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「ブーブー」けたたましいブザーの音で目が覚める。オニールは顔についた酸素マスクと腕の点滴チューブを抜くとコールドスリープカプセルから片足を下ろした。

「うげぇえええ」オニールは床に思わず胃の内容物を吐いた。だが、吐いたのは胃液だけだ。コールドカプセルに入る前、三日間は点滴のみで絶食していたから消化器にはなにも入ってない為だ。

 コールドスリープは局のドクターから目覚めた直後はひどい吐き気を催すから覚悟するようにと言われていたが、想像以上酷かった。例えるなら、ループコースターに連続で何回も乗せられたような気分だ。

 オービターやステーションと違ってここは宇宙船の一部を回転させることにより、人工重力を得ている。

 もっとも重力と言っても地球の十数分の一と言う程度だが、こうでもしないといろいろ不都合なことが多いのだ。

 たとえばさっきの嘔吐物。液体や粉塵が飛び散ると船内の機械の故障につながり、都合が悪い。

 本来ならローレンツ力を応用した人工重力装置があればいいのだが、まだ実験段階で実用には向かない。

 オニールは、吐いた胃液をバキュームクリーナーで船外に放り出すと、シャワーブースに向かった。船内の水は貴重だが、百%リサイクルされるので、コールドスリープから覚めた後と、再び眠るときだけは、許されている。

 彼は船内着のジャンプスーツに着替ると、まず船内の計器類をチェックした。

 警告灯などは特に点いていない。オールグリーンだ。特にここまでで問題は起きていないようで一安心した。

 スクリーンに目をやると地球本部からメールが来ているようだが、とりあえず腹ごしらえをしてからだ。


 オニールは食事用のテーブルそばのテーブルに座り久しぶりの朝食とコーヒーを味わうため、自動調理器のメニューを選ぶ。よし今日はクロワッサンと目玉焼きだ。

 寝ている間はそう時間が経過したような気がしない。しかし食事はもう何年も捕っていない気分だった。自動調理器のモニターを見ると調理完了まであと十分ほどかかるようだ。

 彼は調理が完了するのを待っている間に一服しようと、支給品である電子たばこに火をつける。もっとも火をつけるという表現は正しくない。燃焼によりニコチンとタールを気化させる訳では無いからだ。

 実際には、カートリッジ入った、ニコチンなどのたばこ成分を電熱線で加熱して、その成分を気化させるだけだ。だからスイッチを入れると言った方が正しいだろう。だが、たばこの場合は火をつけると言った方が似合う。

 彼はたばこをくゆらしながら、電子新聞をを広げた。一年近くも眠っていては地球の情勢もだいぶ変わっているだろう。


「イスラム連邦、勢力をアフリカ、東南アジアに拡大。タイ国境で中国と交戦」

「統一朝鮮、すでに百基以上の弾頭を保有」

「琉球国、アメリカ合衆国、日本と国交を断絶」

「第五十代アメリカ大統領選挙」

「イギリスウィリアム国王死去」


 彼はコントロールセンターからの指示メッセージを確認するため、コンソールルームに行く途中、勢い余って天井までジャンプしてしまった。地球に居るつもりで力を入れしまったせいだ。

「おっとと」オニールはあわてて思わず声をだす。しまった、まだ身体が本調子じゃない。頭もまだクリアではない。

 姿勢を整え改めて居住区画からでるとコンソール前に着席しメッセージを確認した。

局のジャン・リュック・デュボア長官直々のメッセージだ。


「おはよう、オニール君。 このメッセージをみているということはコールドスリープから目覚めていると言うことだと思う。

 さて、君たちがお昼寝中に若干の計画変更があった。詳細はこのビデオを見てほしい」

デュボアのヒゲ面が消え、仰々しい曲とともにビデオが始まった。


「なんてことだ。こんな訓練もしてない予定外のミッションなんて出来っこない。水星のミッションだって何ヶ月も訓練したのに小惑星への着陸だって? メンバーになんて言って説明していいか」

ビデオを見終わったオニールは、映像が消えたばかりの画面を凝視しながら、頭の中で罵った。

 彼はビデオメッセージ端末のスイッチを入れた。スクリーン上に録画開始までのカウントダウン表示が映されている。

 赤い明滅が緑に変わったとき彼は口を開いた。

「オニールです。長官 ごきげんよう。メッセージは確認しました。しかし我々は小惑星探査の訓練を受けておりません。探査には困難を極めると思います。

 合衆国軍人として上官の命令に背くわけにいきませんが、せめて訓練なしで上陸すると言う理由と根拠を教えてください。

 それと部下のダニエル、ハモンドには命令できますが、民間人には命令できません。計画についてご再考をお願いします」

オニールは録画終了のボタンを押すと。録画ファイルをデュボア長官に緊急メッセージとして送付した。

 長官はこのメッセージを見て命令を撤回するだろうか? いやあり得ないな。このミッションは、よほどの重要性があって送ったのだろう。内容から察するとプライオリティはこっちの方が上で水星探査のほうがおまけみたいな感じだ。

「ビビっ」

 コンソール右側のコールドスリープモニタからアラーム音が聞こえる。どうやら誰か目覚めたようだ。

 彼はコンソールルームを出るとコールドスリープ装置のあるメディカル区画にむかった。

 メディカル区画に入るとハモンド少佐もオニールと同じように床に嘔吐していた。

「ハモンド、どうだ具合は?」

「最悪の気分です」

「大丈夫だ、すぐ治る。俺も最初はそうだった」

彼は地獄から戻ったような顔で船長を見上げた。

「プシュー」

 ハモンドの隣のコールドスリープカプセルが開く。今度はカーター少佐。

 ダニエルはカプセルが開いたとたんに、床に転げ落ちる。

「うげえぇ」

 カーター少佐も酷い吐き気に襲われたようだ。やはり、胃に内容物がないので胃液しか出ない。

 オニールは二人の嘔吐物をバキュームクリーナーで処理しながら、

「計画が変更になったよ」と、くぐもった調子で言った。

「計画変更ってなんです?」

カーター少佐は直ぐにろくでもない計画変更であると察知して、オニールに尋ねたが、船長は、

「それは皆が揃ってから言う」

としか答えなかった。


 やがてアルミン、アドルフ、ナカムラ博士も順にコールドスリープが解除され、次々に目覚めたが、長時間のコールドスリープによる副作用による、酷い目眩と吐き気から逃れられなかった。

「一時間後、ミッションルームに集合してくれ。事態の説明と今後の方針について話す。それまでは各人、シャワーでも浴びて、船内着に着替えておくように」オニールはそう言って、コールドスリープ室を出て行った。

後に残されたメンバーは未だに状況を理解できないでいた。 

 きっかり一時間後、ミッションルームに集まったメンバーは何事が起こるのかと不安で落ち着かなかった。

 オニールは5分遅刻して部屋に入ってきたが、責める者は誰一人居なかった。

「みんな、落ち着いて聞いてくれ。先ほどデュボア長官より優先度一級の命令が下された。その命令だが、バルカン帯のランデブーミッションを最優先で行うということだ。その代償として、水星調査観測ミッションは短縮シュリンクされる」

 科学者のメンバーからどよめきが起こった。

「ちょっと待ってくれ。二週間じゃほとんど何も出来んぞ。ベースの設営、探査装置の準備で三日もかかるんだ。それに、着陸地点から調査目標までだって一日以上はかかる。それに最低でも三箇所のデータが欲しい。とても二週間なんて無理だ。寝ないでやれというのか?」と、カウフマン博士は手を震わせながらオニールに抗議をした。

「すまない。上からの命令だ。与えられた時間でなんとかして欲しい」オニールは淡々と彼に答えた。

「オニール大佐。ちょっとよろしいかしら?」ナカムラ博士は見かねて声を上げた。

「カウフマン博士はこの計画のために何年もの歳月を費やしているのですわ。それなのにミッションを短縮する理由って何なのですの?」

「本部はバルカン帯の方が重要だと思っている。ここからは、局が送ってきたビデオプログラムを見てほしい」

 オニールが話し終わると、室内はふっと暗くなり、テーブル上のエアスクリーンにプロジェクトマネージャーであるフェルデナント・アイヒマンの仏頂面映像が投影された。

アイヒマンが長々とどうでもいい前置きをすると、ようやく本題が始まった。

 丁寧に作られた、計画の説明映像は、まるで何年も前から周到に用意された様に見えた。

 いままでの訓練も計画も実はこのために用意された茶番のように見えた。局はこの計画を出来る限り秘密裏に進めるため、宇宙飛行士すら欺いていたかのように思えた。

 ミッションの概要は水星より内側の軌道を回っているバルカン帯に赴き、そこに着陸してサンプル採取、撮影などを行うことだった。

 約一時間ほどの映像が終わると船内がどよめいた。

「着陸だって? そんな訓練は受けてないぞ」

「無人探査船ならともかく、小惑星への着陸なんて例がない」

「ほとんど重力がない小惑星に着陸なんて、自殺行為だぞ」

クルー達は次々と疑問を投げかけたが、オニールは、

「これも長官からの命令だ。合衆国軍人である私には拒否権はない」

「だったら軍人ではない我々は、その命令は拒否する」とカウフマンは言った。

「それは致し方ない。軍人ではない君達に強制することはできない。ただし、これはお願いだが船内からの探査だけは協力してほしい。これは命令ではない。お願いだ」

返事をする者は無かった。静寂に包まれた船内から聞こえてくるのは計器が動く音だけだった。


 すべて自動制御で航行している、この船で人が手をかける事は殆どなかった。やることと言えば計器と航行レポートのチェックくらいだ。もしもエンジン不調や空気漏れなどあれば、航行ログにレポートされるはずだし、計器のアラームがけたたましく鳴るだけだが、幸いなことにそんな事は無く心配無用だった。

 コールドスリープから覚めて十日ほど経ち、水星が目視圏に入って来る頃、自動航行システムは水星の軌道に入るため、アプローチをかけ始めている。

 水星は太陽に非常に近いため、重力井戸に引きずられないように軌道を維持するのは簡単なことではなかった。しかしそれは全てマシンがやる事なので、クルーは唯見守る以外はない。

 船は何度もアプローチと修正を行いながら徐々に軌道に乗っていった。そうして、午前中に始まった軌道突入も夕方までには無事完了した。

「エクセルシオール、ただいま水星軌道に乗りました」とジャックが満面の笑顔で報告すると、皆一様に安堵の息をもらし、その後拍手が起こった。

「船長、これ皆で作りましたの」

ナカムラ博士が銀細工のような水星とエクセルシオールをあしらったバッジをオニールに手渡し、握手を求めた。

「ありがとう。みんなよくやってくれた、ありがとう」とナカムラのか細い手を握り返した。

 クルーはまた拍手で応えると、オニールの言葉を待つ。

 オニールは拍手の収まるのを待って、皆を一瞥すると、

「みんな、ご苦労様。本線は無事に水星に到着できた。しかし、まだミッションが終わったわけではない。

 我々はこれより水星着陸に入る。計画どおりカウフマン博士、ダニエル、私オニールが着陸船により水星に着陸を行う。

 ダイク博士、ナカムラ博士、ハモンドは船内に残って軌道上からのミッションを遂行してくれ。以上だ」と述べた。

 クルーは皆緊張した面もちでオニールを注視し、彼からの指示を待った。

「ダイク博士、ジャックは着陸船の最終点検を頼む。特に問題なければ、翌日八時に出発だ」

 二人はうなずくと着陸船格納庫のハッチに向かっていった。

「ナカムラ博士は着陸メンバー三人の健康診断を頼む」とオニールが言うと、

「そうですわね。では船長から始めますわ。一時間後に医務室へお願いします」と博士は優しく言った。


 格納庫は船室より断熱が甘く至近距離の太陽からの熱で夏のように暑かった。

「ダイク博士、メインエンジン、スラスター特に問題ありません。コクピットも異常なしです」ハモンドが額をびっしょりにしながらドイツ系の如何にも研究者然とした男性に報告した。そして、

「しかし暑いですね。これでバルカン帯なんて行けるんでしょうか?」と身長百七十センチほどの小柄な金髪碧眼の青年は着陸船を手でこつこつとたたきながら言った。

「とりあえず設計上は2倍の熱量も耐えられるようになっているからね。問題ないとは思うが、何にでも不慮の事故はつきまとう。百パーセント安全とは言い切れないのが不安なところだ」とダイクはハッチを閉じ、シールをチェックしながら答えた。

「そうですか。ところで博士とはあまり喋れませんでしたが、ドイツ出身ですか?」

ハモンドは着陸船のコンテナ部分の外観チェックをしながら言った。

「いや、私はドイツ系だが君と同じアメリカ人だよ」

ダイクのグレーの瞳がハモンドを不思議そうに見つめる。

 短髪ブロンドヘアの青年は失礼なことを言ってしまったと少し後悔した。

「そうですか、いやあの、少しドイツ訛でしたのでドイツ出身なのかと」

「ああ、そうか」とダイクは少し笑うと、

「実は父と母はドイツ出身でね。もともとオレンジ社のドイツ支社に勤めていたんだがね、転勤でシリコンバレーに移って働いていたんだ。僕は彼らがアメリカに来てから生まれて、ドイツには旅行でしか行ったことがないんだけどね、両親の影響を受けてすこしドイツ語訛りがあるのさ」と答えた。

「そうだったんですか。これは失礼なことを聞いて申し訳ありません」

ハモンドは少し顔を赤らめて言うとメンテナンスパネルを閉じると丁寧にねじ止めをする。彼に失礼な事を言ってしまって気分を悪くされていないか不安だった。

 ダイク博士は最終チェック用のプログラムを走らせると、スティック(小型の棒状コンピュータ端末)からフレキシブルモニターを引き出し、最後の確認をする。

「よし、問題ないね。これでいつでも飛び立てる」と博士は言った。

「本当のところ博士も地上に降りたかったのでは?」ハモンドはツールボックスを手に持つと博士に尋ねた。

「うむ、そうだね。でもチリウム鉱石の探査はアドルフがライフワークにしてたからね。彼ももう五十代半ばになる。次回のミッションはもう無理だからね。それに引き替え僕はまだ四十に成ったばかりだ。まだ、チャンスはあるからね。ところで君はカーター少佐が選ばれたことに不服はないのかい?」

「正直言うとあります。でも彼の方が適任ですよ。彼は僕よりも操縦がうまいんです。僕は何回もひやっとしたことがありますが、彼の操縦では一切ありませんから」

サファイアのような瞳にキレいな金色の髪の毛、屈託のない笑顔を見せる青年に対してダイク博士は感心した。

 自分は彼と同じ年齢のとき、同年代で宇宙飛行士になった同僚にもっと嫉妬していた。実際に今もアドルフには多少なりとも羨ましさはある。表では彼が適任と言っても本当は自分も着陸ミッションに加わりたかった。

 彼は自分よりも一回りも若いこの青年に気後れを感じたが表向きは平静を装い答えた。

「そうか、なるほど。でも此処まで来る者はなかなかいない。此処に来れただけでも良しとしたいね」

「そうですね。NASAでも予備パイロットのまま終わってしまう人が殆どですから」

「ところで例の小惑星とランデブーして着陸するミッションは志願するのかい?」

ダイク博士は着陸船のハッチから先に出て、ハモンドの手を引っ張って出してあげた。

「博士、ありがとうございます。博士たちが行かない限り、ぼくとダニエルが行かなければなりませんから」

ハモンドが礼を言うとダイクは、

「私は少し興味あるんだ。アドルフがかなりの剣幕で怒っていたから、あのときは言い出せなかったけどね。僕は彼と違って楽天家のだしね。小惑星の着陸なんて、すべてコンピューターでやるから安心しているのさ」と自分の本当の思いを口にした。

「そうですか。じゃ自分の席を譲らなければいけませんね」とハモンドは答えたが、すぐさま、

「いや、冗談です。自分も水星には降りれないのでせめて小惑星でも降りたいですね。ひょっとしたらエイリアンに会えるかもしれませんしね」と答えた。

 ハモンドは冗談で言ったつもりだったが、あながち間違ってもいなかった。しかしそれを知るのは大分後になってからであった。


「こちらオニール。水星着陸船『エルメス』発進準備完了。エクセルシオール、準備整ったらカウントダウン開始してくれ」

オニールは着陸船エルメスのコクピット副操縦士席に着座し無線機の送信ボタンを押しながらそう言うと、エクセルシオールのハモンドからの返事を待った。

やがてハモンドから、

「大佐、了解しました、カウントダウン開始します」と返答がくると、まもなく味気ない音声合成音でカウントダウンが始まった。

「カウントダウン。発進十五分前。格納庫オープン」とコンピュータの合成音声が告げると、ズズンと振動を伴い格納庫がある円錐状になっている船の先端がぱっくりと、まるでチューリップが咲くように開いていく。

 格納扉が五分ほどかけて全開したすると、船内のスピーカーが、

「発進十分前。係留装置解除」

と震えるように発声した。

「格納扉オープン、係留装置解除、問題なく完了」とハモンドから報告の通信が入る。

 いよいよ発進だ。パイロット席のカーター、後部座席のアドルフ博士と目配せをする。

「さあ、紳士諸君。まもなく発進するぞ。準備はいいかね?」とオニールは言った。

 コンピュータにトラブルがあった場合、カーターが手動で着陸しなければいけない。 なに大丈夫さ。訓練は何回もやっている。少なくとも水星の場合は、とオニールはこういう場合にいつもふと頭によぎる不安を払拭するために自分自身に言い聞かせた。

「カウントダウン、テン、ナイン、エイト、…、トゥ、ワン、マーク」

 カウントダウンが完了すると、メインスラスターから高温の化学燃料が反応して発生したガスが噴射され、エルメスがエクセルシオールから離れていく。

 右のモニターから後方の様子が見える。どんどん離れて遠くなっていくエクセルシオール号。

 それとは逆に前方を見ると黒っぽく鈍く輝く水星が近付いてきた。

「まるで黒い月だな」

オニールはモニターから見える風景をみてそう思った。合衆国はアポロ計画以降、月の有人探査をやめているから、百年ぶりの天体着陸ミッションになる。

 今の月はもっぱら中華共産連合が精力的に進出している。彼らはその有り余る富で遂に月さえも手に入れてしまった。

 そしていまや九つの月面基地と二つの採掘鉱床を持っている。

 国連の非難決議なんて知ったことではない。いまや国連などなんの意味もない。そしていずれは月面に植民地を作るだろう。そして火星さえも。

 今回の水星ミッションは宇宙開発で中国の後手にまわったアメリカの起死回生プランだった。

 それに月はせいぜいレアメタル、鉄などの金属類だけだが、水星にはチリウム鉱石という、一キログラムで火星を往復できる夢のエネルギー源が大量に埋蔵されている。これがあれば地球のエネルギー問題も解決できるし、わざわざスイングバイを使わなくとも太陽系の端まで行ける。宇宙開発も飛躍的進むだろう。

 エルメスは姿勢制御を行いながら、水星の表面に近づいていく。どこまで見ても黒色の死の世界。一部を除けば昼間の地表面の温度はアルミをも溶かす七百度に達する。我々は比較的地表温度が低い極地に着陸する予定だ。そしてそこに到達するまで、さして時間はかからなかった。


 発進から三時間後エルメスは遂に上空三百メートルまで降下していた。

「あと数分で目標地点のゲーテ盆地です。大佐、アドルフ博士、減速に備えて下さい」

 ゲーテ盆地。偉大な詩人の名前を取ってつけられた。初のミッションとしてふさわしいロマンチックな名前だ。名前はロマンチックだが黒光りする地面はまるで魔王サウロンの住むモルドールの様だった。しかも、ここにはホビット庄どころか、ゴンドールもミドガルドもない。

 突然強いGがかかり、首がガクンと揺れる。エルメスは着陸用のスラスターを噴射させ徐々に降下していく。スラスターの噴射が猛烈な勢いで水星の薄い大気をかき混ぜている。

 降下が始まると着陸までさほど時間は掛からなかった。エルメスは砂煙を巻き上げ着陸する。しばらくするとガツンという衝撃が無事着陸したことを知らせてくれた。

「無事着陸です」

カーターが額を拭って言った。

 オニールは無線機を取ると静止軌道のエクセルシオールと地球のNASA本部に伝えた。

「あー、こちら水星探査船エクセルシオール船長のウィリアムオニール。二〇三六年七月三十一日 十四時二十七分水星ゲーテ盆地に着陸完了。オーバー」

「こちら、エクセルシオール。着陸確認した。大佐おめでとうございます。オーバー」

ハモンドの声だ。NASA本部の音声は早くとも十分後だろう。それだけ、地球と此処は離れている。

「よし、休んでいる暇はない。早速ローバーを下ろそう」

 着陸船はトレーラーのように操縦席部分と荷室部分に分かれている。コンテナ部分は着脱できるようになっており、コンテナだけ水星に置いて帰還することになっている。燃料を節約するためには致し方ない。

 カーターがコクピット左端の操作子を押すと船体から油圧サスペンションによりコンテナを降ろす振動が伝わってくる。

 その間、NASA本部からの着陸をねぎらう言葉が、いまになって届く。

 振動はメッセージが終わる直前におさまり、ブブッというブザーが動作の完了を伝えた。

「コンテナの揚陸完了」カーターいつものでかい声で報告した。

「よし、それでは各自ヘルメットを着用して、ハッチに行け。カウフマン博士大丈夫か?」オニールはカウフマンを見る。

「大丈夫だよ。訓練で何回もやってるからね」

「それならオーケーだ。外出る前に気密テストは必ずやってくれ。いいね?」

オニールはカウフマンにそう言うと、

「じゃ、ダニエルまず君からだ」

と目配せをした。

 カーター少佐がヘルメットを着用し、ノッチがカチッとなるまで回転させると、気密服の上腕にあるオペレーションスイッチが一瞬明滅する。ロックされた合図だ。そして彼はそのボタンを押し気密テストを開始した。テストは意外にも数十秒と短時間で終了した。

「気密性、機器状態、温度調節、オールグリーンです」

 カーターが報告するとオニールもすぐさま気密テストを行う。当然の如くオールグリーンだった。

「カウフマン博士、どうですか?」

手際が悪いカウフマン博士を見かねたカーター少佐が尋ねた。

「いや、なかなか上手くノッチに引っかからなくてね」

まだヘルメットが上手く装着出来ないらしい。

「手伝いますよ」

カーターがヘルメット浮かせてOリングにをはめ直してあげる。

「よし、これでオーケーです」

「ありがとう。助かったよ」

カウフマン博士はカーターにお礼を言うと腕のスイッチを押してテストを開始した。しかし博士はいつまで経っても完了の報告をしない。どうやらテストがうまく行ってないらしく何度もスイッチを押していた。

「あれ、おかしいぞ。カーター少佐、少し見てくれないか」

カーターはディスプレイの表示を確認すると険しい顔になった。

「大佐、ちょっと」

オニールはカーターに呼ばれ、カウフマン博士が着用している気密服の表示をのぞき込んだ。

「どうも電気系統に異常が有るようです」

カーターが深刻な表情で、オニールに言うと、

「そうだな、メイン冷却水モータが不調のようだな。これはまずい。カウフマン博士、残念ですが今回のミッションだが、船内作業に切り替えてください。チリウム鉱石探査は上空のエクセルシオールからの遠隔探査か、ドローンをつかった探査に切り替えましょう」

と何時にも増して真剣な表情でカウフマンを伺って言った。

 しかし、博士にとって、それは青天の霹靂だった。博士は顔を真っ赤にして、

「何を言ってるんだ? ここまで来て。私は宇宙服に異常が有っても行くよ。これが最後のチャンスなんだ。行かせて欲しい」

と訴えた。

「そうは言ってもクルーの命を守るのが船長の勤めです。認めるわけにいきません」

壮年の軍人は顔をしかめて言った。

 しかし、それでもこのドイツ人の男は諦めきれず彼に食い下がった。

「せめてもう一度テストさせてほしい。お願いだ」

 オニールはこの幾分粘着質な男にうんざりとして、

「仕方ありませんね。三回テストしてすべてパスしたらオーケーとしましょう。ただし一つでもNGが出たら従ってもらいます」

と妥協案を提示した。

「わかった、船長。その案に従うよ」

ドイツ人は安堵の表情を見せながら彼に握手をした。

「まず一回目です」カーター少佐はカウフマン博士にテストを開始するよう促した。

 博士が腕のグリーンボタンを五回、オレンジボタンを三回、そしてエンターキーを押して気密テストを開始した。

 腕の十個のボタンは規則的に明滅を始める。テスト実行中のサインだ。

 ボタン横にあるディスプレイにテスト項目とその結果が次々にリストアップされる。オールグリーン、すべてパスだ。

 博士はホッと息を着く。しかしテストはまだ一回目だ。あと二回はパスしなければならない。

「二回目です」カーターが告げる。

 博士はまたグリーンとオレンジのボタンを決められた回数押す。ボタンが明滅する。

結果はパスだ。

「あと、一回」オニールが呟く。

「では最後。三回目です」

カーターが告げるとドイツ人はさっきと同様にボタンを押す。ただし、今回は慎重だった。一つ一つ丁寧に確実にプッシュしている。そして最後のエンターキーを押したとき、彼は目を瞑り神に祈り始めた。

 今まで同様にボタンの明滅が始まり、五分ほどで完了した。

 彼はゆっくり目を開け、結果を確認する。パスだ。

「おお、神よ!感謝いたします!」

彼は感激で涙を流して喜んだ。

「おめでとう。博士。とりあえず船外活動を許可します。しかし、何かあったらすぐ報告してください」

 オニールは正直面倒なことにならなくてほっとしていた。テストがフェイルしたら、また博士がしつこく食い下がってくると思ったからだ。

「船長、ありがとう! 感謝するよ!」

博士は心底喜んでいた。もしダメだったら今迄の苦労が水の泡になるのだから仕方が無いのだろうが。

「さ、時間がない。早速外に出よう」

オニールは二人にエアロックに入って船外に出る準備をするように言うと、二人の肩を叩きエアロックに押し込んだ。

 エアロックの内扉を閉じ、排気ボタンを押すと空気が徐々に抜けていくのが判る。しばらくするとエアロックのランプが黄色からブルーに変わった。排気完了の合図だ。

 ハッチのレバーを下げるとドアが開き、格納されていたタラップがするすると伸びて、地面に着地する。

 初めて肉眼で見る火星の大地は一面が黒い砂で覆われていて、まるで活火山の火口に来ているようだった。

 まずオニールが一番にタラップを降りていく。そして、カーターとカウフマンが後に続いた。

 オニールはヘルメット内のマルチインフォメーションディスプレイに映る自身のバイタルをチェックした。特に問題はない。

「カメラ・オン、通信」とヴォイスコマンドを口にする。

「こちら、水星探査船船長オニール。これから、水星に降立とうとしている。太陽からの光は強いが極地付近なので思ったより温度は高くない。カーター、カウフマン博士、そして自分、三人とも健康上問題は発生していない。きわめて順調だ。これより水星の大地に足を下ろす」

 オニールはタラップの最後の段から足を外し、地面に足を着けた。

 自身のヘルメットについているカメラ経由で様子を見ている、エクセルシオールのクルーから拍手と歓声が起こる。

「船長、おめでとうございます!」

ハモンドだ。

「おめでとう!」「おめでとう」

マイクの向こう側から、ナカムラ博士とヴァン・ダイク博士の声も聞こえてくる。

 水星の大地にしっかり足をつけ、遠く地球の方を見やった。漆黒の闇に浮かぶブルーと白の二つの点。いわれなければそれが地球と月などと気がつくまい。そして、先ほどの通信から今ごろになって、NASAからの音声が届く。

「オニール大佐、おめでとう。よくやった」

こちらは職員が何十人といる管制室からの所為かより多くの拍手と歓声が聞こえた。

「大統領から祝電が入っているから、よみあげるぞ。『ウィリアム・オニール大佐、ダニエル・カーター少佐、アドルフ・カウフマン博士。そしてエクセルシオールクルーのジャック・ハモンド少佐、アルミン・ヴァン・ダイク博士、アヤ・ナカムラ博士。君たちの勇気ある偉大な挑戦が成就したことをここに祝う。幾多の困難な状況も克服し、到達できたことに合衆国民を代表して感謝を述べる。 アメリカ合衆国大統領 クリストファー・ケイン』」

 続いて、ヘルメットのスピーカーから音が割れてうるさいほどの拍手。

 たぶん、全世界に中継されているだろう。しかし何人の人間が見ているか? 月面着陸の時代と異なり、地球の周回軌道あたりまでなら、もう何百人の人間が宇宙に飛び立っている。例え、此処が水星でも何人の人間が興味を持っているのだろうか? オニールはそんなことが頭に浮かんだ。

 アメリカ国旗とミューズ宇宙ステーションに協力している、ロシア、ヨーロッパ連合、カナダ、日本の複合旗を立て、その前で三人で記念撮影をする。

 オニールたちは、記念撮影を終えると、早速ミッションの準備のため、各機材の搬出を初めた。

 オニールは無線でカウフマンを呼んだ。博士はよたよたと近づいてきた。まだ水星の重力に慣れていないようだ。

「博士、今、ダニエルがローバーを出してます。博士には走行テストを頼みたいのですが、訓練は受けてますよね?」オニールはコンテナの方を指さして言った。

「ああ、もちろんだよ。具体的には何をやれば良い?」と博士は尋ねた。

 オニールはデジペーパー(任意の空間上にポップアップして大画面を表示する装置)で博士に概要を説明し、

「それほど難しいものではありませんが、未知のクレバスに落ちないように注意してください」と付け加えた。

 ドイツ人は、「ああ、わかったよ。小一時間ほどで良いよな?」とつっけんどんに言うとコンテナの方角にきびすを返した。たいしたことでは無いので、少し面白くなかった様だが、今はこれくらいしか頼めないし、いずれにしろテストはしなければいけないから、少しでも時間を節約するためには、例え高度な知識を持つ博士でも、つまらない仕事を頼まないわけにはいかなかった。

 オニールは博士に、よろしく頼むとひと言だけ言って、次にカーター少佐に、ドローンを下ろすように命令した。

 ドローンは地形探査とチリウム鉱石の探査に使うものだ。主にカウフマン博士が使用する。

 カーターはドローンを搬出が完了すると、次に作業用ロボットをどうするかをオニールに尋ねた。

 オニールは暫く考えた後、起動テストの実行だけを命令した。そして、当初の予定どおり、定期の状況報告を記録し始めた。

「現在までの報告、水星に無事到着。探査に使うローバーとドローンの準備中。今後、ドローンで周辺の調査を行いつつ、ローバーでの周辺の地形調査、映像記録、サンプル収集から入る。ドローンでの地形調査は今日中に終了させ、チリウム鉱石の調査はカウフマン博士にゆだねる。以上」

 報告記録が終わってしばらくたった後、博士から無線連絡が入った。

「こちらカウフマン。これから走行テスト開始する」

博士の息遣いが荒い。何か異常があるのか? オニールはカウフマンのバイタルをチェックして見たが、特に異常は見られなかった。すべて正常の範囲内だ。それどころか、すべての数値が平均値内に収まっている。数値で見るかぎり健康体そのものだった。

 オニールは船外活動前のチェックでのスーツの異常を気にしていた。再チェックで異常無かったから、船外活動を許可したが、少し後悔していた。とにかく博士の状況については注視する必要があると思っていた。

 小一時間ほどで博士はローバーのテストを完了し、ベースキャンプに戻ってきた。

「博士。ローバーのテスト、どうですか?」

 オニールの質問に博士はローバーからゆっくり降り立ち、ヘルメット内モニターで計測値を一通りのチェックすると、

「順調だよ。どこも問題ないみたいだ」と答えた。

 博士はドローンの整備をしているカーターに気がつくと、整備の進捗について尋ねた。

カーターは、舞い上がるレゴリスと格闘しながら、

「いま、引っ張り出したのでもう少しですよ。今は梱包用のフックをはずしています。それが終わったら、燃料用のカセットを装着して、機動確認をすればオーケーです」と答えた。

 博士は機動確認は自分でやると答えるとローバーの置き場をカーターに確認して、そこに停めた。

 カーターが梱包のカバーを外すと、ミッションで使用する水星探査専用のドローンが姿を現した。

 全長は二メートルほど。胴体幅は三十センチ。両翼に二機ずつのスラスターがついたドローンの外観は、エルメスの縮小模型のようだ。

 先端には視界用のカメラドーム。探査機器格納部、燃料カセットの格納部、上昇と姿勢制御用スラスター、推進用エンジン。

 これは水星探査の為に開発したもので、低空からの観察が可能なように設計されており、詳細な調査が期待できるものだ。

 カーターはカバーを畳み、操作卓の下に押し込むと、博士に、「使い方はご存じですよね?」と尋ねた。

 博士は、「ああ、大丈夫だよ」と一言答えただけだったが、内心では、そんなの当然のことだ。何しろ私が開発主導したのだと憤りを感じていた。

 カーターは、

「じゃ、オーケーですね。何か気づいたこと有ったら教えて下さい。私はまだやることがあるので」とぶっきらぼうに話す。そして彼の前を去っていった。

 カウフマンはセルフチェックテストで、異常がないのを確認すると、燃料カセットを差し込み、プログラムをロードし、起動スイッチを押し込んだ。

 ドローンはレゴリスを巻き上げながら十メートルほど上昇し、彼の頭上を静止している。 博士が表示画面のGOボタンをおすとドローンは最初の探査地点のフラークレーターまで飛び去っていった。

 ヘルメットのスピーカーからは、雑音混じりの音声で、

「博士、無事飛びましたね。良いデータが採れることを期待してますよ」と、聞こえてきた。オニールのねぎらいの言葉だった。

 一方、カーターはウォーターボーイをコンテナから出し、セルフテストを行っていた。ウォーターボーイはレゴリスから酸素、水素、その一部からさらに水を合成したり、凍結した氷から直接水を取り出す機材だ。

 一ヶ月と長期にわたってのミッションでクルー水と酸素を供給する為に作られたものだ。作動させるのに多くの電力を必要とするが、太陽光パネルにより賄っている。

 カーターがウォーターボーイのセルフチェックスイッチを押すと、一瞬機械がぶるっと震えた。

 これが実際に動く様は地球でも確認したが、いくら、水星では騒音を気にする必要がないからと、まったく防音に気をつかってない設計の為、とにかくやかましい機械だった。

 ここでは無音だが、実際に音が聞こえてきそうな気がするほど、動作音による振動が目に見えて判った。

 あとは太陽光パネルの設置とケーブル接続をする必要がある。彼は、コンテナから下ろした機材を黒い水星の大地の水平線上に浮かんでいる巨大な星に向けて設置し始めた。

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