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 うす暗く、だだっ広い部屋の中で青白い光がひげ面の初老の男を照らし出している。頭は禿げ上がり、たまに雑草の様に白い縮れた毛が数本生えているのみ。まるで荒野の様だが立派な人間の頭皮だ。頭髪が無いのは額から頭頂にかけてのみで、両脇と後頭部には綿毛のような縮れた白髪が申し訳程度に生えている。

「デュボア長官、エクセルシオールが消息を絶って、既に百二十時間が経過しました。おそらくは…」まだ三十代とおぼしき局のエンジニア —— おそらく、何日もまともに寝ていないのだろう、無精髭が生えた顔が皮脂でぬらぬらと光っている。そして頭髪もあぶらでべっとりと頭皮に張り付いていた —— が、モニタから振り向いて初老の男委言った。だが、男はそんな職員の忠告など聞き入れるつもりはさらさら無い。

「単に通信機が不調なだけかもしれん。アリゾナのアレンテレスコープアレイ、ミューズ、日本のムリョウタイスウも動員して探せ! すでにどれも関係者のネゴシエーションは済んでいる!」

「了解です」若いエンジニアしぶしぶといった感じで答えた。

 こいつの気持ちは痛いほど判る。通信が途絶えて既に百二十時間。しかも、無傷なら未だ良い。小惑星の破片でメインエンジン三機のうち二機がやられている。その上また何かトラブルがあって通信が途絶えているとしたら、そのトラブルは生命を脅かすほどの重大なものと言うことだ。だが、ここで諦めるわけにはいかんのだ。あれ《・・》をもし他国、ロシアか中国に見つけられでもしたら大変なことになる。世界のパワーバランスが崩れてしまいかねない。いや、絶対に崩れる。ロシアに渡っても中国に渡っても破滅しかない。中国は今のところ火星探査に夢中だし、ロシアは単独であそこ《・・・》に行くのは無理だが、もしスパイが紛れていたら…。いや、あり得ない。宇宙飛行士アストロノーツの精神探査は徹底的にやった。ドイツ人二人は少し懸念もあったが、少し感情に乏しいくらいで、それも一般人のレベルだ。一シグマも外れていない。日本人の女は中国のスパイという懸念は有ったが、DNAはD4ハプロを持っている典型的な日本人のそれであったし、精神面も特に問題は無いし、スリーパーエージェントの疑いも無い。オニール達は立派な合衆国軍人で実績もあるし、周辺調査でもアカ関係の気配は無い。だが、それでも不安だ。このような状況になっているせいで余計そう思うのかも知れない。それに一つ気になるのは旧東ドイツの外れから、何度か打ち上げられているロケットだ。当局に問い合わせるてもただの定期的な人工衛星の打ち上げとしか回答が無い。NASA《うち》の調査によればただ《・・》の人工衛星にしてはエネルギー反応が大きい。有人ロケット並みの反応なのだ。だが、同盟国であるヨーロッパ共同体でそんな怪しい動きがあるような報告は微塵も無い。デュボアは自身のオフィスに戻ると、その巨大な体躯を彼のためにあつらえた椅子に深々と座り、コンソールのモニターに命令をした。

「ジェーン」彼がそう言う、いや呼んだと言うべきかも知れない。モニターに三十代前半の赤毛の白人女性の顔が映し出された。お世辞にも美人とは言えないが、なかなか愛嬌がある女性で、デュボアのお気に入りの一人であった。

「長官、何でしょうか?」

「すまん、こんなことで呼んでしまうのは申し訳ないのだが、ひとつ私に熱いコーヒーを淹れてきて欲しい」

「あらあら、本当にたいしたことない用事ですわね。コーヒーくらいでしたら、グレイスで良いじゃ無いの? まだ大学出てほやほやの二十三歳の女の子ですよ。長官も若い女性のほうがお好きでしょう?」

「おいおい、からかわんでくれ! 誰よりも君が淹れてくれたコーヒーが飲みたいのだよ」

「そうですか。本当ならコーヒーくらい自分でお淹れになっては? と言いたい所ですけれど、ここしばらくお休みになっておられないのは存じてますから、今回は特別に淹れて差し上げますわ」

「ありがとう、助かる。できれば熱々で濃いのにしてくれ! 眠くて倒れそうなのだ」デュボアはコンソールのモニタを切ると、もったいぶりおってとぼそっと呟き、椅子に背中を預けてふんぞり返った。いつも綺麗に清掃してあるはずのオフィスの天井にちいさな染みが付いている。くそったれ、いつの間にかハエでも侵入していたのか? この世界で最先端の研究をしているここ《NASA》で?

 オニールめ、今頃あれ《・・》に乗ってこっちに向かっていれば良いのだが。いや、無理だ。あんなもの動くかどうかもわからん上に、地球人が作ったものでも無い。そんなものを動かすなど不可能だ。せめて、現在宇宙そらのドライドッグで建設中の火星探査…、 —— と表向きはなっているが本当はあれ《・・》を持ってくるはずのものだ。 —— あの、USSサラトガを直ぐにでも飛ばせたら…。だが、どれだけ急いでもあと半年以上は余裕でかかる。エンジンと外装はともかく、まだ内装と設備が整ってないし、ナビゲーションシステムも未だ準備中だ。そんな中途半端な物を飛ばすのは無理に決まっている。エクセルシオールの二の舞になるのはわかりきっている。

「長官。ずいぶんお疲れのようですね」赤毛の女がいつの間にかそこに立っていた。女はコーヒーカップ二つとポットをのせたトレイをデュボアのデスクに置き、ポットから今にも沸騰しそうなほど熱いコーヒーをカップに注いで、彼の目の前に差し出した。

「おお、助かるよ」彼は目の前のコーヒーカップと皿ごととって、砂糖もミルクも足さず、熱いにもかかわらず、そのままごくごくと飲みほそうとした。

「熱っつ!」彼はあまりの熱さに思わずカップを口から離したが、その勢いで幾分カップから溢してしまう。おかげで白いワイシャツの胸元が茶色く染まってしまった。

「慌てて飲むからですよ」赤毛の女は自分のコーヒーを飲みながら彼に言った。

「まさか、こんなに熱いとは思わなかったからな」彼は憮然として言った。

「熱いのを持ってこいと言ったのは長官ですよ」

「ああ、そうだった。すまん。ここ暫く夜もろくに寝てないからな」彼は禿げ上がった頭頂の髪の毛をなでつけた。もっとも其処に撫で付けるような髪は存在はしていないのだが、此は未だ黒黒と髪が生えていた若い頃からの彼の癖だった。

「それで、何か進展はありましたの?」

「まったくなにも無い、ダメだ。そろそろ生存限界を超えようとしている」

「連絡が途絶えてからもう百二十時間は越えてますものね。でも単に通信機が壊れているだけなのでは?」

「単に通信機が壊れているなら未だ良い。テレメトリ通信さえ途絶えているのだ。音声、映像が無理でも彼等のバイタルをテレメトリで受信は出来るはずなのだが、それすら無い」

「でも、水星、いえもっと太陽に近いバルカン・・・・・でしたっけ? さすがに其処まで遠いなら電波障害だってあるでしょうに」

「いや、電波障害は問題になるほどは無い。実はマーキュリーミッションで使っていた観測衛星が未だ生きているのだが、かろうじて電波を出しつづけていて、その信号は太陽の電磁嵐の影響でノイズは多いのだが、今現在も問題無く受信可能だ。しかもこいつは、いまさら説明も不要だろうが、十年以上昔の衛星だ。経年劣化もあるし、テクノロジーも旧式だ。それに対して最新テクノロジーを使用した、エクセルシオールがテレメトリすら送れないというのは、重大な障害があるという事だ。それが電源系がやられている事になると、水も酸素もリサイクル出来なくなり、六人中四人生存していたとしても、酸素が持つのは四十八時間が限界だ。たとえ食料があっても酸素が無ければ、生きておれん」彼は机に顔を突き伏し、その禿げ上がった頭を抱えた。

「例のサラトガは使えないのですか」

「無理だ。最低でもナビゲーションシステムまで載せる必要があるが、それも未だ未完成だ」

「いっそうのことロシアでも中国にでも泣きついたらどうです?」

「そんな事は無理だ! 奴等に借りを作るのは決して出来ん!」

「五人の人命がかかっているのですよ! そんな事を言っている場合ですか! それに中国はともかくロシアは共同プロジェクトメンバーですよ!」

「判っておる。だが奴等は信用できない。今回のプロジェクトも彼等なりの国益を考えての結果だ。奴等の遅れている技術をキャッチアップするためだと言うことは目に見えている。成果を得るまでは協力的でも結果が得られれば何時でも平気で手のひらを返して裏切るのはわかりきっておる。だから、奴等に関しては情報を限定的にしかアクセス出来ない様にしているのだ。万一、助けを求めたら、引き換えに最低でも全ての情報にアクセス出来る権限を求めてくるのは確実だ。かつてのオキナワ危機の際に中国を牽制するために彼等に静観するように求めた際も、北海道からの米軍基地撤退とクリル諸島(北方領土)、カラフトの領有権を認めることと日本にその件をあきらめる様に圧力をかけることを我々に求めてきたでは無いか? 奴等は決して見返り無しで協力するようなタマでは無い。しかも協力以上の見返りを、だ」

「それでも、頼むべきです。国家のために人命を危険にさらす事はあってはなりません」

「一応、君の意見としては聞いてはおくが、答えはノーだ。これは私だけでは無い。大統領以下すべてのアメリカ合衆国政府の意思だ」

「彼等が可哀想ですわ。国のために尽くして、見捨てられるのですから」

「もとより、覚悟の上のはずだ」

「軍人の三人はともかく、他の二人は一般人です。しかもそのうち一人は合衆国民でさえありません」ジェーンはそう言い残すと振り返りもせず部屋を出て行った。デュボアの机にはコーヒーポットと飲みかけの冷めたコーヒーが残った。


「この小さな点は何だ?」アイヒマンはジョアンナ・キャシディに尋ねた。

「判りません。十数分前位にラグランジェポイント付近に突然現れました」と彼女は訝しげに答えた。ジョアンナは現在三十三歳で、ここ《NASA》には五年前に入局した。もともとはとある軍需関連の企業でミサイルの開発を担当していた女性だが、出産を機に一度職を辞して暫くした後に、このミッションの為に雇用された。決して美人と言うわけでは無いが、年齢の割には若く見え、当初は大学新卒ではないかと殆どの局員は思ったに違いない。

「まさか、隕石では無いだろうな」アイヒマンは泊まり込み七日目でろくに剃っていない顎の無精髭をなで続けながら、DORADISS(Differential Objects Rader And Doppler Image Scan System)のモニターを見つめた。目下、エクセルシオールの遭難という、彼がこのプロジェクトマネージャーになってからの最大の危機に対処のため、ほぼ不眠で指揮を執っている最中であった。しかも、今度はそれに加えて、月と地球の間で謎の高エネルギー反応を探知したということで、新たなインシデントが発生し、局内は一層喧騒状態となっていた。

「この大きさの隕石が、これほど近くに現れていて、今まで気が付かないはずはありません」彼女は依然として驚きを隠せない様子だった。

「かなりでかいのか?」

「ええ、二百メートルから二千メートル程度」

「二百から二千? それにしてもずいぶん大きさに幅があるな」アイヒマンはサイズも然る事ながら、大きさの計測ばらつきに極端に差があることに驚いた。

「まだ情報が不足していて」彼女は必死に制御卓のキーボードをタイプして、再計算と確認をやり直しているが結果は変わらなかった。

 気が付かないほど急速に接近していると言うことは無いだろうな? そうだとすれば、場合によって甚大な被害が出る。アイヒマンは最悪の事態を懸念していた。二百メートル級なら、ニューヨークくらいの都市でも壊滅する。大西洋に落ちたとしても二百メートル級の大津波が発生して周辺はほぼ壊滅だ。これが二千メートル級なら、テキサス州程度の広さの土地が一瞬で消滅し、その後気候変動で人類は滅亡するだろう。

「移動速度は判るか?」

「いいえ、判りません。というか、一時間ほど経過してますが位置がまったく変わっておりません。ほぼ同じ場所に居ます。もちろんラグランジェポイントで、と言う意味ですが」

 よりによってラグランジェポイントに留まっているというのはどういうことだ? 隕石や小惑星の類いが偶然そこに留まるなんてあり得ない。いままでDORADISSにも反応せず、いきなり出現した様に見えるということは、月の影に居てなにかに干渉されて見えなかったのか、探知が間に合わないほど高速に移動していたのか? 人工物、たとえば未知の宇宙船か、衛星でもなければ、地球や月の重力に引き寄せられて、偶然そこに現れたということになる。そんな物が、ラグランジェポイントだからといって、都合良くそこにピタッと静止することはあり得ない。宇宙船や人工衛星の類いで無ければ。宇宙望遠鏡か監視衛星が近くにあれば、まだ何か映像で確認出来るのだが、あいにくL1ラグランジェポイントには無い。大抵の宇宙望遠鏡や監視衛星はL3か4、静止軌道に置くからだ。L2には中国のステーションがあるが、L1の真反対だ。まてよ、遙か昔に打ち上げられた日本の観測衛星、たしか「かぐや」といかいう衛星があるはずだ。大分前にミッションは完了しているが、相変わらず周回軌道上にはある。それを上手く動かせれば…。L1から位置的に一番近い観測機はそれしか無いはずだ。

「ジョアンナ、ピーターとバーナードを呼んでくれ」

「彼らは夜番が終わって、さっき睡眠休憩に入ったところです!」

「これは緊急の命令だ。彼らにしかこのミッションは無理だ。それと日本のJAXA、できればナンバ局長に繋いでくれ」


 月の裏側、ラグランジェポイントL2に浮かぶ中華人民共和国の宇宙ステーション『后羿コウゲイ四号』(中国神話に登場する人物。夷羿いげいとも呼ばれる。 弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥じょうがに裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。なお、実際の中国で月探査計画のプロジェクト名『嫦娥計画』は妻の嫦娥から引用された物である)では、司令官である王丹峰ワン・ダンフォンが、月面の採掘基地からの鉱物運搬船の受け入れ許可に署名をしているところだった。

 毎回毎回退屈な作業だ。どうせ、月から来るのは我が国の貨物船しか来ないでは無いか? なぜ、こうも毎度同じ事をしなければならないのか? こんな下らない事は私の仕事ではないはずだ。と彼は毎回同じ憤りを感じながら、署名欄にサインをして、タブレットの【发送送付】ボタンを押した。四十年前のまだ私が子供の頃ならまだ判るが、この時代に署名など馬鹿げている。我が偉大なる中国はこのような保守的な国では無いはずだ。毛沢東同士が聞いたら怒るだろう。彼はそう憤りながらも、もう仕方ないことだと諦めの感情とともに、タブレットを机に軽く押し込むと、するっと机に飲み込まれるように仕舞われた。

 さあて、これからどうするか。彼は椅子を押して立ち上がる。人工重力のおかげでかろうじてそこに留まれるが、そうたいした強さでは無い、すこし勢いをつければあっというまに天井まで飛んで頭をぶつけてしまう。それでも電磁シューズのおかげで足を床につけてさえ居れば、天井までジャンプすることは無いが、少しでも離れればアスリート並みの跳躍力かと見まがうばかりに華麗に飛ぶことが出来るだろう。

 彼は執務室の冷蔵庫から一九八〇年物の日本ウィスキー、ヒビキ二十四年を取り出しテーブルに置いた。ボトルはまるでテーブルに吸い付くようにピタリとホールドされる。このテーブルは宇宙空間で使用するために考えられたもので、天板の下には無数の小型電磁石が網の目の様に張り巡らされており、対象物を置くとセンサーでホールドすべき物と認識して局所的に磁力を発生させる。ボトルは普通、ガラス製で磁石が張り付くわけ無いが、このボトルは底面にマグネットシートを貼ってある。だから、このテーブルに置くと磁力で貼り付くわけだ。彼が取り出した耐無重力グラスの注入チューブの一端をボトルに挿しこむと、ボトルの液体が自然とグラスに注入された。これもたいした仕掛けでは無い。予めグラスの中の空気を抜いただけだ。地上ならこんな馬鹿げた真似はする必要がないが重力がほぼ無いステーションでは、たとえ一滴でも水滴が舞っただけでも致命的な事故に繋がる場合もある。全てのステーション内の機器には対策が施してあるから確率的にはそれ程の事ではないのだが、完璧はあり得ないから二重三重の対策が必要となるのだ。

 彼はチューブを吸入用に差し替え、その端を咥えてその年代物の酒をあおった《・・・・》。うむ、旨い。この年代のジャパニーズウィスキーは絶品だ。こいつは地上にいる妻に百万元で購入して貰い、ここ《后羿》に送って貰ったものだ。この酒は、すでに日本では売っていない。同じ名前の酒はあるが全く別の物だ。しかも、出荷されてもすべて中国人が買い占めてしまう。浅ましい奴等め。彼は自分の同胞であるにも関わらず、彼等を嫌っていた。金の為なら何でもやる浅ましい奴等だと。それもそのはずだった。彼は彼等とは生まれも品格も別だからだ。彼等は農民をルーツにもつ非共産党員で、日銭を稼ぐために、このように日本やヨーロッパで金目になりそうな物を貪欲に買いあさり、本国、つまり中国の富裕層に数倍の値段で売りつける下卑た階層の者だ。私は彼等とは全く異なる。代々共産党幹部を務めた先祖をルーツに持つ生粋の共産党エリートだ。私の父も母も、祖父も祖母も、そしてこの私も精華大学出身で、私は主席で卒業した。彼等とは血筋も頭脳も違う。所詮は彼等は先祖代々子々孫々支配される側で、私は支配する側なのだ。だが、それなのに何故、私はこのような苦渋辛酸を舐めさせられているのだろうか? それもこれも、あの男、高豐橋カオ・ホウチィアォのせいだ。あいつが俺を陥れ、今のような閑職に追い詰めた。ぜったいに彼奴だけは許せない。

 王は中国のエリート校精華大学に主席クラスの成績で入学し、卒業時の成績も主席クラスだった。彼は、大学卒業後テキサス大学アーリントン校の大学院に入学した。MITと迷ったが、MITは当時中国人排斥のムードがあり、あまり良い環境では無いと聞いていたので諦めたのだ。彼はここで四年間宇宙工学を学んだ後、アメリカ航空宇宙局NASA関連の企業に勤め、エンジン、制御システム開発に従事した後、中国に戻り中国国家航天局に入局した。彼は此処でみるみる成果をあげ、いずれは局長まで上り詰めると将来を嘱望されていたのだが、かれの直属上司、高により失脚させられてしまった。それ以来彼は局内の高の息がかかった者が長をしている部署をたらい回しにされたうえ、栄転だという表向きの理由で、ここ后羿の司令官に任命された。一度任命されれば、十年単位で勤めなければならず、地球への里帰り、帰還もままならない。一度は職を辞することも考えたが、家族への有らぬ弊害も考え、渋々受諾せざるを得なかったのだ。

 彼は二フィンガーのウィスキーを立て続けに二杯飲み干し、モニター端末でメッセージとニュースをうつろな瞳で眺めていた。本日の仕事はもう終わりだ、特にやることはもう無い。だが、執務時間が終わるまで、まだ二時間ほどある。少し居眠りでもするか、と彼はうつらうつらとまどろみ始めた。モニタにはアメリカの保守系ネット放送局のニュース番組がながれていた。本来なら中国本国では厳しく規制されている西側のメディアだが、ステーションではそんな規制はない。大目に見られているのか単にここまで気を回す者などいないのかは不明だが、恐らく後者なのだろう。なにしろ司令と言っても部下は十人にも満たない作業者しかいないのだから。うつろな目でぼうっと眺めていると、興味深いニュースが流れた。

『アメリカ、カナダ、EU、ロシア、日本の共同水星探査プロジェクト、マーキュリー計画のエクセルシオール号遭難』というものだった。

 ふん、どうせ我々が宇宙開発に先行している焦りで無理に進めた計画だ、と王は鼻でせせら笑った。以前から聞いてはいたが、さほど興味も無かった。どうせ失敗するに決まっていると思っていたからだ。だが、彼の認識では探査船を送り出す前に頓挫すると踏んでいたのだが、いつの間にか送り出す所まで進んでいたとはな。こんな月の裏側に居てはそんな情報も滞っている。

 彼は西側のことなど知るものかと小言でつぶやいたが、なぜか小気味よかった。西側の国、特に日本とアメリカは大嫌いだ。ついでに言うと統一朝鮮のやつらも嫌いだ。だがあいつらは今回の事故には全く関係無い。いや、半導体やエクセルフォンくらいは貢献しているかもしれん、なにしろあいつらの得意分野はそこだけだ。だがその唯一の得意分野もわが中国にとっくに抜き去られている。留学時代のあいつらときたら、アジアの盟主きどって威張り腐っていたからな。

 彼は、三杯目のウィスキーをグラスに注い《注入》だ。三杯目の酒を飲み干す頃には彼は相当酩酊していて、まどろみながら夢とも妄想ともつかぬ幻影が頭の中を駆け巡っていた。何故か、愛する妻、麗蓉リーロンが付き合い始めた当初と変わらぬ若く美しい姿でステーションを訪問していた。自分も五十過ぎの爺とは打って変わった壮健な逞しい肉体の青年のままだ。

「どうだ。此処は?」彼がそう尋ねると、彼女は凄く素敵なところね、と答えた。

「どうだ、此処で二人で暮らさないか?」彼が尋ねると、意外にも彼女は悲しげな顔で首を横に振る。

「ダメよ。貴方のことは好きだけど一緒に暮らすことは出来ないわ」

「何故だ?」好きなら何故一緒に暮らせないのか? すると彼女はお腹をさすって見せた。

「子供か? 子供が出来たのか?」彼は生まれてくる我が子の事を考えると幸せな気持ちになり、一緒に暮らせない理由は子供を地球で育てる為であると理解した。そうだな、子供が出来たならステーションで暮らすのは難しい。判るよ、大丈夫だ。俺はこのミッションが終わったら直ぐに帰る。それまで子供のことは任せるから、大事に育ててくれ、と答えようとした。だが子供が出来るならもっと嬉しそうにしても良さそうな筈だが、彼女は相変わらず、悲しい顔をしたままだった。

「貴方の子供では無いのよ。貴方がいない間、私は寂しくて…。そうしたら高が…」彼女はいっそう悲しげに彼を見つめた。

「高? あの高か?」俺の女を手込めに? ゆるせない! よりよって、俺を陥れた張本人の糞爺いめ! 

「あの野郎、もう許せない!」彼は怒りに震えた。だが、次の彼女の言葉が彼を打ちのめした。

「私あの人を愛しているの」何故だ?

「貴方みたいにアルコール中毒じゃないわ。それにアレも粗末じゃないし、貴方みたいにただ激しく動かすだけの粗雑なセックスじゃないわ」

 彼の怒りは頂点に達した。彼は彼女に飛びかかり、その顔を何度も何度も殴った。不思議なことに、次第に何事にも例えようも無い多幸感を彼は感じていた。そして、殴ることにも飽きた彼は、最後に両手で彼女の首を思い切り締め上げた。鋭利な刃物で脳髄を引き裂かれるような悲鳴を麗蓉リーロンがあげた。そのあまりにも不快な音に彼は締め上げていた彼女の首から離した両手で耳を抑えた。暫くして、彼女の事がどうなったか気になった彼は恐る恐る目を空けた。そこはいつもの執務室の机だった。そしてコンソールから聞き覚えの無いアラーム音がけたたましく鳴っていた。

 ふう、夢だったのか…。なんとも後味が悪い夢だ。だが夢で良かった。愛する麗蓉をこの手で殺すとは、なんとも気分が悪い。しかも選りに選って高と浮気などと…。あの古くさい日本製アニメーションやコメディ映画などでよくある、目の前でガス爆発でもあったかような、チリチリ頭の廃鶏の様に痩せこけたジジイのどこが良いのだ? 待て、あれは夢の話だ。麗蓉が、あんな気持ち悪い男に惚れる訳はない。しかし全く何なのだ? この騒ぎは? コンソール上のモニタスピーカから発せられた緊急通信のアラーム音がけたたましく鳴っている。彼が麗蓉の悲鳴と感じていたのはこの音だったのだ。このタイプの音は初めて聞いた。いままで、このアラーム音でのメッセージは受けたことが無い。彼は襟を正してコンソールのスイッチを0から1に倒し、次に何が始まるのか備えた。

「こちら、北京航天飛行制御センター。王指令、応答願います。王司令、聞こえておりますか?」

 王はコンソール上のモニタスピーカから流れる、女性オペレータのキンキン声で、一瞬、鼓膜に痛みを感じた。

「何なのだ、こんな時間に?」気が付けばとうに執務時間は過ぎ、既に就寝していても不思議で無い時刻だったのだ。

「お休みのところ申し訳ございません。先ほどラグランジュポイントL1にて高エネルギー反応を一瞬計測したとの報告が有りました。月周回衛星『朱雀三号』も同様な観測をしております。貴殿におきましては、至急、探査艇で目視確認を行い、景海勝ジンハイシェン局長に報告するように、とのことです」

「何を言っておる。私はパイロットの経験はないぞ!」

楊志剛ヤンチーカン少尉がいるでは無いですか?」

「彼は先月ドッキングベイの事故で死んだでは無いか? いくら君が新入りでも十人も居ないステーション人員の名簿くらい確認出来るだろう!」そもそも通話リストから選択しなければ、此処には通話できない。その際に楊がリストで『死亡』を示す赤二重線とマークされているか、リストから削除されているかどちらかを確認出来るはずだ。

「申し訳ござません。まだデータがアップデートされていないようで、楊少尉がリストから外されていない様です」全くいい加減だな。

「楊少尉の後任パイロットがいるはずです。パイロットに欠員が出た場合、局は直ちに補充する規則になってますから。確か航天局の総則第二十七…」

「規則はもういい。とっくに依頼をしておるが、まだ選定すらされていないのか、未だ候補者の名前も聞いておらんわ」王は憮然と言った。「このような状況では命令など遂行出来ぬ。局長には直ぐにパイロットの補充を進めるよう伝えることだ。それに単なる確認であれば、ドローンで事足りるでは無いか?」

「ドローンでもおおまかな写真、映像は撮ってこれますが、やはり人間の肉眼で確認が欲しいと聞いております」

「パイロットがおらぬのだから、無理なものはむりだ」

「今、局長がこれらました。直接お話なさっては?」

「判った」局長が相手だと不味いな。パイロットがいなくともお前が飛ばせ! 誘導はこっちでやるとか言いそうだ。

「景だ」恰幅の良い五十代後半の軍人がカメラの前に顔を出した。歳は俺より行っているはずなのに黒々とつやつやとした髪の毛がモニタ越しでもハッキリと判る。

「景局長! お久しぶりでございます!」エリートを自負する王でも、彼には頭が上がらない。なぜなら、彼は局長という中国国家航天局の最高責任者以前に精華大学の先輩であるためだ。強引な人ではあるが、失脚寸前の王に今の立場を用意してくれた恩人でもある。彼が尽力してくれなければ、もっと酷い立場に追いやられていたからだ。

「パイロットが居ないから無理だというのか?」景は何時になく険しい表情で言った。こんな表情の局長を見るのは久し振りだと王は思った。第一次琉球危機以来ではないか?「そうです。楊少尉は先月、事故で亡くなりましたので、後任の要求を出しているのですが、まだ決まってもいないようです」彼は景局長の機嫌を損ねぬよう慎重に言葉を選んで言った。

「よし、その件は承知した。至急代わりの者を送ろう」

 意外にあっさりだな。諦めたのか? その方が助かる。シャトルも運転出来ない俺にそんな高度なミッションは無理だ。だがそれはほんのひとときの安堵に過ぎなかった。

「だが、たとえ明日のシャトルで送るとしても月に着くのは五日後だ。それでは遅すぎる」局長は乗り出していた身体をカメラから一時退き、彼の執務室の椅子に腰を下ろした。

「しかし…」どうせよと言うのだ? まさか私がパイロットをやれと言うのか? シャトルどころか飛行機だって操縦したこともないのに。局長はいっときを置いて再びカメラの前に身を乗り出すと唐突に、

「ところで、ドローン《無人機》は何機ある?」と王に尋ねた。ドローンで何をするつもりなのだ? シャトルでの観測を諦めてドローン《無人機》でも構わないならその方が良い。現実的な選択だ。

「全部で十機、青竜一機、赤竜一機、黄竜二機、白竜、黒竜それぞれ三機ずつです」正直ほっとしたと感じながら答えた。だが、景局長の次の言葉で彼は一気に青ざめた。

「そのうち一番大きい物は青龍だな?」まさか? 王は局長がとんでもないことを言い出しそうな嫌な予感がした。

「はい」少し息が苦しくなってきた。不安を感じると何時もこうなってしまう。子供の頃からの自分の嫌なところだった。

「青龍のペイロードは?」局長の顔はいっそう険しくなり、威圧的に尋ねた。

「まさか、私がペイロードに乗り込めと?」王はつい局長の圧力に負け、自分の予感していた最悪のことを自ら口走ってしまった。

「そのまさかだ」おお、なんてことだ。

「あれは人が乗るようには出来ておりません。機密性はまったく有りませんし、気密服でも着込まないと…。まさか、気密服を着て乗り込めと…」彼は何とかこの馬鹿げた考えを局長が考え直すように懇願するように答えた。だが、局長は既に決定した事とでも言うように、

「明日までに、青龍のペイロードを空にして飛べるようにしておけ。『后羿』の作業者全員を使っても構わん。明日朝までに準備させておくんだ。お前は朝までゆっくり休め! いいな」と命じ、一方的に通信を切った。

 なんてむちゃくちゃな。暗くなったモニター画面を見つめながら、王は薄くなった頭を掻き上げた。手には抜けた髪の毛が数本。俺の髪の毛は果たして、帰還するまで持つのだろうか? 彼は不安を感じながら暫く抜けた髪の毛を見つめながらその場に立ち尽くした。だが、翌日にはそのような心配は無駄になるということは考えてもみなかった。


 ここ、后羿にはドローンが十機用意してある。単純な観測用に使う黒竜。黒竜より一回り大きい白龍、さらに大きい黄竜と、機材をより沢山を積むことが可能だ。赤竜はさらに大型で月面の採掘現場に物資の供給も可能だ。そして青龍は最も大型で、ペイロードも採掘現場に作業用アンドロイド等を数体運ぶ事も出来る。あくまでも人間用では無く、運搬用のドローンであるため、ペイロードの機密性は緩く、生命維持装置、慣性制御などもない。ペイロード内は運搬荷物コンテナ用のフックなど雑多な金具類が有るのみで、構造物はむき出しに近い。此処に生身の人間が乗ればステーション格納庫のエアロックが開いたと同時に酸欠で即死だ。だから、本来は搭乗が考慮されてない人間が乗り込むのには当然、気密服が必須である。しかも、運搬用途のドローンであるため、観測を行うことなど当然ながら、考慮されている訳では無いので、その際には一旦ペイロードの扉を開け、観測者が外部に出なければいけない。王には何故そこまでして、ラグランジュポイントL1で発生した事象を確認せねばならないのか、納得がいかなかった。そこまでするほど重要な問題が発生しているなら、なぜ直接宇宙飛行士を送り込まないのだ? 手近に居たのが俺だからだと言うことなのだろうが、別にステーションの作業員でもいいではないか? たしかにエンジニアやオペレータ、その他作業要員ばかりで正規パイロットである者はいないが、俺よりも若く多少なりとも探査艇操縦経験がある者くらいはいる。少なくともステーションメンテナンス作業で作業ポッドは操縦しているからだ。それに、この俺は共産党幹部子息だ。親戚にも共産党の要職に就いている者はいる。万が一事故でもあった場合はいくら景局長といえどもそれなりの責任はとらざれることは間違いない。なのに選りに選って何故俺なのだ?

「王司令、準備は整っています。気密服さえ着て戴ければ何時でも飛べます」整備士の張文洲チャンウェンチョウだ。この男だって、整備の傍ら何度か操縦しているはずだ。それなのに何故俺が?

「どうかしましたか?」まだ、少年ぽさが残る彼は不思議そうな表情で彼を見た。

「いや、何でも無い」后羿の司令である私がこんな小童に弱みなんか見せるわけにもいかない。舐められでもしたら困る。

「ところで気密服の用意は出来ているんだろうな?」王は少しでも張に威厳があるように見せつけるためにいつもよりぞんざいにふるまった。だが、彼はそんな王の意図など意にも介さなかったようだ。

「大丈夫です。あいにく指令の体型にあうものは此方にはありませんでしたが、緊急用の気密服があります。ステーションで事故が有った場合に使う物なので、月面作業に使うような立派な代物では有りませんが、月の上空を周回して帰ってくる程度でしたら、全く差し支えございません。むしろそもそも脱出に使う物ですから、万が一ドローンが故障して遭難しても一日二日でしたら、耐えられます」と彼はへらへらと笑いながら言った。  まったく、人ごとだな。こっちはこれからこれに乗って行くのだぞ。遭難などと不吉な事を言うな! 彼は憮然とした態度で彼の説明を聞き続けた。

「気密服を着る前に、機材等の操作方法をお教えします。それほど難しい物ではありません。カメラはほぼ全自動で、気密服の動きにシンクします。それから直接カメラを持つ必要も有りません。ドローンのレドームに備え付けてあります。それと、簡単なボイスコマンドに対応しております。撮影のオンオフは声で指示してください。向きは先ほど話したとおり司令の視線に同期します。あと、今回はドローンは通常の上下逆向きで飛行します。ペイロードのハッチが通常は下向きなのですが、観測の為ハッチを上にして飛びます。心配はなさらずとも結構。青龍はいかなる向きでも飛べるように設計されておりますから。では、早速気密服を着用しましょう。実際にきちんと動くか確認も必要ですから」張はそういうと、スタスタと気密服が置いてあるラックに進んでいった。王も慌てて彼の後をついて行く。

 気密服は緊急脱出時に使う物で、本来なら一人でも着用出来る。王も着任当時にトレーニングを受けていたのだが、必要になるような状況にも陥っておらず、着用手順などすっかり忘れてしまった。本来なら一年に一度トレーニングする規定があるのだが、ここ数年はおざなりになってしまっている。肝心の気密服だが、通常の船外作業や月面の作業に使う物に比べ、大げさなほどごつく出来ている。数年ぶりに見るのだが、印象はその時とさほどかわらず、まるで日本の相撲リキシのようだなと感じた。いざ事故が起きた場合は、長時間生命を維持しなければならないから、仕方ないのだが、もう少しマシなデザインに出来なかったのか? つくづく我が国は実利を重んじる事を優先し、こういうデザイン的なセンスは蔑ろにする傾向がある。ま、そこ我が国の良いところなのだ。日本やアメリカなど西側みたいにちゃらちゃらとしていないところが良いのだ。最近の若者はやれウニクロだなんだと上っ面だけで物を買うが、そんな物は肝心の中身はたいしたことないのだ。それを証拠にスマートフォンなどのほとんどの電子機器は我が国が覇権を握っている。

「司令、何ぼさっとしているんですか? 時間がありません。早く着替えに来てください」俺よりもふた回りも若い整備エンジニアの小僧にどやされる。なんともざまあない。五十過ぎでこんな僻地で名前だけの司令官。こいつも内心馬鹿しているに違いない。共産党エリート様のくせに地球から離れたこのステーションに追いやられた無能者。

「司令、先ずはこのインナーを来てください」若者は、白い上下のソーラーコア生地の服を放ってよこした。王はそれを慌てて掴んだが、その拍子で姿勢をくずし、弱い重力の危うくジャンプしてしまいそうになる。だがうまくキャッチできて良かった。無重力の中で取り損なうと拾いに行くのも大変だからだ。

 全く、こいつは自分の親ほどの俺に敬意もへったくれも無いのか?

「別にこんな物、着る必要は無いだろう?」王は如何にも面倒だという口調で言い放った。

「緊急用の気密服なので基本は上着さえ無ければ着れますが、専用のインナーの方が安全ですから」若者は素っ気なかった。如何にも文句を言わずに早く着ろと言いたげに思えた。

 まあ、ズボンとシャツよりは快適かもしれんな、と彼は思い直してそのソーラーコア生地の服を、そっとその場に置いて《浮かせ》、履いていたエルメスのズボンとシャツを脱ぎ、置いておいたインナースーツに着替えた。少しきついな。それにぴっちりしすぎている。これならエルメスのズボンの方がましだ。

「大丈夫ですか? 少しきつそうですが。でも我慢してください。司令に合うのはそれくらいしかないので」

 だったら聞くな! と彼はのどの奥まで出かけた言葉を押し戻した。

「次はどうすれば良いのだ?」

「こちらに来て貰って、この気密服に右から足を入れてください」エンジニアの青年は愛想無く言った。

 全く、もうすこし優しく丁寧に言えんのか! 足を入れろと言われてもこの位置から入れるのは至難の業では無いか! もう少し履きやすいように広げてくれても良いだろう! 彼はそう考えながらも、我慢して彼の言うとおりに右足から気密服の足の部分に突っ込み、気密服を着た、というよりも入ったと言った方が正確かも知れない。まるで大昔の潜水服の様なそれは、着ると言うにはあまりにも大きすぎたのだ。まだ、此処が無重力だから良いものの、地上であれば倒れたら最後、まるで裏返しになったゾウガメの様に二度と立ち上がることも出来ずに朽ち果ててしまうしか有るまい。

「これでいいか? 張主任」まるで二十世紀の、まだ我が国が文化大革命という悪夢の時代に西側で大量生産された、ゴミくずのような映画に出てくる謎のエイリアンと言った体だな。とステーションの窓に映った自分の様をみて彼は感じた。

「ええ、よく似合ってますよ! まるでスターウォーズに出てくる、なんと言ったかな? ダースベーダーでしたっけ? あれのようにとてもお強く見えますよ。ひょっとしたらライトセーバーとかも使えるかも知れませんよ」青年はまたへらへら笑いながら言った。その笑顔は端から見ると、まるで純真無垢な少年の様にも見えたが、王にとってはそうではなかった。

 まったく、この期に及んで、また俺を愚弄するつもりなのか? なにがダースベーダーだ! 彼奴は悪の権化の悪役では無いか? 大昔すぎて、見たことは無いのか? いや、そんな事は無いだろう、インターネットの動画サイトに行けば見放題の筈だ。それに、テレビシリーズが終わってから、まだ十年も経っとらんし、十数年前に公開された完結編もその当時はたいそう盛り上がっていた。私は麗蓉と子供二人で見に行ったのを覚えている。こやつが今、二十代半ばとしても、その当時はとっくにティーンエイジャーのはず。充分知っているはずだ。ということは、俺をダースベーダーになぞらえて馬鹿にしているのか? くそ面白くない! まあ、いい。ミッションが終わったら、一度こいつと話をつける必要が有る。私を愚弄しているつもりであればそれ相応の償いをさせる。私を小馬鹿にする奴などと、今後一緒に仕事するなど言語道断だ。あと何年も一緒に居るかもしれん奴の忠誠心が、如何ほどかハッキリ確認する必要があるのだ。


 ロシアでの宇宙開発は一九九一年の前身であるソビエト連邦の崩壊、二〇二〇年代のロシア経済危機により西側、中国とくらべ大きく引き離されており、もはや単独での開発は、取り返しもつかない程後退していた。しかも宇宙産業は軍需産業とも密接にリンクしており、宇宙関連産業の技術力で先行している米国が彼らより長らく軍事的にも優位であった。第二次世界大戦より長らく、アメリカとソビエト時代を含むロシアは二大大国として世界に君臨してきた。その軍事的プレゼンスでヨーロッパ諸国や日本などの小国、いやアメリカでさえも少しくらい騒いだとしても、威圧により黙らせるほど強大だったのだ。だが、思わぬ伏兵が隠れていたのだ。二十一世紀になって貪欲に世界中の技術を吸収してきた中国が徐々に力をつけてきたのだ。彼らはその有り余る人的リソースを生かし、西側社会に移民という名目で侵略し、技術を盗み本国に持ち帰った。それでも馬鹿な西側陣営の企業は彼らの野望よりも十三億人という巨大市場に目がくらみ、どうせ彼らには何も出来るわけが無いとたかをくくって、重要な技術を含む電子機器などの下請け工場として彼らを利用した。

 その圧倒的な安価な人件費をあてにして。やがて彼らは西側から集まる潤沢な資金を利用して、産業を育成し力を蓄えていった。世界最大のサプライチェーンを構築するまで至った彼らは、もはやそれ無しでは世界の産業が成り立たなくなるほど重要な拠点になった。ついには一部を除き、国家元首、大企業のトップですら彼らの意向に逆らえないほど、西側諸国の人間を隷従させるまでに至ったのだ。

 長らくアメリカと冷戦を続けていたソ連崩壊後、ロシア経済は混迷を極めこの煽りで宇宙開発どころでは無くなってしまった。それに加え、一部技術はウクライナなどに流れ、バイコヌールの宇宙基地はカザフスタンの物になった。その後、一時は油田と天然ガスで経済が潤ったこともあったが、アラブの原油増産とアメリカのシェール革命により、陰りをみせ、さりとて中国のような製造拠点としての発展もなく、次第にその力を衰えさせていった。そうして国力はみるみるアメリカと中国に差をつけられて行き、その影響は兵器開発と一体である宇宙開発にも如実に現れていた。

 中国は有り余る中華マネーで、ついには宇宙開発技術でロシアを抜き去り、今やアメリカと肩を並べる、いや、ある分野では既に追い越している。何しろ、未だ何処の国でもやり遂げていない、月面開発をやってのけ、しかも現時点で鉱石の採掘までしているのだから。いくら使い捨てるほどの人がいるとしても、つい五十年前まで、個人の移動手段の殆どが自転車しかなかった国とは思えない。それも、これも欲に目のくらんだ西側の人間がほいほいと金と技術を惜しみなく出したからだ。彼らはそのうち資本主義が進んで、共産主義は崩壊し西側陣営の仲間になると期待していたが、共産主義が崩壊するどころか、むしろ狡猾だった中国共産党に力を与えてしまった。もっとも今の中国、いや二十世紀終盤くらいからすでに彼らは共産主義ではなかったのだ。むしろ、それよりもたちが悪かった。資本主義と共産党の悪い部分が結びついた、ディストピア社会になったのだ。

 だが、それとは対照的にロシアは相変わらず西側の敵として中国のような西側の投資対象にならなかった為、そのような恩恵を受けることも無かった。油田、天然ガスで一時潤ったもののそれも長続きせずじり貧状態にあったのだ。唯一の望みは国際宇宙ステーションISS開発などでつちかってきた宇宙開発協力体制で、一時はスペースシャトル退役で途絶えた宇宙ステーションへの移動手段としてソユーズ、プログレス、フィディラーツィヤなどを提供し、国際宇宙協力体制の一翼を担うことで、その命脈を保ってきたのだ。


 ロシア極東作戦司令部のプルシェンコ・コワルスキー大佐は、クレムリンの首相補佐官直々の電話を受けてから、急遽Tu—444でウラジオストックからモスクワまで飛んできてから既に四時間以上経過していた。

「こんなに待たせるなら、わざわざTu—444を使うべきではなかった」プルシェンコはクレムリンのとある応接室に待たされ続けていることに少々立腹していた。彼はふと壁を見上げた。そしてそこに掲げられた殉職者たちの肖像画の中にある一人の人物に気が付いた。

「エカテリーナ…」

 およそ二十年前、彼はロシアのアカデミー出身卒業後空軍に配属され将来を嘱望されたパイロットであった。しかし、二〇二二年の第一次琉球危機において、哨戒活動中に出くわした、中国空軍の殲二二との接触事故により、搭乗していたSu—77が墜落するという、重大な事故に遭ってしまう。幸運にも脱出出来たのだが、頭蓋骨、肋骨、大腿骨などの骨折と靱帯損傷の大怪我を負ってしまう。だが、同乗していた副操縦士のエカテリーナ・リトヴャク少尉は射出座席の誤作動でキャノピーに頭を打ち付けて亡くなってしまった。

 彼女はロシア航空宇宙軍きっての女性パイロットにして彼を上回る腕前を持ち、さらに彼の恋人でもあった。彼が彼女の死を知ったのは、およそ一年後、彼が退院する間際のことであった。おりしも第一次琉球危機が終決して間もないころだった。

 彼は事故と恋人の死によるPTSDで心を病み、それを紛らわす為にアルコールに頼るようになっていた。毎日ウオッカをストレートであおり、時にはボトルを一日で数本を空けることもあった。そしてしまいには軍を除隊してしまい、重度アルコール中毒となり廃人同然の生活を送っていたのだった。

 ある日、彼の元に一人の美少女が訪れた。彼女は自分をユリアと名乗った。聞けばエカテリーナ少尉の末妹だという。そういえば彼は不思議なことにエカテリーナの家族のことをあまり聞いてなかった。いや、彼女がそれを話したがらなかったのだ。だから、彼女に末妹がいたなんて話は初めて聞いたのだ。よく聞くと彼女は未だ十二歳でアイススケートの選手だという。元々才能はあったがそれほど裕福でもないリトヴャク家ではアイススケートを習わせるほど余裕は無かったのだが、エカテリーナは給与を彼女の妹のスケートトレーニングの費用として、殆どを両親の元に送っていたのだった。やがてユリアはロシアでも有名なスケートコーチの目にとまり、暫く前からモスクワで一人暮らしをしながら学校とスケートトレーニングの毎日を送っていたのだった。

 元々、姉は彼女が物心ついて間もなく軍に入隊したため、ずっと疎遠になっていた。だが彼女が成長するにつれ、幼き頃の姉との思い出をなんとか記憶にとどめたいと思っていたのだ。ある日父親宛の姉からの手紙を物置の奥から見つけ出した彼女は、姉と親しかったプルシェンコの名を見つけ、彼となんとか会いたいと思っていたのだ。モスクワに行けば彼に会えると考えてた彼女はスケートの大会で一位になれればきっとモスクワの有名なスケートコーチの目にとまると考え、血のにじむような努力の末、彼女の思い通りにスケート大会で入賞し、とあるスケートコーチにスカウトされたのだ。しかも何という偶然だろうか、そのスケートコーチ、ウラジミールはプルシェンコと旧知の仲だったのだ。


 ある日彼女がパスケースに入れていた、プルシェンコの写真を見たウラジミールが、驚いた表情でその写真を取り上げた。

「これは、プルシェンコじゃ無いか? 知り合いなのか?」彼は写真を隅々まで見て、旧友だと確信すると、彼女にそのパスケースを返した。彼女は受け取ったパスケースの写真を見つめた。

「姉の恋人だった人です。コーチは彼の事をご存じなのですか?」コーチを見上げた少女は目を見開いて驚いた。

「知っているも何も古い友人だよ! 高校時代からの付き合いなんだけどね。これは軍に居る頃の写真か?」そして、隣に移っている美しい銀髪の女性を見て「彼女が君のお姉さんなのか?」どことなくユリアの面影を残した、二十代半ばの女性だ。優しい表情の中にもそのキリッとした大きな目は芯の強さも感じる。

「ええ」彼女はぽつりと言葉を返した。

「なるほど。うわさ話には聞いていたがね。だが、正直、私は君のお姉さんの事は彼からあまり聞いていないのだよ。軍にいるころはあまり彼と会うことも出来なかったからね」ウラジミールは彼が現在廃人の様になっていることは知っていた。彼女を事故で亡くしてから、地上勤務になり此処モスクワに越してきてからは一ヶ月に一度程度は一緒に酒を飲んだりもしていたからだ。だが、彼が次第に酒に溺れるようになってから、会うことも減ってきてはいた。コーチの仕事も忙しいと言うこともあるが、彼が会うことを拒み始めてきたからだ。そして彼が軍を退役してからはほぼ会うことも無くなった。

「コーチは彼の自宅をご存じなのですか?」ユリアは目を輝かせながら彼に言った。

「勿論知っては居るが…、まさか教えろと言うんじゃ無いよね?」彼は驚いて彼女を見つめた。

「ううん。でもこの街に居るのは確かなのね?」言葉では否定しても、彼女が彼に興味を持っていることは確かだった。

「まあ、そうだ。だが、彼は誰にも会わないぞ! 親友である、この僕のことも避けているんだ。どうも軍に居るときに辛い目に遭ってしまって…」と彼は伏し目がちに語った。

ウラジミールが最後まで話す前に彼女は悟ってしまった。彼は恋人である姉の死からまだ立ち直れていないと言うことを。

 

 ユリアは学校とトレーニングの合間をぬってプルシェンコを探した。時にはコーチからそれとなく彼の話を伺ったり、インターネットサイトの闇電話帳サイトなどで名前と住所のリストを手に入れたりもした。だが、プルシェンコというファミリーネームしか情報もない。この街だけでもプルシェンコという名の人間は何百人と居る。それでも彼女は一人一人、根気よく探し続けた。彼の年齢は知らない(そういえばコーチの年齢も知らない何度聞いてもはぐらかされてしまうのだ)。でも姉の恋人と言うことは、それほど歳は離れてないはずだ。写真をみてもそれほどおじさんにも見えない。ひょっとしたら若作りをしているのかも知れないが、三十手前なのはたしかだと思う。

 年齢をある程度に見積もって検索したら、ずいぶんと絞り込まれた。それでも二〜三〇人以上もいる。それに闇サイトで拾った名簿にも漏れがあるかも知れない。やはり、コーチに頭を下げて聞いた方が早いのだろうか? だがこんな十二歳の小娘に教えてくれるわけが無い。ふと机の上の姉と彼が写った小さな写真を見る。彼の事を考えると何故か胸が熱く締め付けられるような気がした。まさか写真の彼に恋をしているのかしら? いくらなんでもあり得ないよ。この写真は五〜六年前の写真だから未だ若く見えるけど、姉と同い年としても、今はもう二十七じゃない? そんなオジさんに恋? 彼女は首をぶるぶると横に振った。だが、彼への想いは日に日に増していったのだ。


 彼女がプルシェンコを捜し始めて既に半年が経過した。地球温暖化進行のせいか例年になく温かい冬だったおかげで、モスクワ公演の桜の花もすでに膨らみかけている。ユリアもこの秋から七年生(日本でいう中学一年)に進級する。私ももう子供じゃないわ。いつまでもこんなくだらないことに神経を使っていてはダメね。そもそも彼に会って私は何をしたいのだろう? 姉の事を聞きたいのかしら? それとも、姉の恋人と会ってみたいだけなの? それとも…。彼女は徐々にプルシェンコを探すことを諦め始めていた。

 だが、そう思っていた矢先のことだ。彼女がいつも通り、休日に食料を買い出しに行くため、自宅のアパートの近くにあるペレクリョストク(ロシアのスーパーマーケットチェーン)に寄った時のことだった。乳製品コーナでチーズを探していると、一人のやさぐれた雰囲気の男が彼女の頭の上から、手を伸ばして彼女が手に取ろうとしていたトヴォローク(ロシアでよく食べられているチーズの一種)を先に手に取った。

「あっ!」自分の獲物を捕られてあっけとられる猫のように彼女は目が点になった。このトヴォロークはセール品の最後のひとつだったから、彼女はくやしくて彼に思わず「それ! わたしが買おうと思ったんですけど!」と言いかけたが、その顔を見て喉まで出かかっていたその台詞は実際には彼女は「そっ…」とまでしか声を発する事が出来なかった。間違いない。・・だわ。あの悲しそうな蒼い瞳。その男はプルシェンコに間違いなかった。何ヶ月も探していた人を目の前にして思い詰めた表情のユリアのことなどまるで目にもはいって無いという様子でその男は何事も無くその場を離れていく。彼女はしばらく彼の背中を見つめながらその場を呆然と立ち尽くしていたが、彼が生鮮品のコーナーを離れ別のコーナーに向かうために陳列棚の向こう側を右に曲がっていくと、彼女は我に返った。

 そうだわ、彼を付けないと…。彼女は買い物のカートに適当に正価のトヴォロークを突っ込むと、彼の曲がった先に向かった。気が付かれないよう、角の所までくると彼女はそっとビールが積んである陳列棚の影に身を寄せた。男がこちらに背中を向けて蒸留酒コーナーで何かを品定めしている。たぶん今日飲むウォッカでも探しているのだろう。彼は散々悩んだあげくようやく決心が付いた様で、やがて四角くて黒いボトルを一本を棚から取り出した。ウオッカじゃ無いわね、あれはウィスキーだわ。うちでお父さんが偶に飲んでいたから知っているわ。ジョニーウォーカーというスコットランドのお酒。ウォッカより何倍も高いから、お父さんも偶にしか飲んでなかった。先生が言ってたけど彼は軍人恩給しか貰ってないから高いお酒は飲めなくて、いつもいちばん安いウォッカしか買わないって聞いてたけど高価なお酒も買っていくんじゃない! でも何か特別な日専用なのかも。まあいいわ。あとをつけないと。彼はトヴォロークとジョニーウォーカーを持ってレジに並ぶとレジのお姉さんと二言三言話を交わしたあと、紙袋に入れられたお酒のボトルとトヴォロークを抱えて、店を出て行った。

 追いかけないと間に合わないわ。彼女は精算するのも諦め、買い物かごを店員に返すと彼を追いかけるために慌てて店を出た。店をでて辺りを見回したが既に彼は居ない。だがその代わりに古いルノー5《サンク》がけたたましい音をたててノロノロと走り去っていくのが見えた。何年前の車なのかしら? 怖ろしく昔の車みたいでやっと走っている。あれなら走って追いつけるかも知れない。と、彼女は走った。だが三十年以上も昔の車種とはいえ、自動車の速度にさすがに女の子が追いつける訳が無い。みるみる間に彼女と車の間は離れていった。

「ハアハアハア………」彼女は息を切らせながら道ばたに座り込み遠のいていく車を見送った。その赤色にペイントされたルノーはやがて大通りの先の信号を右折して見えなくなった。

 いくらポンコツ車でも人間が走って追いつくのは無理だったわ。彼女はせっかく掴んだチャンスをふいにしてしまった事を激しく後悔した。だが、一歩近づいた事には違いなかった。なぜなら彼が此処のスーパーを利用しているという事が判ったのだから。ちょくちょく此処に来ればまた逢えるかも知れない。そう思うと彼女は少し安堵して、その場から立ち上がった。お尻に付いた埃を両手でぱたぱたとはたくと彼女は、ルノーが曲がった交差点までてくてくと歩いて行った。偶然にもその交差点は彼女の宿舎からほど近い場所だ。万が一の奇跡にかけて彼女は赤いルノーを探したが、何処にも見当たらなかった。

「赤いルノーなんで此処じゃあまり見ないけど…」それほど目立つ車の筈なのに何処にも見当たらないという事は、やはりはるか遠くまで行ってしまったのね。彼女はまだ少し悔しかった。せっかくここまで彼の居所が判ったのに。でも焦ることはないわ。いずれにしろこの辺りが彼の行動範囲なのね。少しは前進したわ。以前に比べたら。

 彼女は自分が手ぶらであることに気が付いた。そういえば鞄、お店に忘れてきたわ。でもたいしたもの入ってないし、お財布はポケットだし、特に貴重品は入ってない。それにまた戻るのも億劫だわ。でも、今日のご飯どうしようかしら。冷蔵庫には黒パンとチーズが少しあるだけ。いくらなんでもアスリートの食事としては栄養が足りないわ。でも、少し疲れたわ。

 彼女は少し底が薄いシューズで走った所為なのか膝が痛んだ。スケート選手に取って膝は命。後先考えずに石畳の道を全力疾走してしまった自分を恨んだ。いずれにしても、今日はこれ以上、あちこち歩き回るのは止めておこう。月曜からのトレーニングに支障がでるといけないわ。彼女は膝をさすりながら立ち上がり、鞄のことなどは放っておいてアパートへ向かった。

 彼女の宿舎はモスクワの外れにあるスケート選手専用に政府が用意してくれた所だ。地方大会などで地道にポイントを稼いだおかげで、格安で借りられる。だが、成績が下がれば強化選手から外され、宿舎も出て行かなくてはならない。まだノービスだけど、来年にはジュニアに進むことが出来る。でもジュニアは強豪も一杯いるから、もっと練習で忙しくなる。そうしたら彼を探してる暇なんて無くなるわ。まだ十二歳のいまのうち、見つけてしまわないと…。それにしても膝が痛いわ。やっぱり無理しすぎたかしら。彼女が膝をさすりつつ、宿舎がある区画に入ると、意外なものが駐車場に停まっているのに気が付いた。赤いルノーだわ。間違い無い彼のルノーよ。その時代遅れの角張った小さいルノーはまるで半世紀もそこに放置して有るかのように風景に溶け込んでいた。スーパーから走り去るときはもっと鮮烈なビビッドな赤色に思えたのだが、実際には年代相応に色あせ、つやもなくその殆どは塗装がはげかかり、しらっちゃけてみすぼらしいものだった。

 まだ、ソ連崩壊後の貧しかった頃に当時の…、恐らく父の世代が若かりし頃に、大量に輸入された西側諸国で使い古された中古車の一台なのかもしれない。こんな古い車なんていまじゃよほどの物好きか、お金に困って居る人しか乗らないわ。でも、コーチの話では軍人恩給でようやく生活しているって聞くし、きっと新しい車は買えないのね。そう考えると彼女は彼の事がなんだか不憫に思えてきた。

 でもなんで、こんな所に彼の車があるのかしら? この区画は政府関連の専用の区画のはず。私みたいに強化選手でも無ければ一般人が立ち入るような場所では無いわ。それともまだ軍人で、お情けで住まわせて貰ってるのかしら? 

 彼女は訝しげに彼の物と思わしき赤いルノーをしげしげと眺めていた。でも本当にこれは彼の車かしら? ひょっとして単に似たような車なだけで、彼の物では無いのかも知れない。あ〜あ、せっかく居所に一歩近づいたと思ったのに。彼女はそのおんぼろ車に近づくとボンネットにふと手を置いた。

「未だ温かい」この季節でひなたにさらされれ熱せられているわけが無い。きっとさっきまで運転していた証拠だわ。きっと彼の車よ。この辺りに住んでいる筈だわ。

 彼女はなにか車に証拠でも無いかと、助手席側から車内を覗いてみた。車内はお世辞にも綺麗とは言えず、中には書類や紙くずが雑多に散らかっている。だが、あいにく免許証やカードなどの身分が判るようなものはぱっと見た感じ、見当たらなかった。それに駐車許可証のような類いも見当たらない。この駐車場は政府のものだから、許可証を掲げていない者が停めることなんて出来ないはずなのに。他の車をみると大抵、許可を示すステッカーが貼ってある。この車にも貼ってあるのかしら。彼女は車の周りをぐるっとまわりそれらしきものが貼ってないかつぶさに調べたが、ロシア国旗をアレンジした派手な色彩のそれは見逃しようが無いはずなのに、このルノーについてはどうしても見つける事は出来なかった。

 どうしても見つからず参っていた彼女はふと車のドアレバーに手を置いた。するとカチッと音を立ててドアが開いてしまった。どうも鍵をかけていなかったらしい。そもそも鍵自体が存在するかも怪しいほど、ぼろい車なので、もともと鍵自体壊れていいてもおかしくない。どうせ、盗まれても気にならないほどの価値しかないのだろう。それともあまりにもぼろすぎて誰も手を出さないとたかをくくっているとか。

 彼女はいけないことと知りつつ、そおっと車のドアを開け助手席に滑り込んだ。タバコの匂いが染みついている。いや、タバコ以外にも何か生臭いような据えたような匂いと機械油、金属が焼けたような匂い。全て一緒くたになってなんだかよくわからないが、決して良い匂いとは言い難い香りが漂っている。だが、その一方でどこか懐かしい想いがよぎった。それが何故懐かしいか、彼女は暫く思い起こすことが出来なかったが。

 彼女は、おもむろにダッシュボードを開けてなにか無いかと探してみたが、有るのはゴミくずだけだ。せめてチケットか領収書の類いでもあればいいのに。彼女はすこしがっかりして、さらに車内を物色しようとしていた矢先だった。

「おい、何している?」赤ら顔の巨漢の警備員が窓から彼女を凝視している。腰にはピストル。警官ではないが軍関係者なのは明らかだ。

「えっと、あの。義理の兄が来るのを待ってて…、えっと…」ととっさに嘘をついた。

「兄? 嘘をつくな!」

「本当です! それに私、スケートの強化選手で、あそこのアパートに住んでますの!」

「証拠を見せろ。最近は車上荒らしが多くて見回りしていたところだ」どうにも信用してくれない。こんなボロ車荒らす奴いるかしら? と彼女は考えたが、しかたなく身分証をだそうとしたが、ポケットを探ってもそこにあるのは財布だけだった。

 しまったわ。鞄の中に入れっぱなしじゃない。

「どうした、身分証は無いのか? であればこのまま返す訳にはいかないな」男は意地悪そうな笑みを浮かべて彼女に言い放った。目線は彼女の胸と腰辺り、ニーソックスから窺える細い足の間を行ったり来たりしている。良からぬことを考えていることは、まだ子供の彼女にすら判った。

「さ、車から出てこっちに来なさい」男は顔を一層赤くして言い放った。一見易しそうに言っている様にも受け取れるが、その威圧的な態度は裏に何かを企んでいる様子がありありとわかった。

「いやです!」彼女は身体を固くしてその場にとどまった。

「こら! いい加減にしなさい! 此方が優しく言っているうちに出てこないと痛い目にあうぞ!」男はまるで今にも湯気が沸き立つのでは無いかと言うほど、赤ら顔をいっそう赤くして言い放った。

「警察を呼びますよ!」彼女は携帯電話をとりだそうとしたが、それも鞄に入れっぱなしであることに気が付いた。

「どうした? 呼んでみろよ」男は彼女が携帯電話を持って無いことを察すると、急に態度がでかくなった。

「いいから出なさい!」彼はルノーのハンドルを手荒に開けると、彼女のか細い腕を掴んだ。

「いやー!」彼女は恐怖と男に腕をつかまれた痛さで思わず叫んだ。だがこんなところで叫んでも誰か助けに来るはずは無い。

 男は暴れる彼女を抱きかかえた。抵抗しても十二歳の少女と大人の男では力がまったくちがう。どんなに暴れても、まるで父親に抱っこされた赤子のようになにも出来なかった。

「さ、話は事務所でゆっくり聞かせてもらおう」男は舌なめずりをしながら言った。

 だが、次の瞬間思いがけないことが起きた。男は突然うめき声をあげ、抱えていた彼女をほおり出すと頭を抑えてその場に塞ぎ込むように倒れ、言葉にならない声でわめき始めた。一瞬のことでびっくりした彼女はついさっきまで自分を犯そうとしていた男でもなんとかしなければいけないと思った。

「誰か! 誰か居ませんか!」叫んでも誰もいない駐車上にむなしく声が響くだけだ。大通りまで行けば人か車もいるかも知れないが、間に合わないかも知れない。男が持っている無線機を使おうにも使い方も判りそうも無い。とりあえず近くの建物まで行けばだれかいるかも知れない。彼女は駐車上のはずれにある、二昔以上前に建てられた思わしき建物まで走った。近くまでいくとその建物は思ったよりも老朽化が酷く、廃墟同然でとても人が居るようには見えなかったが、ここまで来て他を探すような余裕は無い。ダメ元でいいから人を探さねば。

 恐る恐る古い官舎らしい作りの建物に入る。もともとは高級官僚や軍人が住むところだったのだろうか? 玄関はたいそう立派に作られていて、三メートルくらいあるガラス張りの金属製サッシュで出来ていた。かつては金メッキで黄金に輝いていたと思われるが、いまはすっかり剥げ落ちて、手の届かない天井に近い部分にわずかながらその名残を残すのみだった。人が住んでいた頃には暗証番号で解錠しなければ開けることも出来なかった様だが、いまやそれも役に立たないようで、電源も入っておらず、押しても無反応だった。だがその方が助かる。彼女は金属製の扉を思い切り力を込めて引いた。だが、意外にもするっと開けることが出来た。ひょっとしたらまだだれか住んでいるのかも知れない。彼女は期待で胸が高鳴った。エントランスは恐ろしく広いが殺風景で逆に寒々しく感じた。なかに入ると、廃墟独特のカビと下水の匂いが入り交じった異臭で充満していた。すこし焦げ臭いなにか燃やしたような匂いもする。

「誰か! 誰か居ませんか!」彼女は吐き気を催しながらも、必死に声を上げたが、だれも返事をしない。階段をつたい二階に昇る(四〜五階建ての官舎のくせにエレベーターもない!)とそこには埃が厚く積もっていて全く人が住んでいる気配が無かった。「だれか! 誰か助けて! 人が死にそうなの!」あいかわらず、物音一つ無かった。

 だめだ、此処は諦めよう。それよりはやくおじさんを助けに行かないと。つい、先ほどまで酷いことをされそうになっていたにも関わらず彼女は彼を何とか救わねばと思っていた。ほんの少しではあるが、彼が発作を起こしたのは自分の所為だという自虐の念もあったからだ。

「なんだ、うるさいぞ!」よっぱらいの浮浪者のような男が階段の下で怒鳴っていた。良かった、人が居た! 彼女は階段を急ぎ足でおりた。「痛っ!」老朽化で傷んだ階段が彼女の足をくじいてしまった。

「痛っああ」彼女は激痛でその場にへたり込み、くじいたくるぶしをさすった。

「大丈夫か?」男はボサボサの髪を掻き上げながら彼女に近寄り、

「少し見せてみろ」と彼女のニーソックスを脱がした。ほんのり温かい男性の手が彼女の太ももに触れる。彼女は恥ずかしさで顔を真っ赤にして、大丈夫です! と声を上げるが、男は構わず、彼女の靴下を脱がせてくじいた部分に顔を寄せた。

「少し腫れてるぞ。此処で待ってろ。薬を取ってくる」と、男はその場を離れようとした。

「待ってください! 私の事は後で構いません! 駐車上で人が倒れているんです!」

「何だって?」男は驚いた顔をした。

「駐車上の、その、端っこの方で警備員さんが何かの発作で倒れてて、その…」彼女は必死だったが頭が混乱してそこまでしか言えなかった。

「なんで早く言わない? 場所はどの辺だ?」男ははっきりとした声で彼女に尋ねる。

「ちょうどこの官舎の反対側の通りに面した辺りです」

「それじゃ良く判らん! もっと詳しく!」

どう説明したら良いだろう? 彼女は必死に考えを巡らせた。

「えっと、赤色の古いルノーがあって。そのの近くです、凄く古くてぼろいルノーなので直ぐ判ると思います」そう、彼女が答えると彼は瞬時に理解したようだった。

「なに? よりによって俺の車かよ。まあいい、君は此処で待ってなさい。歩けるか? 歩けるなら俺の部屋に行って構わない。一〇五号室だ。鍵は開いている。此処には俺しか住んでないから、安心しろ。部屋に行ったら、携帯電話があるから、一一二(ロシアの緊急通報番号)に電話しろ」と男はいってエントランスをあとにしようと立ち上がった。

「携帯のロック番号は?」不思議にも彼女はここに来て冷静になって尋ねた。

「〇三三一」男はそう一言言い残して、足早に官舎を出て行った。

 〇三三一って、姉さんの誕生日三月三十一日と同じだわ。間違い無いわ。あの人が私が探し求めていた人…。


「そうか、君はエカテリーナの妹さんなのか」男は彼女を見つめてつぶやいた。彼女は見ず知らずの男の部屋で緊張をしていた。男の方はとんと気にしないようだ。ついさっきまで救命活動にいそしんでいたなどと全く思えなかった。駐車場で倒れた警備員の男は、彼の救命活動のおかげで命を落とさずに済んだ。救急隊員が到着するまで彼が心臓マッサージを施していたのが功を奏したようだ。

「兄妹が居ると言うことは知っていたが、こんなに小さな妹さんがいるとはな…」古い官舎の殺風景な部屋で男はぽつっと言った。

「姉からは私の事は聞いてなかったのですか?」彼女は大きい瞳を見開き尋ねた。

「ああ。妹がいてスケート選手になるために仕送りをしているって事くらいしか聞いてなかった。もっとずっと大きい子かと思ってたよ。今、君は何歳だ?」彼は不思議なものでも見るように彼女を見つめた。

「十二歳です。九月で七年生(九月はロシアでの新学期、七年生は中学一年)になります」

「エカテリーナと十五歳も離れているのか?」彼は少々驚いた様に言った。幼くは見えるが十六〜十七歳くらいと思っていたのだ。

「ええ。姉は母が十六の時に生んだので、姉だけ歳が離れているのです」彼女の頬がうっすらと赤く染まった。大人の男性と二人きりでいるのが、恥ずかしかった。

「そういうことか。彼女はあまり家族のことは話したがらなかったから、全くそんな事は知らなかったよ」男はため息をついた。

「君はスケートをやっているとは聞いていた。そのために仕送りをしていることも聞いた。今もスケートをしているのかい?」彼は彼女のそのか細く、美しい足を見た。

「ええ、実は強化選手に選ばれていて今はこの近くのアパートに暮らしているんです」彼女は少しドキドキしながらも正直に彼に話した。

「それは驚いた。何年前から?」

「もう、十歳の時ですから、もう二年以上になります」

「こんなに小さいのに一人で…。それはさぞ辛かっただろう」

「いいえ、大したことではありません。同じ歳の子も何人もいるし、心細く思ったことはありません」それに、貴方に会いたい一心でしたもの。彼女はそう付け加えたかったのだが、変な娘と思われるのは嫌なので言い止まった。

「そういうものか。まあいい。ところでエカテリーナのことを聞きたいのだっけな。どんなことが聞きたい?」

 改まってそう言われても、なんと答えればいいのか分からなかった。聞きたいことと言っても知りたいことが漠然としすぎていた。どんな女性だったかとか、妹のことはどう思っていたのかなど、様々なことを知りたかったが、結局そんなことを聞いてどうするのだろうかと思うと、どう言っていいのか分からなくなってきたのだ。

 彼女が何を聞くか思いあぐねている様子を察した、彼はやれやれと言うと立ち上がりキッチンに行くとポットに水を入れてガスレンジでお湯を沸かし始めた。

「コーヒーでも飲むかい? あいにくインスタントしかないがね」と、カップを二つ取り出してロシアメーカのインスタントの瓶から、コーヒの粉を一杯、二杯とカップに入れた。

「砂糖とミルクはどうする? 俺がいうのもなんだが、このコーヒーはどうにも不味くてな、砂糖、ミルク入れないと飲めたもんじゃないんだよ」と彼は肩をすくめて答えた。コーチの話と違い、意外にも気さくな彼を見て彼女は彼に対する印象が少しだが変わった。

「じゃ、両方入れてください。砂糖は多めでお願いします」

 彼はにっこり頷くと砂糖を小さじで2杯、3杯とカップに投入し、キッチンの台に置いた。やがてポットがちんちんと音を立ててお湯が沸きだす。彼は気が少し短いようだ。完全に沸騰する前に火を止め、カップに注ぎ始めた。でもそのほうが良い。彼女はまだ子供だから熱い物が苦手なのだ。だが、沸騰していなくとも熱いものは熱い。

「熱いから気をつけて」と彼は彼女にカップを渡す。

「さて、どこから話そうかな」彼女がなにを聞きたいのかなかなか教えてくれなかったので、彼はとりあえず話を進めることにした。

「彼女に出会ったのは、七年前だな。彼女がパイロット訓練を終えて、俺の部隊に配属された時だ。まだ彼女は幼さが残る少女のようだった。その時の直属の教育係がわたしだった。君はほとんどお姉さんに会ったこともないのだよな。君が産まれる前に幼年学校に入学し、卒業とともに空軍に配属されたのだからな。彼女は少し、いやだいぶ気の強い女性だった。教育係の僕どころか、上官にさえ刃向かうほどね。そのおかげで何度となく営倉送りにもなるが。だがパイロットとしての腕前は最高だったよ。半年で僕を追い抜き操縦技術でも、模擬訓練での撃墜数でも彼女は軍のトップクラスになった。僕は彼女には勝てなくなって、教官の職を辞したんだ。だが、彼女は逆に僕をパートナーに指名した。どういうつもりか尋ねたんだが、『貴方と乗っているときが一番調子が良い』ってね。既にエースパイロットだった彼女は多少のわがままも許されていてね。それで僕は彼女の教官から副操縦士に格下げされたのさ」彼はふっとわらいながら言った。

「姉は貴方のことを好きだったんですか?」ユリアは興味津々といった様子で彼に尋ねた。こういう所は普通の思春期の女の子なんだなと彼は思った。

「その当時は判らない。でも段々とお互いに愛情、というよりももっと深い物になっていったのは確かだと思う。お互いに欠くことの出来ない存在になった」かれはコーヒーを一気に飲み干してテーブルにカップを置いた。

「何時の頃からか、お互いパイロットパートナーを越えて愛し合う様になった。そのころかな。彼女がその収入の殆どを家に仕送りしているって知ったのは。そのことについて尋ねたこともあるんだが、あまり家のことは話したがらなくてね。きっと幼い妹や弟がいて生活も苦しいのだろうと思ってはいたが」

「たぶんわたしのフィギュアスケートを習わせるために送ってくれたのです。私の家は食べることに困るほどではありませんでしたが、フィギュアスケートを習わせるほど裕福ではありませんでしたから。幼年学校に入る前からスケートを始めましたが、学校の先生にこの子は素質があると言われて、それで姉がお金を払ってくれたのです」

「でも、その話は誰に聞いたのかい?」

「以前、母が話してくれました。実は姉もスケートの才能を見込まれて有名なコーチにスカウトされたこともあったのですが、それほど裕福でなかったので諦めたと聞きました。きっと姉は彼女の分まで私にがんばって欲しかったのだと思います」

「そうか。そんな話は聞いたことも無かったよ」彼は少し伏し目がちに語った。

「貴方は姉のことを愛していたのですか? 普通の恋人同士だったんですか?」彼女は思わず彼に尋ねてしまった。ひょっとしてこんなことを尋ねて気分を悪くしないかしら?

「勿論、愛していたさ。だが、少し複雑な関係でね。私は彼女の恋人というより、ライバル、パートナー、そして欠くことの出来ない存在。たとえて言うならナイフとフォークの様な物だ。どちらを欠いても食事をとるのは不便だ。だが、ナイフが無くなったらどうする?」

「お肉を切ることが出来ません」どういう意味かしら?

「そう、そういうことなんだ。逆にフォークを欠けば切るときに肉が動かないように抑える事も出来ない。そして口に持っていく事さえも出来なくなる。そういう意味ではフォークの方がより重要だが、彼女はそのフォークのようなものだった。少なくとも僕にとってはね」男、プルシェンコは両手で顔を覆ってしばらくうつむいた。

「プルシェンコさん、泣いているのですか?」ユリアは彼の事が心配になった。まさか、自分が姉の事を聞いたばかりに、彼を傷つけたのではないかと思ったのだ。

「いや泣いてないよ。ただ少し目頭が熱くなっただけさ」彼の瞳から大粒の涙が流れ落ちた。

「今日はもう帰ってくれ」彼は再び両手で顔を覆った。彼女は彼のことが心配になった。自分の不注意な言動で彼を傷つけてしまったのではないかと。

「でも、一人にしておけません」

「頼む」

「判りました。でも…」っと彼女は少しためらってから、玄関ドアを開けて部屋を出たが、ドアを閉める際に、

「また、来ても良いですか!」と、か細いが力強く彼に言った。彼はうつむいたまま彼女の話を聞いていたが、何も答えなかった。


 その日から彼女はほぼ毎日彼の部屋へ寄った。時には追い返されたり居留守を使われることもあったが、次第に彼も心を開き彼女の訪問を受け入れるようになった。一方彼女のフィギュアスケートでの成績は段々と振るわなくなってきた。プルシェンコと出会ったときにくじいた足が完治せず、影響を与えていたからだ。そして彼女がノービスからシニアに、そして九年生(日本の中学三年)進級する年、準強化選手残留を掛けた大会で彼女は致命的なミスを犯してしまい、メダルどころか入賞すら果たせなかったのだ。当然のことながらロシアのスケート連盟委員会では彼女の準強化選手入りを見送らざる負えなかった。強化選手か否かで待遇は全く変わってくる。先ず、選手専用の宿舎からは退去させられ、宿舎は自分で探さざるを得なくなる。また、コーチへの費用も自分持ちだ。そうなると姉の軍人恩給だけでは賄えなくなる。

「私、住むところが無くなってしまったわ」ある日、プルシェンコの宿舎を訪ねて来たユリアが深刻な面持ちでそう言った。

「強化選手を外されてしまったの」

「スケートは止めるつもりか?」

「止めたくないわ! でも強化選手を外されたら、クラブやコーチに支払うお金だけで、姉の恩給が無くなってしまうわ。それに住むところもないし」彼女は落ち込んだ表情で枯れに話した。

「諦めて、国に帰るんだな」彼は彼女に冷たく言い放った。

「なんて酷いこと言うの」うっすらと涙が彼女の目を滲ませた。

「仕方無いだろう。誰が金を払うんだ? 両親はそれほど裕福では無いんだろう? 身体でも売るのか?」彼はそれでも彼女に冷徹に振る舞った。

「いざとなったら、そうするわ…」彼女は涙ぐみ、両手で顔を押さえ嗚咽を漏らした。次第に彼女を気の毒に思えて来た彼は、さすがに冷たく言い過ぎたと感じ、慰めようとまるで小さな妹のような彼女をそっと抱いた。どことなくエカテリーナとおなじ匂いがした。同じ香水を使っているわけでは無かろうに。それを感じた彼は急に彼女が愛おしくなってきた。だが相手はまだ十五歳の子供だ。彼は彼女をそっと離した。

「わかった、安心しなさい。私が何とかしよう」彼は彼女の涙を人差し指で拭ってやると、肩をしっかりと持って彼女を見据えた。

「でも、貴方もなけなしの恩給で暮らしているんでしょう? 迷惑は掛けられないわ」

「考えがあるんだ。僕は軍に復帰する」

「なんで? そこまでしなくても良いのに?」

「今判ったよ。僕に出来ることはエカテリーナの夢をかなえてやることだってね」

そう言うと彼は彼女をまた抱きしめた。


 彼の軍への復帰は一筋縄では行かなかったが、除隊する前まで上官であった、アレクサンドル・プリコフスキー大佐、遠縁であるウラジミール・ナボコフ参謀総長の口利きで、入隊することが叶った。驚いた事に彼のパイロットとしての腕前はさほど衰えることも無く、たちまち軍のエース級と肩を並べるまでに至った。

 一方、ユリアは彼の助力もあり強化選手入りは叶わなかったが、地方大会でそこそこの成績を上げられるようになっていた。だが、彼女の大学進学が間近になると、彼女はプルシェンコに言った。

「私、スケートをもう止めるわ」

「どうして?」

「もう、私の実力ではこれ以上の成績は無理なのよ。下の世代の子達がどんどん実力を身に付けているのに私はこの一年間、ほとんど変わらないわ」

「ここまでやってきたのに勿体ないでは無いか?」

「覚えている? 始めて私が此処に来たとき、私が足をくじいてしまったこと」

 彼は五年以上前の記憶をたぐりよせ、彼女の足を見てやったことを思い出した。だが、それが何時だったのかまで思い出すことは出来なかった。

「あのときの怪我の痛みが未だにうずくの。でも貴方が悪いわけでは無いわ。私がなんともないって言ったのですもの」彼女は太ももも露わに足を椅子の上に載せくじいたくるぶしを彼に見せた。もちろん見た目では腫れていたり、痣があるわけでも無い。

「そうか、ずっと我慢して居たのだな。気が付いてやれなくて済まない」彼はあのとき、無理してでも病院に連れて行ってやれなかったことを悔やんだ

「いいのよ。私もあの頃は姉の思いに報いたい一心でスケートをがんばっていたんだもの。それに貴方には、かける必要も無い余計な負担も掛けてしまったわ」彼女は首を横に振った。

「大したことはないさ。それに君のお陰だよ。僕が立ち直れたのは。君が来なければあのまま此処で朽ち果てていたところだ。君には感謝している。でもスケートを止めてどうするのだ?」

「取りあえず、大学へ進学するわ。だからもうしばらく此処にいさせて」

「それは一向に構わないが、こんなむさ苦しいおじさんと二人暮らしなんて、良いのかい?」彼はすっかり女性になったユリアをまじまじと見た。ますます、エカテリーナに似てきた。大きな瞳、金色の美しい巻き毛、海の様に澄んだ瞳、細く尖った顎。彼女の妹であるという事実を忘れて彼は彼女に恋愛感情を抱き始めていたのだ。

「構わない。それに今度は私が貴方にお礼をしなくてはいけないし」

「おいおい、そんな見返りを求めてると思ったのかい?」

「いいえ、そんなんじゃ無いわ。ところで私のことをどう思ってます?」彼女はいたずらっぽい表情で言った。こういう表情がますますエカテリーナを思わせる。

「君は僕の大切な人の妹だ。彼女と同じくらい大切だ」彼は本心では彼女を女性として愛していることに気が付いてはいたが、その感情を彼女に悟らせたくなかった。だがそんな感情と裏腹に彼女は改めて彼に自分の気持ちを伝えてきた。

「そういう形式張った答えは要らない。私は貴方が好き。会う前から、ずっと。だから、これからもずっと一緒に居て欲しい。勿論姉の代わりには成れないけど。それに貴方もずっと同じ気持ちの筈…」

 鋭いことを言う、と彼は思った。子供の頃は自分の妹くらいの感覚ではあったが成長してエカテリーナに似てくるにつれ、自分にもそういう妙な感情が湧いてくることにうすうす感づいているのが判ったのだ。子供なんかに手を出そうなどとは思わなかったがエカテリーナの面影と重ねるにつれ、やましい考えが心の片隅を占めてきていた。

「ああ、僕も君を好きだ。でも、ユリア、君を一人の女性としてでは無くエカテリーナ、お姉さんの面影がある女性として、彼女の代わりとしてしか見れないかもしれない…」

彼は、右手で目を覆い隠した。彼女への気持ちはただのエカテリーナへの愛を彼女に投影しているだけではないかとの疑念は拭えなかったのだ。だが彼女はそんなプルシェンコの悩みを一蹴するように、

「今は構わない。いずれ一人のユリアという女として愛してくれれば」と彼に告げると彼の首に腕をまわして抱きつき、彼も彼女を抱きしめた。


 数年後、ユリアが大学を卒業すると同時にプルシェンコは彼女と結婚をした。ユリアは二十二、プルシェンコは三十五になっていた。彼女との暮らしで忌まわしい過去の記憶を払拭できた彼は完全に以前のプルシェンコとして復活出来たのだった。その後の彼は順調ににキャリアを重ね、四十歳を迎える前に階級も大佐に昇進するまでに至っていった。


「久し振りだな、プルシェンコ大佐」彼がエカテリーナの写真に気をとられている隙に二メートル近くある巨漢の男が入室して彼に話しかけてきた。

「アレクサンドル大佐、いや今は提督でしたか。お久しぶりです」

「うむ。ほう懐かしい写真だな」アレクサンドルはエカテリーナの写真を見上げた。

「実に惜しいパイロット亡くしたものだ」

「ええ、彼女が生きていれば今頃は…」

「いや、優秀だとしてもパイロットに過ぎない。軍は彼女一人で変わるほどの物でもない。それより私は君が立ち直ってくれたことの方が大事だと思うぞ。聞けば彼女の妹さんが君の精神的支えになってくれたそうじゃないか?」何でもお見通しだなと彼は感じた。

「お恥ずかしい限りです」

「ユリア・ヴィトリャクといえば、ノービス時代は随分有名なスケート選手だったではないか? まあ、シニアでは残念ではあったが」アレクサンドルはハバナ産の高級葉巻を取り出して、口にくわえると、プルシェンコにも箱を差し出した。プルシェンコはそれをそっと拒むと、

「生憎、フィギュアスケートは余り詳しくなくて。オリンピックに出るような選手は多少なりとも名前だけは知ってますが」と答えた。

「そうか、娘が彼女のファンだったものでね。彼女には注目はしていたのだよ。ところがまさか君と結婚するとはな」提督はゆっくりと葉巻を吹かした。

「いや、本当に恥ずかしいです」例えエカテリーナの妹とは言え自分と十五も離れた女性と結婚した事に若干の後ろめたさを感じていた彼はよからぬ事を噂する者も軍にいることを知っていったのでこの手の話をされること自体が居心地が悪くなるので嫌だった。

「いやいや、男としてはうらやましい限りだよ、綺麗な若い嫁さんをもらえるなんて余ほどの金持ちかハリウッド俳優以外はあり得ないからな」提督はそんな彼の思いなど気にもせずずけずけと言い放った。本心からそう思っているのか皮肉なのか計り知れない。

「恐縮です」彼にはそう答えることしか出来なかった。

「ま、世間話はここまでにしよう。なんで此処に呼ばれているか、聞いているか?」提督は先ほどまでの雑談を話すときの気さくな表情を一転させ険しい表情で彼に訊いた。

「いえ、緊急のミッションがあるとかで直ぐに飛んでこいと言われ、Tu−444で来たのですが」全く何のミッションか情報もないかれは何もかも疑問だと言いたげな顔で言った。

「自分で操縦してきたのか?」提督は吸っていた葉巻を灰皿で押し消した。

「勿論ですよ。単座の偵察機ですよ」何故そのような当たり前の事を尋ねるのだろうか?

「うむ、そうか。待たせて申し訳なかった。だが、これはかなり高度な問題なのだ。上層部も今の所どう処理して良いか、議論中なのだ」提督は二本目の葉巻に火を付けた。

「具体的には何が起きているんですか?」いいから速く本題に入れと彼は思った。何故、勿体ぶっている?

「うむ、十二時間ほど前に月とのラグランジェポイントL2あたりで高エネルギー反応を観測したのだ」

「高エネルギー?」どういうことだ? それが俺とどういう関係があるのだ?

「うむ。RDS—37に匹敵すると思われる」ようするに核爆弾の事だ。ラグランジェポイントで核爆弾? さっぱり判らない。SF映画の話か? それとも何かの心理テストだろうか?

「アメリカの核実験ですか? CTBT、カリフォルニア条約で禁止されたはず。カリフォルニア条約はアメリカも批准している筈です」有り得ないこととは思いながらも彼は言った。

「そうだ。だがこれは核実験ではない。核爆発につきもののガンマ線放出は基準以内なのだよ」一体何の話なのだろうか? サッパリだ。

「では、なにが起きているんです?」

「これを見たまえ」アレクサンドルが室内の3Dプロジェクタのスイッチを入れた。より見やすくする為に、自動で窓ガラスの遮光シールドがオンになり、室内は映画館のように暗くなった。

「これは?」画面に月、地球、そして何かの人工衛星の写真が映し出されている。何かのノイズだろうか? 小さな点がその間にうっすらと映り込んでいる。

「これは、我が国の宇宙望遠鏡が捉えた写真だ。月と地球の間になにかゴミみたいなものが映っているだろう?」提督はレーザーポインタでそのゴミの周りをくるくると囲うように示した。

「ええ、人工衛星かステーションではないですか?」大方中国の月面採掘用のステーションかなにかではないか? 

「そう思うだろう? 次にこれをみてくれ」提督は別の写真を提示した。さっきと同じ写真ではないか? だが一つ異なる点があった。良く見なければ気が付かないような些細な違いだ。

「こっちには映ってない」確かにほんの少し異なるが、そんなに問題になるものなのか?

「これは昨日撮影した物だ」提督は先ほどと同じようにレーザーポインタでさっきの箇所を指ししめす。

「先ほどのゴミみたいなのは、なにか光に加減で映り込んだ物では?」

「我々も最初そう思った。次にこれだ」さっきのゴミのような影はこれにも映っている。

アレクサンドルはさら次々とスライドを変更した。先ほどのゴミは当たり前の様に映り込んでいる。

「これは明らかに何かの人工物が此処に急に出現したのだ」

「なぜ、人工物だと言い切れるんです」

「マーキュリー計画」提督はぽつりと答えた。

「マーキュリー計画? 三日ほど前に探査船が遭難した、アレですか?」

「そうだ。あの計画には我が国の航空宇宙局も協力していることは知っているな」

「勿論です。ですがこの件となにか関係があるのですか?」

「実は大ありなのだよ。この件に関して実はスパイを数人送りこんでいる。そこで得た情報なのだが、この計画はアメリカ政府が大きく絡んでいるのだ」

「それで?」

「いいか、心して聞けよ。これから言うことは冗談でも空想でもない」

「はい」

「かれらは水星、及びより太陽に近い軌道にあるバルカン帯で重大な発見をした」

プルシェンコはゴクリと生唾を飲んだ。

「異星人の遺物だ」

「異星人…」俄には信じられなかった。

「具体的にどんな物かまだ詳しい情報は得られていないが、我々は宇宙船か兵器に匹敵するものだと推測している」

「まさか」

「そうだ。そのまさかだ。そしてアメリカ政府はその成果を独り占めしようとしている」

「待って下さい。マーキュリー計画は我が国も相当の貢献をしているはず。それを独り占め?」

「そうだ。アメリカはこの異星人の遺物で一気に我々と中国を出し抜くつもりだ。これは絶対に許されん」

「と、言うことは私のミッションと言うのは?」

「フィディラーツィヤにより一個隊の海兵隊と共に飛べ! もしこれが異星人の遺物だとすれば、これをアメリカから簒奪してもらう」


「ああ、そうだ。明日、即席の訓練を行い、明後日に飛ぶことになった。暫く帰れないかも知れない」プルシェンコは薄暗い部屋の中でヴィジフォンから映し出されるほっそりとしたまばゆいばかりのブロンドヘアーの女性に話しかけた。

「そんなのイヤよ。来週の金曜日はミハイルの五歳の誕生日なのよ」ヴィジフォンのスピーカーからその若い女の声が聞こえる。背後では未就学児と思われる男児が遊んでいる。

「ごめん、わかってくれ。大統領直々の命令なんだ」男は電子吸入器シガーのスイッチを入れて吸入器から漂う蒸気を吸い込んで心を落ち着かせた。いらつく心を抑えて、冷静になるために。こうでもしなければ彼女とケンカになってしまう。

 女はしばし、悩んだ様子を見せたが「わかったわ。でも金曜日までには戻ってよね! 絶対だよ!」と諦めた口調で言った。彼もせっかくモスクワに来ているのに妻にも息子にも逢えないのは心苦しかった。しかも今度のミッションで無事帰還できるという保証もない。

「できれば逢いたかった…。許しておくれ」

妻と息子は先々月までウラジオストックの官舎で同居していたが、モスクワのシュコーラ(ロシアの教育機関で小学校から高校にあたる)に入学するため、彼女と息子は夫をウラジオストックの官舎に置いて、此方に越してきていた。そのため彼と妻子は一時的に離ればなれになっていた。非番の日はいつも、モスクワに戻り家族で過ごすのがつかの間の安息を得る時でもあった。

 女はその大きなブルーの瞳に大きな涙をためていた。

「しかたないわ。でもこの埋め合わせはしてよね! そうじゃないと絶対に許さないんだから!」止めどなく流れる涙を必死に手で拭っていたが、彼女の涙はなかなか止まることはなかった。

「わかった、わかったよ」男の心は葛藤していた。彼女と息子への悔恨と軍人としての責任感が彼の心の狭間で苦しめていた。彼は右手で目を覆いかくした。彼女と目を合わせることが出来なかったからだ。

「もう遅いから切るわね。明日はミハイルのショコーラ説明会あるから、朝早いの」泣きはらして目を真っ赤になった彼女はこれ以上話しても余計に悲しくなるだけだと思い、ヴィジフォンをきって会話を終了することに決めた。

「ああ。迷惑をかける」彼はただ謝ることしか出来なかった。

「ミハイル、こっち来なさい!」子供はせっかく遊んでいたのに邪魔しないでという様子でむすっとしていたが、久しぶりに話す父の顔を見るとそんな事はどうでも良くなった様で、嬉々としてヴィジフォンの前に来ると、

「パーポ!」と叫んでそのスキャナー(カメラ)に顔を近づけた。おかげでプルシェンコのヴィジフォンの映写範囲いっぱいになるまで彼の顔が巨大化されて映し出された。まるで異世界の巨大な人間があたかも目の前にいると錯覚しそうになるほど滑稽な風景だ。

「パーポはいつおうちにかえれるの?」

「はは、直ぐ帰るよ」

「すぐっていつ?」

「ミーシャ(ミハイルの愛称)が良い子にしていればすぐさ。今日は良い子にしていたかな?」

「きょうはいいこじゃなかった…」

「どうした? 何故良い子じゃなかった?」

「きょうはマーマをこまらせた…」

「ペレクリョストクでおもちゃつきチョコレート買ってって我が侭言ってだだこねたのよね?」ユリアは我が子をそっと抱きかかえヴィジフォンのスキャナーの前に座った。

「そうか、それじゃ仕方無いな。あんまりマーマを困らすんじゃないぞ!」彼は我が子と妻を見つめて言った。

「うん…。ごめんなさいマーマ」息子はユリアの方を振り向いてしょんぼりと頷いた。

「まあ、いいさ。明日は良い子にしているんだぞ!」

「うん。よいこにしていたらパーポかえってきてくれる?」

「ああ…、帰るよ絶対に」

「貴方、必ず帰ってきてね。愛してるわ、ジャニイ(プルシェンコの愛称)」彼女はまた目に涙を浮かべた。

「愛しているよユーリャ(ユリアの愛称)」男はヴィジフォンのスイッチをオフに倒した。



 

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