俺は猫ではない、彼女が猫である
だるぉ
001:ちなみにDカップだ
『──はぁ、今日も部長の気持ち悪さったらなかったわ』
美味しそうな程にまぁるい満月の夜のこと。
カバンに仕込んだ盗聴器越しに聞こえる彼女の声に、俺は今日も今日とて性的興奮に近い何かを覚える。
「はっはっは」
乾いた笑い。
俺が気持ち悪いねぇ──言ってくれるじゃないか。
かような趣味を持つ下賤な俺とは住む世界が天と地ほど違う彼女にはわからないだろうけれど、その汚物に向けるようなセリフは、こっち側の住人にとっては最上のご褒美になるんだぜ?
今晩もご馳走様です、とお礼がしたくなる。
『ほんっとに部長だけは好きになれないわ。毎日会社で会うだけでもストレスよ。おかげさまでこちとら最近は過食気味だっつーの!』
独り言にしてはやや大きすぎる声で愚痴りながら、すでにお菓子やジュースでいっぱいになっているカゴに彼女は乱暴に食べ物を投げ込んでいく。
「おいおい、不健康すぎんだろ。それじゃあ折角の美しいプロポーションが台無しになっちゃうじゃないか……」
コンビニで散財する彼女の姿を遠目から見守る俺はそんなことを呟いてみるが、もちろんこの忠告が本人の耳に届くことはない。
そう、俺はストーカー。
日中はもっぱらごく一般的なサラリーマンとして精を出すが、夜はもう一つの俺が顔を出す。
無論、ストーカーが犯罪行為だということは重々に承知している──けれども見方を変えてみれば、大事な部下が無事に家まで帰れているかのかを見守る部下思いな立派な上司ということにはならないだろうか。
「…………」
いや、ならないか。
言い訳をするな、後ろめたいことに屁理屈を並べて正当化するんじゃあない──これは普段から会社で俺が部下たちに口を酸っぱくして言っていることなのだが、まさにその通りだな。
この状況を俯瞰してみれば、やっぱり俺はただの気持ち悪いストーカーであり、それ以上でもなければそれ以下でもないのだった。
俺に求められることは、影のように気づかれることなく陰ながら彼女を見る──魅入るだけなのだ。
『そもそもなんで私だけ“ちゃん”付けで呼ぶのよ、部長は。他の人は“さん”付けで呼んでいるんだから、私も“さん”でいいじゃない。ふた回り以上離れているからかしら?』
それは娘のように愛しているからだよ、笹原ちゃん。
まあ、独身の俺に娘なんていないのだがね。
『デスクワークしててもずっと後ろに立っているし、視線が気になって集中できやしないわ。私が新人だからって舐めてるのかしら?』
背中に浮かぶブラ紐のシルエットがあまりのも魅力的でな、ついつい見とれてしまうのだよ。
『いつも帰る準備してる時に仕事渡してくるのもウザいわね。この前なんて部長と二人きりのオフィスで3時間も残業させられたし』
少しでも君といたいからね。
笹原ちゃんが吸って吐いた空気で充満したオフィスは、さながら現世のユートピアさ。
どんなに悪どいウィルスでさえ除菌されてしまうだろう。
『シャンプーを変えるたびに指摘しくるのも気持ち悪いわ。しかも商品名まで当ててくるから余計よ』
そりゃ、君がこのコンビニで買ったものは全部把握済みだからね。
捨てられたレシートは家に持ち帰って飾っているよ。
『あと私にばかりお茶汲みをさせないで欲しいわ。女子だからってお茶汲みをさせるのは立派なセクハラなのよ。しかも部長だけ異常にお代わりするし』
笹原ちゃんが俺のために入れてくれたお茶は格別なんだ、仕事終わりの一杯よりも染み渡る。
君が俺のデスクまで持ってきてくれるのも相まって、ついつい飲みすぎてしまうからか最近は頻尿だ。
『あぁ、もう! 思い出しただけでもムカついてきたわ。早く家に帰って夕飯にしましょ』
「ほう、今日はカレー味か」
海鮮が苦手な彼女のことだからシーフード味でないのはわかっていたが、カレー味なのは意外だった。
俺の今までの購入履歴による予想ではチリトマト味だと思ったのだが──ははん、さては生理前だな。
「──にゃおん」
猫の鳴き声。
「うお、びっくりした!」
彼女の観察に夢中になりすぎて気づかなかったけれど、いつの間にか猫が背後まで忍び寄っていた。
「なんだよ、驚かせんなよ。誰かに見られたと思ったじゃねーか」
「にゃあ」
ただの三毛猫。
三毛猫のオスは遺伝子的に突然変異じゃないと生まれないらしいし、きっとこいつはメスなのだろう。
痩せ方から察するに野良猫なのだろうが、毛並みは異常なほど素晴らしかった。
「ツヤツヤじゃねーか、お前。毛皮にしたら高く売れそうだな」
「にゃお」
「笹原ちゃんの制服はクリーニングする暇がないのか、いつもヨレヨレだからな。きっとお前を見たら羨むだろうぜ」
「にゃにゃ!」
鳴きながら三毛猫はすり寄ってきた。
毛皮を褒められて嬉しいのだろうか、どこか喜んでいるようにも見える。
「なんてな。猫が人間の言葉を解すはずがねえ。それこそ化け猫でもあるまいし」
「にゃぁぁ?」
「そんなあざとく首を傾げても餌はないぞ──って、痛っ!」
食べられる物は持ってないと伝えるや否や、猫は俺の手を引っ掻き、明るいコンビニの方へと駆けていった。
その態度の豹変ようたるや見事なもので、あまりの切り替えの早さに見習いたくなる。
「なんだよ、あいつ。人懐っこくて可愛いと思ったけれど、猫かぶってただけかよ──猫なだけに」
おおっと、いかんいかん!
こんな加齢臭がするようなことを言っていては、今よりも更に笹原ちゃんに嫌われてしまう。
軽蔑されるのは一向に構わないのだけれど、やっぱり限度というものがあるからな。
『アイスが溶ける前に急いで帰らなくちゃ』
俺が猫と戯れている間に会計を終えた彼女は、駆け足気味でコンビニを出た。
彼女のアパートはここからすぐの場所だ。
最後まで笹原ちゃんを見届けてあげたいのは山々なのだが、俺はいつもこのコンビニの駐車場で彼女の後ろ姿に別れを告げる。
前述した通り、すでに犯罪という自覚はあるのだけれども、家まではついていかないというの自分ルールで罪悪感を緩和しているのだ。
だから俺は彼女の家の正確な住所は知らないし、知ろうともしない。
それが俺的倫理観ギリギリの、脱法ストーカーというわけだ。
このように勝手に作ったルールを遵守し、保険をかけることによって自己の行いを少しでも正当化するというのは、このストーカー界隈では有名な話である。
おやおや、さっきと言っていることが矛盾しているな。
普段から部下に言っていることを自身ではまるで実行できていない俺だったが、人間なんて所詮そんなものだろう──誰かの前では猫をかぶって振る舞うのが、我々の本質なのだから。
「さて、俺もそろそろ帰るか」
帰りの方面が彼女とは真逆である俺に残されたタスクは、彼女が暗闇に消えるまでをそっと見届けるだけだ。
俺はスーツについた猫の毛を払いながら立ち上がり、そしてだんだんと小さくなっていく彼女の背中を見続ける。
「ん、なんだあれ?」
それは小さな影だった。
影はゆっくりと彼女に忍び寄る。
抜き足、差し足、忍び足。
老眼気味の目を凝らす。
暗がりでぼんやりとしか見えないが、その影の正体はさっきの三毛猫だった。
「あいつかよ。てっきりストーカーかと思ったわ──え?」
そんなブーメランこの上ないことを言う俺は、気付いてしまった。
さっきは全く気付かなかったのに。
「あいつの尻尾、三本じゃね?」
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