに。

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