002:今日も可愛いにゃあ
「おはようございます、部長」
「おはよう、笹原ちゃん」
翌日。
いくら裏では気持ち悪がっていても、会社では直属の上司にあたる俺への挨拶は欠かさない彼女。
そんな律儀なところも彼女の数ある魅力の一つであり、その魅力を数えだしたら猫の手を借りても数えきれない──猫と言えば、彼女のスーツ。
あんなにヨレヨレだったのに、今日は下ろしたてのようにパリッとしていて、まるで昨日の三毛猫の毛並みのようだ。
アイロンでもかけたのだろうか。
「どれだけ会社が憂鬱な日でも、出社して、こうして可愛い部下に迎えてもらえると今日も一日頑張ろうという気になれるよ」
「そ、そうですか……。そう言ってもらえると、部下の私としても冥利に尽きます」
「はは、そりゃあ良かった。俺と笹原ちゃんの関係はお互いにwin-winじゃないか。これからもよろしく頼むよ」
「こちらこそ……」
そう言いながらも、きっと俺のことを朝から気持ち悪いやつだなとでも思っているのだろう。
毎晩のように彼女のことをストーキングしているからこそ、彼女の考えていることなど手に取るようにわかるのだ。
しかし俺が上司で笹原ちゃんが部下という立場上、そんなことは口が裂けても言えるはずがないので思ってもないおべっかを言う。
そんな心情のせいで少し引きつってしまっている彼女の顔もまた、俺には性的興奮に近い何かを駆り立てる一因になっているとは誰も知るまい。
「……私の顔に何か付いてますか? そんなにジッと見られて」
「いやいや、すまん。何もついてないよ。昨晩は考え事であまり寝られなかったからね、少しぼーっとしてしまっただけさ」
嘘だ。
ついつい笹原ちゃんに見とれてしまっただけだ──考え事で寝られなかったのは本当だけれども。
「睡眠不足は体に悪いですからね、今晩はゆっくり寝てください」
「そのつもりではあるけれど、果たして寝付けるか心配だなぁ」
「部長は猫背な傾向がありますからね、姿勢を見直すと良いかもしれません。あとは寝る前にホットミルクを飲んだり、アイマスクをつけると寝つきが良くなるらしいですよ。事実、私もそうしていますし」
「へえ、そうなのか」
思わぬところで彼女の知られざる家の姿を聞いてしまった。
おかげで今日の妄想も捗りそうだ。
「でも俺としては笹原ちゃんが添い寝してくれた方がよく寝れそうだけどね、がははは」
「ははは……」
彼女の右側の口角だけが上がって固まっている。
もはや俺に引いている素振りを隠しきれていない笹原ちゃんは、反応に困ったのか咄嗟に話題を戻した。
「と、ところで考え事って何ですか? お仕事のことでしょうか」
彼女の方から俺のことを訪ねてくるとは珍しい。
もちろんその質問の意図が俺に興味が湧いたからとかではなく、ただ空気を変えるための中身のないものだと理解していても、存外嬉しいことだった。
しかし、
「尻尾が三本ある猫を見てね、それについて考えてたんだよ」
とは絶対に言えない。
しかも君をストーカーしている最中のことなんて、それこそ口が裂けても。
そんなことを言ってしまえばストーカーを自白するのはもちろんのこと、周りからもとうとう頭がおかしくなった哀れなおじさんと思われてしまう。
「そうだよ、最近ちょっと仕事が立て込んでいてね」
だから俺は嘘を重ねた。
仕事熱心な上司を演じるために。
今の時代、ずっとありのままに自然体で過ごせる人はそういない。
人は誰しも役者であり、その場にふさわしい役を演じる必要がある──言うならば、猫も杓子も猫を被らなければ生きていけないのである。
「そうなんですね。新人の私じゃ力になれないかもしれませんが、どうか一人で抱え込まないようにしてください。気負い過ぎると良くないですし」
「ありがとう。笹原ちゃんみたいな優しい部下がいて恵まれているよ、俺は」
言いながら自分のデスクに座り、早速日課にとりかかる。
誤解されないように敢えて言っておくが、この場合の日課というのは文字通りその日の予定表や会議の書類に目を通すことであり、笹原ちゃんを見つめることでない。
もしやるべきことをやる前に彼女を見つめ始めてしまっては、きっと彼女に夢中になってしまい俺は仕事に手付かず。
結果、職務怠慢とみなされ減給処分を受けるだろうし、もしかすると人事によって異動させられるかもしれない。
そうなれば笹原ちゃんと今後一緒に働くことは叶わなくなってしまうので、絶対に避けなければならない。
だから真面目にすべきところは真面目に、それこそ「仕事がデキる部長」というのを演じる必要があるのだ。
「──ふぅ」
そうして機械的に今日やるべき仕事をあらかた完遂した頃には、時刻はちょうど昼飯時になっていた。
どうだ、午前中にやれることは全て片付けてやったぞ。
これで心置きなく午後は笹原ちゃんに割くことができる。
「お疲れ様です、部長。今日のお昼は近くの弁当屋で出前を取ろうってみんなで話してるんですけれど、よろしければ部長もいかがですか?」
一服していると部下の一人である吉岡がそんなことを言ってきた。
こいつは若いのに仕事ができて優秀なのだが、顔が良いのでどこかイケ好かない野郎だ。
しかも席は笹原ちゃんの隣だし、聞いた噂によると吉岡も彼女を狙っているとかそうじゃないとか。
真相はともかく、泥棒猫になりかねない危険因子は早いうちに摘んでおくに越したことはない。
「よし、お前クビ!」
「ええ!? いきなり何言ってるんですか!」
「おおっと、すまん。今のはなんでもない、忘れてくれ」
危ない、つい思っていることが口に出てしまった。
そもそも部長である俺に、いち社員を解雇する権限など持っていないのだけれど。
「えーと、弁当の話だったか? そうだな、俺も今日は出前を取るとしようか」
どこか腑に落ちない表情を浮かべる吉岡から受け取ったメニューに、どれどれと目を落とした。
しかし近頃の弁当屋は業界競争のせいで少しでも客のニーズに応えるためか、めちゃくちゃメニューが多く、優柔不断な俺にはどうも決めかねる。
「こうも種類が多いと迷うなぁ。そうだ、みんなは何を頼んだんだ──例えば笹原ちゃんとか」
気になる人のことは、何を食べるのかさえ気になる。
そんな年甲斐もなく抱いた思春期のような感情が、俺にそんな質問をさせた。
「笹原ですか? 彼女は確か焼き鯖弁当ですね」
「焼き鯖?」
「はい、なんでも今日は魚が食べたいらしく」
そんなバカな。
笹原ちゃんは魚に親を殺されたのかというくらいの筋金入りの海鮮嫌いで、寿司屋でもタマゴとイナリとカッパ巻きでヘビーローテションを組むくらいだというのに。
「じゃ、じゃあ俺も焼き鯖弁当で」
「かしこまりました」
注文を告げると、吉岡は俺のデスクを後にした。
とりあえず笹原ちゃんと同じにしたは良いものの、俺の疑問は疑問のままであり、そのモヤモヤは払拭されない。
ふと笹原ちゃんの方を見た。
彼女はパソコンと向き合いながら、その柔らかそうで細い猫っ毛の先を指でくるくると弄っている最中で──まるで猫が毛づくろいをするよう。
その時、
「──っ!」
昨日、あの三毛猫に引っ掻かれた傷が痛んだように思えたのは気のせいだろうか。
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