第9話 電子回遊の魚

 そして光人は気づく。暗い場所ではあるが、周囲はぼんやりと深い青色の光で満たされているのだ。光の出所はジェンの背後。そちらに目を向けると――


「水槽……?」

「あ?」


 そこにあったのは大きな水槽であった。光人たちの身長よりも幾分か背の高い透明な水槽。横幅は両腕をまっすぐに広げても足りないだろう。水族館を彷彿とさせる大きさのその水槽は、暗い穴の底で、神殿のような場所に鎮座していた。ぽかん、と口を開けている光人に片眉を上げてジェンもまた振り返る。そして光人と同じ表情になった。


「神殿か……?水槽ってのは珍しいな。」

「それに、水槽だけで中に何も入ってない。」

「さっきの落とし穴のこともあるし、注意して進むぞ。」

「うん。」


 慎重に進み、眼前に迫ると水槽の大きさが際立つ。周囲は穴の上に広がる森とは別世界のような景色であった。神殿のような、どこか古びた石の建造物はただ静かにそこにある。水槽の上部に取りけられているらしい深い青の照明は水槽とその付近を照らすのみで、背後を振り返っても暗闇が広がるばかりであった。その神殿と水槽を設置するためだけの最低限の広さを持った空間、といった印象である。とはいえ、洞穴のようであるかというとそういうわけでもなく、地面は少し埃っぽいがタイルであった。壁や天井には打ちっぱなしの無機質なコンクリートの上に無数の配管やコードが張り巡らされており、そのすべてが水槽の中へとつながっていた。人間かあるいは同程度の知能を持った生き物がここで活動していたことを証明するそれらの周囲に、今は誰もいない。謎の宗教が作り出し、今は放棄された秘密の地下研究施設――光人の中では、それが最もしっくりくる表現であった。


『――ダれ?』


 機械音に近い女性的な声。背筋が瞬間的に凍り付く。ジェンが素早く臨戦態勢に入った。腰を落とし周囲に視線を巡らせる。光人はまたサーベルの鞘を強く握りしめた。しかし彼らの目に声を発するようなものは映らない。


『こちらデす。水槽の中にワタシはイます。』

「どこだよ……。」


 警戒しているのか、ジェンは後方にも注意を配りつつ水槽の中を見渡す。一見その水槽には何もないが――すい、と動く影が一つ。


『こコです。』

「魚……?」


 大きな水槽に見合わない小さな魚が、ぽつん、とそこに浮いていた。細長い、小指ほどの長さの体は半透明で、内側は臓器の代わりに金属の骨格と歯車が透けている。ちぐはぐな姿をした熱帯魚と思しきフォルムのそれは優雅に泳いで見せた。キラキラと青みがかった体に赤いラインが映える。光人は、何年か前まで家で飼っていたネオンテトラを思い出した。


「ジェン、まさか生存者ってこの魚?」

「まぁ……ない話ではねーよ。友好的かどうかわからん。警戒しとけ。」


 小声で会話したが、どういう原理か魚には聞こえているらしい。泳ぐのをやめ、魚はガラス越しに二人を見ている。


『敵対スるつもりは、ありまセん。ここを破壊スルのなら、話は別でスが。』

「その予定はねぇよ。」

『そうでスか。ならバ、問題は皆無デす。ワタシは“電子回遊の魚”。主人公に助言する者デす。あなタタちは何をシにここへ?』


 二人は「主人公」という言葉に反応しかけたが、咄嗟にそれを隠した。ジェンが一拍置いてから魚に答える。


「オレたちはこの世界の時間が止まってることに気づいてやってきた。」

『アァ……。』


 魚はジェンの言葉にため息に似た声を発した。諦めと理解を同時に処理したような声は、電子的な声質であるにも関わらず妙な人間味を帯びていた。魚の目が伏せられる。


『やはり、こノ世界はもう、止まッてシマったのですね?』

「分かってくれるなら話が早い。オレたちは生存者の保護をしにきた。……お前だけだよな?」

『ワタシだけでショう……。しかし、ワタシはこの世界が終わるのナらば、そのマま、一緒に終わりたい。』


 目を伏せたまま魚は悠然と泳ぐ。


「そうしたいならそれでもいいけどよ。でも、お前の時間は動き続けるぞ。お前が壊れるまであとどれくらいかかるのかは、俺たちには分からない。その間、ずっと一人でここで泳ぎ続けるのか?」

『ハイ。……ワタシを求める人物ガ、ここを訪れることがナイのなら一瞬も永遠も、大差はなイのですから。問題は皆無でス。』

「寂しくないの?」

『寂シい?』


 思わず口を挟んだ光人の言葉に魚はしばし沈黙した。ゆるり、とまた二人の眼前まで泳ぐ。ゆっくりと、体内の歯車が回るのが見えた。


『ワタシの心はプログラムでス。寂しい、の項目は見当たりマせんでしタ。いかなる状態異常デすか、ソレは。』

「……誰かに、そばに居てほしくなるような気分になることだよ。」

『ダレか……。』


 胸に空いた穴に、細く風が通り抜けるような感覚を思い出しながら光人はじっと魚を見つめた。魚もまた、光人を見つめる。ジェンは何か言おうとしたのか口を開いたが、そのまま何も言わずに噤んだ。しばしの沈黙がその場に落ちて――魚はまた、アァ、とため息をついた。


『誰かに、そばにイテ欲しいとハ、思いません。』

「うん。」

『ただ、ワタシは、ダレかに見つけて欲しカッたのです。これは、寂しい、に該当デすか?』

「……うーん。もしかしたら、少し違うかもしれないけど。寂しい、のひとつなんじゃないかな。」

『ならバ、ワタシはここにいラれない。』

「どういうことだ?」

『ワタシはきっとまた、寂しく、なっテしまウでしょうカラ。』


 機械音声は、哀愁で満ちていた。


「そうか……。」


 うなずくジェンの声もまた、真剣な重さがある。きっと彼もサジェの言うような別れを何度も経験したのだろうと、光人は漠然と感じた。


「んじゃ、連れて帰るけどよ。どうやって出したらいいんだ?っつーか、水の外に出て大丈夫なのか?」

『ワタシに呼吸は必要アリません。水槽ノ脇に、階段ガあるので、ソコかラ登ってきテいただケマすか。』


 言われるがまま二人が水槽の脇を覗くと、確かにそこには階段があった。石造りの神殿にも、滑らかなガラス製の水槽にも不釣り合いな、手すりの無い錆びかけの鉄製の階段である。そっと慎重にジェンが足を置くとギィ、と金属のこすれ合う音が響いた。


「光人、二人で乗ると壊れそうだ。行ってくるからちょっとそこで待ってろ。」

「分かった。」


 カンッ、カンッという固い足音と金属のきしむ音を同時に響かせながらジェンは水槽の上部まで登る。魚は同時に水面近くまで泳ぎ、ジェンの手に無事にすくわれた。彼の両手に収まる魚は、一見息絶えているのかと勘違いするほどに大人しい。


「本当に大丈夫なんだな?」

『ハイ。』


 階段を登るとき以上に慎重に降りてジェンは息をついた。


「詳しいことは連れて帰ってから話すけどよ。俺たちの世界ではたぶんお前も人間の姿を取ることになると思う。」

『?』

「どういうこと?」

「世界にはそれぞれ決まり事ってのが存在する。例えば俺たちがホームにしてるあの世界は、人語をしゃべることができるのは人間だけってことになってるらしい。だから、こいつみたいに人間じゃないけど話せるっていう場合はあっちの世界に行くと強制的に人間にされる。まぁ、実際にそれも見てみないとわかんねーだろうけど。」

「でも、この魚機械っぽいけど、そこはどうなるの?」

「だからたぶん、なんだよ。今までにも事例はあるのかもしれねぇけど、オレはまだ機械を連れて帰った経験はねぇからな。もしかしたら機械が人語を話すのはおかしくないって判断でこのままの姿になるかもしれん。」

『なるホど。一応、その情報ヲ記録しておキます。』

「んで、オレは帰還処理しなきゃいけねぇから、この魚はお前が持っててくれ。代わりにその剣は預かる。」


 サーベルを渡して光人が両手を前に出すと、少しの水滴と共に魚が受け渡される。そういえば人間の体温は熱くないのだろうか、と光人は急に心配になった。


「熱くない?」

『問題ありマせん。』

「なら、いいけど。あと、名前は無いの?」

『ワタシは“電子回遊の魚”デす。それ以外の呼び名ハありまセん。お好きにお呼ビください。』


 再び、光人の脳裏に飼っていたネオンテトラがよぎる。ジェンはポケットからここに来るときに使ったものと同じようなカードを取り出してこちらを見ている。どうやら待ってくれているらしい。悩んでも仕方がない、と光人は思いついたとおりに告げた。


「じゃあ、テトラはどうかな。あ、俺は光人です。」

『テトラ。……いい、名前デす。インプットしまシた、光人。』


 表情など変わるはずもない魚――テトラがほんの僅かに微笑んだ気がした。ジェンがカードを掲げる。


「弐番書庫、ジェン・フランカ、及び篠宮光人。帰還する!」


 カードが輝き、まばゆい光に彼と光人、そして光人の手に収まるテトラが包まれる。その光が収束した後、世界は静けさを取り戻した。主をなくした青い光に照らされる水槽は、波を立てることもなくそこで静かに沈黙した。

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