第十二章

「興味深いな」ふけだらけの頭をかきむしりながら、無精髭をぼうぼうに生やしたドイツ系の白人男性、フェルデナント・アイヒマンはつぶやいた。NASAの女性職員ジョアンナ・キャシディの目の前にある三十二インチの大型ディスプレイには、日本の衛星『かぐや』から送られたラグランジェポイントL1付近を捕らえた写真が映し出されている。日本のJAXAナンバ長官に話をつけ、こちらのシステムをリンクして撮影した衛星写真だ。そこには全長約2kmほどの巨大な物体が映し出されていた。

「新作SF映画のプロモーション写真ですか?」痩せすぎでひょろっと長身の男、ピーター・ショーだ。

「いや、大昔のテレビ番組、『バトルスターギャラクティカ』のスチル写真でしょう。しかもスターバックが女じゃなくて、男が演じていた古い方の。昔小学生のときSci−Fiテレビで見たことあるよ。この古くささはそっちのバージョンだ」ピーターと対照的な如何にもオタク然としたバーナード・ディクスンだ。彼らはジョアンナと三交代で監視をしているのだが、ちょうど非番中で就寝していたところをたたき起こされたため、着の身着のままで髪もボサボサ、服もシャツはボタンが掛け違いになっているし、襟がめくれたままであった。

「残念だが、二人ともハズレだ。これはJAXAの古い月周回衛星『かぐや』で先ほど撮影した物だ。君等が就寝中にラグランジェポイントL1に突如として出現した物体だ。形状から見て、おそらく小惑星ではなく人工物、宇宙船、あるいは宇宙ステーションの類いだと思われる」アイヒマンは口ひげこすりながら画面を見続ける。

「いや、冗談よしてください。この大きさ、2km近くありますよ。この凡例が間違ってなければ」ピーターはアイヒマンの真顔で言っていることに気づき顔色を変えた。

「じゃ、ギャラクティカが本当に母なる星、地球に辿り着いてと言うわけ?」バーナードは少しおどけた調子で言った。まさか、本気で言っているわけでは無いのだが、いかにもSFオタクを自称するバーナードらしいとアイヒマンは感じた。

「ギャラクティカかエンタープライズかは置いておいて、何らかの人工物であるかは確かだ、これが遙か彼方のコボルだかカプリカから来たか、それともデルタ宇宙域から戻った惑星連邦の船か、それとも帝国軍のスターデストロイヤーかは知らんが地球人の技術で作った物とは思えない」

「デュボア長官に報告しましょうか?」

「そうだな。取りあえず一報だけは入れておこう。だが、これだけでは証拠として弱い。角度を変えて十枚以上、あと動画も撮影したい」

「『かぐや』は三十年前の衛星です。バッテリーも充分であるかは判りません。何枚取れるか…」

「しかたない。最悪壊しても構わない、なるべくたくさんの写真が欲しい」

「しかし、日本JAXAの衛星ですよ、我々の物ではない」

「構わない。彼らにはそれ以上に貸しがあるきっと快く承諾してくれるさ」

「呆れた…」ジョアンナが言った。

「取りあえず、残りのバッテリー容量と周回測度からどの程度写真が撮影出来るかは確認してみますが、無理なようなら諦めてください」

「とにかく、頼む。俺はデュボアに報告して、それからナンバ長官にネゴって見る」アイヒマンは司令室を後にした。


「そうか、了解した。詳しい状況が判ったらまた教えてくれ」ヒューストンのNASA施設内にある宿舎のベッドで就寝中だったデュボアはアイヒマンの報告を聞いて来たるべき時が来たと確信した。これはひょっとすると、オニール達がミッションを完遂したと言うことか? しかも、あのアーティファクトを持ち帰ってくるという想定を超えた形で。だが待てよ、例えオニールがあれを発見できても、自力で持って帰るなんて出来るだろうか? それに一瞬でラグランジェポイントL1に現れたと言うことは巧く船を起動してなんらかの方法—たとえばワープなどの超光速ドライブで—ジャンプしたと言うことだ。もし、超光速ドライブもあのアーティファクトが備えているとすればこれは嬉しい誤算だ。だが、それはそれとして、どうやって月の周回軌道まで戻って来れたかが謎だ。おそらく、いや絶対にオニール達だけでは不可能だ。誰か他の者の手助けでもあったのだろうか? しかし、今はそんな事を気にしている場合では無い。アーティファクトが直ぐそこに有ると言うことは、中国とロシアに先を越される可能性がある。奴等にだけは渡すわけに行かない。特に国力で拮抗する中国には絶対にだ。宇宙開発でこれ以上奴等をのさばらせるわけには行かないのだ。あれが奴らの手に落ちたら、太陽系内をイナゴのごとく食い散らかして、我々アメリカ人には資源の枯渇した不毛な星しか残されなくなってしまう。そうなる前に切っ先を制する必要があるのだ。ロシアはおそらくまともにラグランジェポイントL1まで飛ばせる船は無い。恐らく気にする必要もなかろう。よし、考え込んでいる時間はないぞ。先手先手で実行しなければならない。

 デュボアは、明け方、まだ時計の針が三時を示したばかりという早朝にも拘わらず、ベッドから降りると大急ぎで身支度を開始した。

 まずはペンタゴンだ。すでにこの話は前々から連携している、ウィリアム・T・カーク提督と話を付ける必要がある。直ぐにでも動けるよう宇宙海兵隊一個部隊とパイロットを用意して貰う必要がある。アーティファクトの占拠して我々アメリカの管理下に直ぐにでも置かなければならない。これにはアメリカの威信と世界平和が掛かっているのだ。


 王は気密服に身を包み、青龍チンロンのペイロードの中で、目的座標であるラグランジェポイントL1に到達するのを待っていた。すでに后羿コウゲイ四号を発ってから一日が経過し、あと半日ほどで目視できる位置まで到達できる筈である。考えていたよりも随分と時間がかかる。それに一日、この格好で過ごすのは思った以上に身体に堪える。食事は丸三日分、気密服の襟部分から流動食で提供されるが、味気なくて飽きる。排泄物を処理するためのチューブも不快である。だが、問題は目標座標に到達してからだ。そこで、ターゲットの写真撮影を行い北京の航天局にレポートしなければならない。そのためには目標にできるだけ接近する必要があるのだが、ドローンのプログラムにバグがあれば、目標座標から遙か離れた場所を通過することになり、撮影もままならないだろう。だとすれば、三日間の苦行はまるまる無駄に終わるのだ。それに、私の立場も危うくなるだろう。だが、私にはどうすることもできないのだ。運良く目標のそばを通過できることを天に祈るしかないのだ。

 青龍はスイングバイの加速ポイントである月面千メートル地点をとっくに通過し、今は徐々に減速中だ。さて、あと半日は余裕がある。今のうちに食事をとって来たるべき時に備えよう。ミッション遂行中はメシも食べる暇もないほど忙しくなる。王は機密服隅に格納してある食事用のチューブをボイスコマンドで、口元まで伸ばすようにの指示を出した。間もなく、チューブがするすると口元まで伸びてきて彼が咥えられる位置で停止した。

「ううっ…」チューブからの漂う悪臭で思わず吐き気を催す。王の口内雑菌が唾と共にチューブに付着したことで繁殖して異臭を発しているのだ。本来なら抗菌加工で雑菌など繁殖しないはずだ。少なくとも想定される救難時の生命維持時間である一週間以上は抗菌効果が無ければならないと航天局の規格で決まっている筈だ。それに市販品だって抗菌加工は一年は保証されているものが当たり前だ。まさか山塞シャンツァイ品でも掴まされたのだろうか? それとも俺自身の口内細菌がそれほど強烈だという事か? いや、そんな事は有り得ない。誰かが一度使った使い回しか、それとも古すぎて抗菌作用が衰えたか? いずれにしろ、こんな代物を使い続けたらなにかの病気になる。タダでさえ、ステーションなどで長期間宇宙空間に隔離された状況だと、ウィルスや雑菌に対する免疫力も弱くなる。たしか、后羿コウゲイ一号は物資に付着した新形ウィルスの蔓延で破棄せざるを得なくなったと聞いた。表向きは事故でと言うことになっているが、実際は局からの乗組員ごと反応炉のオーバーロードによる爆発で処分されたのだ。たしか、当時の責任者は景局長だったはず。当時彼の部下だった俺は随分と冷徹な人間だと感じたが、国家の威信を守るためには必要なことだと、その当時は理解したが、いざ自分が当時の当事者と同じ立場になると思うと恐ろしいと思った。今回もなにか致命的なミスを犯せば事故に見せかけて粛正されるかもしれない。我が中国はそういう国だ。何より人命より名誉と面子が重んじられる。

 突然、機密服のヘルメットに赤い警告ランプが点り、アラームが鳴った。酸素レベルがおちている警告だ。おかしいぞ、酸素は一週間は持つようにできているはずだ。王は大慌てで現在の酸素残量を確認した。驚いたことに残量は20%だ。おかしい、元々満充填では無いのか? それとも、どこからかリークでもしているのか? 表示モードを変更して履歴を見ればいい、ととっさに気がついた。小一時間ほどいろいろと試してみたところようやく表示できたが、あまり希望がもてる結果ではなかった。すくなくとも出発前まで満充填ではあった。そして、道程の半分まではたしかに80%まで緩やかに減少していた。ところが減速し始めてから急激に減少し始めたのだ。

 なにかに引っかけて機密服が破れたのだろうか? だが、それほどの事が起きるような事が発生した覚えはまるで無い。しいて上げれば、加減速の切り替わりタイミングで衝撃を少し感じたが、少し体勢が変化しただけで、何処かにぶつかったとか、こすったとかは無かった。ペイロードの中もその辺を考慮して普段は無い、クッション材も敷いてあるから、船内の突起に引っかかる事も無い。なにより機密服自体はデブリの衝突にも耐えられるように頑丈に作ってあるから、そう簡単に穴が開くわけが無い。だと、すると罠にはめられたのかもしれない。くそ! 犯人はチャン以外に考えられない! あいつめ! 私がなにをしたというのだ! このままでは確実に死ぬ。機器の故障で無い限りあと半日もしないうちに死ぬのだ。もう全てを諦めるしか無いのかと考えが頭の中をよぎる。そして、徐々に減っていく酸素の残量インジケータからこの旅が片道切符であると言う事実を認めざるを得なくなり絶望した彼は思わず、涙を流した。もう、ミッション等どうでも良くなった。ただ、頭に浮かぶのは愛する妻、麗蓉リーロンの笑顔と彼女に二度と会えなくなるという悲壮感のみだった。


 プルシェンコはフィディラーツィヤ発射基地であるバイコヌールに出発するため、モスクワ郊外のクビンカ空軍基地に移動中であった。早朝に受けたプリコフスキー大佐によるブリーフィングによれば、アメリカに送り込んでいるスパイによりもたらされた情報から、異星人の宇宙船でほぼ間違い無いとされている。詳細は未だ不明だが、軍ではその異様な大きさから、ただの宇宙船では無く戦艦か空母の類いだと推察しており、既にアメリカ軍のみならず、中国からも興味を持たれているという情報を得ている。さらに不気味なことにヨーロッパ連合でも不審な動きが察知されている。例のラグランジェポイントでの高エネルギー反応が起きる丁度一週間前、旧ドイツ圏のドレスデン郊外の施設からロケットかミサイルが発射されている。表向きは人工衛星の発射実験とされているが、報告に寄れば人工衛星と呼ぶにはあまりにも推進エネルギーの反応が大きいらしい。推進エネルギーから一〇〇トン程度のモジュールを積載出来る大きさのロケットと推測されている。その人工衛星とされる物は地球周回軌道に数時間周回のうち、軌道を離脱している。この衛星がはたして米国なのかヨーロッパ連合なのかは不明だが、詳細がわからない分、マークをしておくべき存在だ。

 今回のミッション参加者はプルシェンコを含め、6人。少数精鋭により異星人の遺物を我が国の物として収奪する。他の勢力も狙っているとすれば六人という少数部隊では心許ないのだが、フィディラーツィヤで宇宙に人を送り出せるのは六人が限界だ。かといって、他にまともな宇宙船がない我が国では致し方ない。宇宙人の遺物アルティファクトは誰がここまで引っ張ってきたかは謎だが、未だアメリカ軍が軍隊を送り込んだという情報は無いし、ここ数日ロケットや輸送機を発射したという事実も無い。だから、早期の段階で出し抜けば、たとえ他勢力がマークしているとしても、六人という少人数でも充分遂行可能なミッションだ。ただ一つ、懸念があるとすれば、ドレスデンから打ち上げられた人工衛星とされる物体だろう。あれにアメリカ軍海兵隊が一個小隊十二人でも搭乗して、アルティファクトで衝突でもしたら、いくら少数精鋭の我々でも苦戦を強いられることは間違いない。もちろん、たまたま彼らが我々のレベルを大きく下回ると言うなら勝ち目はあるが、向こうだって精鋭部隊で編成してくるはずだ。そうなると後は運意外に勝てる要素は無くなる。だから、なるべく早期にミッションを達成しせねばなならい。

 プルシェンコ乗せたメルセデスベンツS800を運転するのはロシア航空宇宙軍の兵士。一人はユーリ・カザコフ軍曹、もう一人はアレクサンドラ・リプニツカヤ曹長と名乗った。まだ、ユリアとさほど変わらない二十代前半の男女である。既にミッションメンバーはバイコヌールに到着しており、プルシェンコが到着次第、フィディラーツィヤに搭乗して打ち上げらる予定になっている。

「もうそろそろ、クビンカにつきます。車を降りる準備を」リプニツカヤ曹長が口早にプルシェンコに告げた。

 随分と急かせるな、と彼は感じた。大昔にアストロノート候補になった際、受けたきりで、宇宙コスーマスへ行くためにまともな訓練などすっとばすなんて、通常では考えられない。俺以外にも宇宙飛行士に向いている軍人なぞ、他にも居るだろうに。それとも俺で無ければいけない理由があるのだろうか?

 俺は少しばかりパイロットとしての腕が他の奴より上なだけだ。それでもエカテリーナよりも大分落ちる。彼はこの危険なミッションを無事遂行出来るか不安であった。だが、こんな事態は誰だって未経験なのだ。彼はそう思うと、やはり自分しか適応者は居ないのだろうと悟った。

 クビンカ航空宇宙軍基地は百年以上の歴史を持つ赤軍時代からの古い基地だ。ロシアの経済状況の低迷により、ご多分に漏れずここも長期間まともな改装も行われていなかったが、百周年事業の一環として大規模改修が行われ二〇三五年に完成したばかりだった。だから、ロシアの威信をかけた最新鋭のテクノロジーを用いた基地に生まれ変わっていた。メインゲートはロマノフ朝様式を取り入れた現代建築でシンプルではあるがモダンであった。当然ではあるが歩哨も配置しているが、それは万一の場合に対応する事を主目的にしており、検問などはほぼセンサー、スキャナーを通してAIが行う。だが最終的にGOを出すのは歩哨の仕事だった。

「ご苦労様。リプニツカヤとカザコフ軍曹です。此方はプルシェンコ大佐」女性曹長が歩哨に話すと歩哨は疑う気配も無く、車を通した。

「車内を勝手にスキャンして、怪しい者で無いかを自動で判断しているんです」リプニツカヤ曹長が言った。

 ウラジオストック基地とは大違いだな、とプルシェンコは思った。ウラジオストック基地は何時でもなにもかもが不足している。昨日はエンジンの部品かと思えば今日は燃料バルブのスペアが足りないと言った具合だ。部品だけでは無い。パンや肉などの食糧にも事欠くこともある。おかげで基地の外では下士官どもが支給品の軍服などを業者に売りさばき代わりに肉やウォッカを手に入れる始末だ。そんな事がバレれば当然厳しい処罰が待っているにも拘わらずだ。

 車はやがて基地内のある一角に停車した。そこでは別の軍人がプルシェンコを待ち受けていた。

「プルシェンコ大佐。私たちはここまでです。お願いします。ここからは、あの移動用カートに乗り換えて下さい。彼処にいるニコライ軍曹とセルゲイ軍曹がTu−333がひかえている待機エリア迄連れて行ってくれます。Tu−333はいつでもバイコヌールへ飛べるように既に準備済みです」彼女はそういうと、車外に出て後部座席のドアを開け、プルシェンコに外に出るように促した。

「短い間でしたが、ご一緒できて光栄でした。ご武運を」彼女はそう言って、右手を差し出してきた。

「ありがとう」彼は彼女の右手を握り返した。思ったより小さくて華奢なほっそりとした手だった。

「大佐、私もお供できて光栄でした。ご武運を」カザコフ軍曹は手に持った、プルシェンコの手荷物を一旦、リプニツカヤに渡し、彼女と同じく右手を差し出した。

「ありがとう。また、会おう」彼は青年の手をしっかりと握り返した。だが、そうは行ったものの、もう彼らと会うこともないだろう。何故か彼は漠然とそう感じた。


 クビンカからフィラデラティーヤの発射基地であるバイコヌールに到着するまで、平均的な旅客機では少なくとも三時間以上もの所要時間を覚悟する必要があるが、軍が所有する超音速ジェット機Tuー333であれば一時間もかからない。事実、彼が音速の壁を越えたことを示すソニックブームによる不快な衝撃が覚めやらぬうちにTuー333は減速を開始した。

 申し訳程度に付いている小さな窓からを見やると、クビンカを経つ頃に未だ地平線に貼り付いていた太陽が既に高く昇り雲間にさんさんと輝いている。ここバイコヌールはクビンカに比べたらだいぶ緯度が低いので日が昇るのも早く感じるのだろう。

 だが、プルシェンコにはのんびりと窓の外を眺めながら空の旅を満喫している余裕などは無かった。搭乗早々にテレコミューティングでのクレムリンの将軍たちとの作戦ブリーフィングを受けミッションの概要と行動を共にする宙軍歩兵隊メンバーのプロフィールを頭にたたき込む必要があった。そして、それらから解放される間もなく機体は降下を開始していた。

 真冬にもかかわらずバイコヌールの気温はウラジオストックの夏日よりも暑く感じられた。タラップを降り立つと砂漠地帯らしいほこり臭い焼けた土の匂いであたりが充満していた。タラップの下には下司官と思われる若者が二人彼を待ち構えており、さっと規律正しく敬礼で彼を出迎えた。左側の若い兵士が彼に右手を差し出して話しかけてきた。

「プルシェンコ大佐ですね? 私はフルシチョフです。階級は軍曹であります。お会いできて光栄です」旧ソビエト連邦の書記長と同じ名を持つ彼は、いかにも儀礼的といった趣でプルシェンコの右手を握った。まあ、このタイプはロシア軍の中では平均的といった雰囲気だ。

 もう片割れの兵士は少し違った。すこし穏やかな感じでプルシェンコに話しかけてきた。

「ニタヤネフンです。伍長です。お会いできて光栄です。あいにく今回のミッションではお供をすることはできませんが、フィラデラティーヤまでは私たちがご案内いたします」彼は、軍人に似つかわしくない笑顔を見せてプルシェンコに言った。

「うむ、助かる。ところで宙軍のメンバーはそろっているのかね?」プルシェンコの質問を聞いた瞬間フルシチョフが怪訝な表情を見せ、口を開いた。

「いや、まだ一人だけ出頭していなくて」

「なんだ? 飛行機の到着が遅れているのか?」おかしい、私でさえもかなりぎりぎりのフライトだったはずだ。それにそもそもモスクワから来るかぎり同じ便に搭乗してないとおかしいはずだが、機内には私以外の関係者は居なかった。

「いえ、アレクサンドルはバイコヌールでしばらく前から待機しておりますが、その…、こう言っては何なのですが素行がよろしくなくて…」

「彼の事については若干知っている」

プルシェンコが話し終わらないうちにフルシチョフが口をはさんだ。彼の素行については既に情報を得ていた。一時間弱という慌ただしい旅路の最中に機内でプロフィールをざくっと見ていたからだ。大ざっぱにしか見ていられなかったがその文書からは兵士としての能力はずば抜けているにも関わらず人格や素行については問題児と言うことはそこからすぐに読みとれた。

 アレクサンドル・レベジはいわゆるアカデミー卒のエリートでは無い。十八で軍に入隊して以来一兵卒でここまで来たのだ。だがその道のりは半端な物ではなかったようだ。もともとウクライナ国境近い僻地出身だが、その生活は絵に描いたような極貧を極めた。彼の家系は先祖代々狩猟と林業を生業としていたのだが、木材の価格相場の下落などにより、その収入だけでは日々の食い扶持を得るには不十分であった。彼の一家は職を求めて、サンクトペテルブルク市に移り住み、父親は日本の自動車会社の工場で働くようになった。だが、それもつかの間、工場内の事故により、彼が未だ十代になったばかりの頃に亡くなった。会社からは補償金が出たが、退職金とあわせても一、二年分の生活費程度だった。彼にはそれほど多くの兄妹が居たわけでは無いが小さな妹と弟がいて、母親の収入だけでは生活が苦しかったこともあり、十代半ばから金になるならどんな仕事もした。十代そこそこで身長は一八〇センチ以上もあり、胸囲も一〇〇センチを余裕で超えているなど、もともと父親譲りで体格も良かったため、時には年齢を偽って、成人男性限定の仕事にも潜り込んだ。時には犯罪すれすれの仕事もあり、命の危険にさらされることもあった。一度、ピストルの銃口を突きつけられ、命を失いかけたこともある。

 やがて十八になると彼はロシア軍に入隊した。体格、体力に加え元来聡明でもあったため、同年代では極めて優秀な男だったが、人格に致命的な問題があった。ぞんざいで礼儀知らず、協調性はなく、粗暴で、時には暴力事件も起こした。

 あるときは理不尽な命令をする曹長に食ってかかり、ボコボコに半殺しのめに合わせたこともあった。本来なら軍法会議でそれなりの刑罰を受けてしかるべきだった。だが、当時の軍隊長のニコライ・ブハーリン少佐に目をかけられ、謹慎処分以上の処罰は免れてきた。


「やれやれ、早速厄介事か…」プルシェンコは独りごちた。今からこの調子だとミッションにどういう影響がでるか不安だ。 いくら優秀な兵士でもチームの和を乱す人間では困る。サッカーでも何でもスタンドプレイだけでは勝てない。

「一体、アレクサンドルは今どこに居るのだ?」そもそも宿泊所に居るのか?

「スタンツィヤ・ガラツカヤ辺りのいかがわしい店に行ってると思います。宿泊所になんて滅多に戻ってきませんよ」

「スタンツィヤ・ガラツカヤだと? ここから一時間はあるじゃ無いか?」 

 全く、絵に描いたような荒くれものじゃないか! アカデミーを出た自分からはすればミッション前に飲み歩いたり、女と遊ぶなんて想像できなかった。が、一兵卒の荒くれからしたらそういうのもいても不思議では無いのだろう。

「フルシチョフ軍曹、ニタヤフネン伍長、アレクサンドルの携帯電話番号は知っているだろうな?」

「ええ、勿論知ってます。それに既に何度かコンタクトを試みておりますが、電源が切られているようで通じません」

「非常呼集のアラームは?」

「そもそも軍服を着ていっていないので宿舎に置きっぱなしのようで、GPSもアラームバッジも宿舎の中で、呼び出しも、位置情報の取得も出来ません」

 くそったれめ! 何から何まで厄介な男だ。プライベートはいっさい探知させないつもりだ。

「こうなったら仕方ない、大至急スタンツィヤ・ガラツカヤまでアレクサンドルを連れ戻しに行ってこい」

「無理です、あそこまで往復で二時間かかりますよ? フィディラーツィヤ搭乗まであと三時間を切っているんです。探している時間を含めたら三時間で間に合うかどうか…」

「Mi−44を使え! スタンツィヤ・ガラツカヤまでなら十分もかからないで飛んでいける」 

「しかし、あれはレベル3以上の上長の許可が要ります」

 プルシェンコは少し悩んだ。彼はレベル4で許可する権限は無い。だが、此処で躊躇していられない。五時間後の出発が遅れるとさらに二十三時間を待たなければいけないからだ。彼は即座に、

「構わない。私が責任を取る直ぐに発進準備を進めろ」とフルシチョフとニタヤフネンに強い語気で命令をした。

「ダ・セル《да, сэр》」彼らは戸惑った表情で渋々といった口調で答えた。


 フルシチョフ軍曹とニタヤフネン伍長が「Mi−44」に乗り込もうとした瞬間だった。とおくから土煙をたてて何かが近づいてくる。どうやら軍用車らしい。なんとか戻ってきたか? プルシェンコは淡い期待をもってその車の影を「Mi−44」のコクピットに乗ったフルシチョフとニタヤフネンと共に見つめていた。しかしそれも暫くすると期待外れであったことが判った。車が近づくにつれそれがロシア軍の軍用車では無くAMGのGクラスであることが見て取れたからだ。

「AMGのGクラスなんて誰が来るのだろう?」少なくともアレクサンドルでは無いはずだ。いくら少尉といえども外国車、ましてやメルセデスなどの高級車は今のロシア軍少尉程度の給与では無理だからだ。

 彼はフルシチョフに目配せをして、インカムで発進の命令を下そうとした。しかし、フルシチョフとニタヤフネンはそれより先に、基地スタッフにタラップを用意するように命じた。

 一瞬プルシェンコは耳を疑ったが、やがてそれは杞憂で有ることだと確信した。AMG G6が近づくにつれ、EDMの大音量な響きがロケットの発射音ばりにとどろかせながら近づいてきたからだ。こんなあほうな奴は軍の中でも珍しい。ましてやAMGを乗っているような人間にはだ。


 ぴかぴかに磨かれたAMG G6から降りたのは身長が二メートルを超える巨人だった。


「アレクサンドル・レベジ少尉ただいま出頭しました」形式ばった口調でその巨人はその体躯にふさわしい大声でまわりの空気を震わせた。

「ご苦労。それでは…」とプルシェンコが言いかけたところで彼は踵を返して車に乗り込もうとした。

「おい、挨拶はそれだけか?」プルシェンコは彼の慇懃無礼な態度にいらついて、がなり立てた。

アレクサンドル・レベジはくるっと首をひねるとプルシェンコをにらみつけた。

「発射まであと四時間程度だ、それなのに今まで何をしていた? いくら優秀だとしても規律は守れ! ニコライ少佐にはお目こぼしされていたかも知れないが、俺は彼とは違う。規律を守らないならそれ相応の処分がある」プルシェンコは彼の反抗的な目をにらみつけながらまくし立てた。

 アレクサンドル・レベジは踵を戻すといきなりプルシェンコの胸ぐらを掴んで、

「なんだと? おれは時間通りに戻ってきた。オフの時間には何をしようが自由だ! 文句が有るか? それに俺はお前上長とは認めていない。おれに命令しても納得できる命令以外は従うつもりは無いからな!」と、激しくがなり立てた。

「命令違反はは軍紀違反になるぞ!」

プルシェンコは捕まれた胸ぐらからレベジの手を振りほどく。きつく締め付けられたせいか、首元に赤く跡が残っている。心なしか顔面も紅潮していた。だが、吐息は何事も無かったように何時もと何も変わらなかった。

「そんな事知ったことか! 手柄を立てれば問題無いだろうが! クソ野郎!」レベジはは再びプルシェンコの胸ぐらを掴もうとしたが、彼はその手を振り払う。

「その台詞、覚えておけ! 此方は逐一記録するからな!」彼は両手を後ろ手に組んでそう言い放った。

「アカデミー出のお坊ちゃまに何が出来る?実際の戦闘の指揮は俺が執る。 せいぜ名誉の戦死でもならないように宇宙船の隅でおとなしくしていろ! そうでないとあっという間にデブリになっちまうぜ!」レベジはプルシェンコを指さし言い放った。

「フン! まあいいさ。だが俺はプリコフスキー提督から全権を委任されている。これが何を意味するか判るか? 好きなようにやるのはともかく命令違反に値する、勝手な行動は慎むことだな。そこの高級車メルツェデスに乗れるご身分を続けたいならな」

「メルツェデスじゃない。AMG6だ」アレクサンドル・レベジはぼそっと不服そうにつぶやくとAMG6に乗り込んで去って行った。

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