第10話 魚を想いながら
目を開けるとそこは冊子の置かれた書見台のある部屋であった。ぼんやりと光人は戻ってきたのだと理解する。ハッとして両手の平を見ようとして気づく。そこに魚はいない。その代わり――――視界に入ったのは、滑らかな白い肌であった。光人の胸に倒れこむようにしている目を瞑ったままの少女。青みがかった肌。プラチナブロンドの髪。同じ色の長いまつ毛。右側の腰から足にかけて鮮やかな赤のラインがタトゥーのように引かれている。閉じられていた瞼が持ち上がり、透き通るような青い瞳が光人を見上げた。テトラだ――と光人は確信した。
「ぁ、――っ、ぅ?」
光人の姿を認めたテトラは口をパクパクとさせ、苦しそうにもがいて体を離した。その場にへたり込んでしまった彼女は苦しそうに何度もせき込む。
「テトラ!?」
「しまった、上手く呼吸できないのか……!」
「ど、どういうこと!?」
「説明は後だ!ちょっとここにいろ!」
ジェンが扉を開けて走り去る。テトラは依然として苦しそうに空気を求めてあえぐ。何かできることは無いかと混乱する頭で考えるが、状況もあまり把握できていない光人には何もできない。しかし視界に滑らかな彼女の胸の膨らみが入り――
「とりあえずこれ、着てて……!」
勢いよく視線を顔ごとそらしてから上着を脱ぐ。何も身に着けていなかったテトラを慣れない手つきで包むように羽織らせてやる。ぎゅう、とその上着を掴む彼女の背をさすり、ただ落ち着くのを待つだけしかできない自分に苛立ちながらジェンを待つ。程なくして、扉の向こうから複数人の足音が聞こえた。扉がスライドすると、ピンク色のツインテールが揺れた。その後ろには担架らしきものを持ったジェンも見える。
「み、ミシュリーっ、どうしよう、テトラが。」
「落ち着いて光人君、大丈夫だよ。とりあえず私たちのところまで運ぶね。手伝ってくれる?」
頷いて、ミシュリーの指示どおりにテトラを担架に乗せ、ぐったりとして動かない彼女をジェンと共に運ぶ。かくして、光人は今朝方出てきた扉を再び通ることになった。しかしそれを意識するよりも頭を占めているのはテトラのことだった。彼女は最早意識を失い、呼吸をしているかも怪しい。
運び込んだ先には眼鏡をかけた白いスーツの女性がいた。彼女にテトラを引き渡し、更に奥へと運び込まれるのを見送る。それと同時に、光人はその場に膝を着いた。
「光人君!?」
「ごめん、なんか気が抜けて……テトラは大丈夫なんだよね?」
「大丈夫だよ。呼吸器を着けて、正常に呼吸できるようになるからね。」
「そっか……。」
肩を撫でおろす光人にミシュリーは優しく笑いかけた。まだ愛着も何も湧いていないこの真っ白な施設において、彼女の笑顔を見ると不思議と「帰ってきた」という気分になるのだから不思議だ。いくらか安心したその瞬間に腹が鳴き声を上げた。
「そう!そうだよ光人君!あの後ごはんも食べずに放り出されたんだって!?」
「うん、実は……。」
「もぅ……サジェさんたら……。自分が食事に興味ないせいか無頓着なの。テトラちゃん、だっけ?あの子のことは私たちに任せて、ごはん食べてきていいよ。」
「そうさせてもらおうかな。ここにいても、俺何もできないし。」
「オレも飯にする。案内すっからついてこい。」
「ジェン君は報告があるんじゃないの?」
「あ、そうか。いや、でも流石に後でも怒られない、はず。」
「そう?もし怒られそうだったら私が健康維持のためにご飯を先にさせたって言っていいよ。」
「助かる。行くぞ、光人。」
そういえばいつの間にか、ジェンが「おい」や「お前」ではなく、名前を呼ぶようになったことに気づいた光人であった。
「ここが食堂だ。」
食堂には明かりは点いているものの人はいなかった。この組織に所属する者の総人口がさほど多くないのか、食堂という割にそこまでの広さはなく、高校の教室を二つ繋げたような面積、という印象を光人は抱いた。ジェンに先導されるがまま厨房のすぐ近くの席にと座ると、光人を置いて彼は厨房に何か声をかけに行く。しばらくして戻った彼の手には二つのトレーがあった。
「ほらよ。あ、お前食えないものとかあるか?」
「特にないかな。ジェンのそれ、食べかけ?」
「飯の途中で呼び出されたから取っておいてもらったんだよ。食いかけを残すのは性に合わねぇからな。」
「それは、うん。俺もそうかも。」
パンと、湯気の昇るシチューらしきものが食欲をそそる。手を合わせて小さくいただきます、と言ってから口をつける。香ばしいパンはもちろん、シチューもまた蕩けるような味わいであった。思い出した空腹感が増すのを感じて、光人は食事に夢中になる。みるみる内に皿の中身は減っていく。ハッとして顔を上げると、ジェンが面白そうにこちらを見ていた。
「美味いか。」
「うん。すごいねこれ。満腹感あるし。」
「そりゃよかった。あぁ、そうだ。ほらこれ、栞。ごたごたしたからしょうがねーけど、帰還したらちゃんと回収しろ。」
ポケットからジェンが取り出したのは、例の栞であった。
「ごめん……。いつ回収したの?」
「最初にミシュリー呼びに行ったときっつーか、その直前だな。オレも焦っちゃいたけど、まぁ、これは経験と慣れだ。覚えとけ。」
「わかった。気を付ける。」
「ん。あと、テトラっつったけか。あの魚。」
「ああ、なんとなくで付けた名前だったけど、気に入ってもらえたみたいで良かった。」
「名づけってのは大事だからなぁ。多分アイツお前に懐くぞ。」
残り僅かのシチューを口に運び込むジェンはどことなく、懐かしそうに言った。
「誰かに懐かれたりしたの?」
「あ?あー、いや。オレはねぇよ。知り合いにそういうのがいたってだけだ。とにかく、名前つけた以上はちゃんと面倒見ろよ。」
「とはいっても、俺がまだジェンたちに面倒見てもらってるんだけど……。」
「……ん?もしかしてこれ、両方オレが世話することになるのか?」
「そうなったらよろしく。」
「しょうがねぇなぁ。」
やはり面倒見はいいらしい。ジェンは声こそさも面倒くさそうだが、顔には出ていないどころか少し口元をほころばせていた。
「さてと、オレは上司に今日のこと報告しねーと。お前はまだ自分の部屋も無いし、サジェさんのところに戻れ。」
「分かった。えっと、ここ出て右だっけ?」
「斜め左だ。まぁ、同じような扉ばっかりだし、最初は迷うわな。入口までは送ってやるよ。」
「助かる……。あの、ジェン。」
「ん?」
思えば随分打ち解けたものだと、光人は小さくあくびをするジェンを見て思った。
「今日はありがとう。」
「んだよ改まって。はずかしーヤツだな。別に、これくらいフツーだろ。オレ先輩だしな。」
「でも、助かったよ。」
「分かった分かった。ほら、行くぞ。」
立ち上がって背を向けてしまうジェン。耳のふちが少し赤くなっていることはあえて言わないことにしよう、と光人は小さく笑った。トレーはここに返すんだぞ、と説明するジェンはサジェの部屋の前までこちらを振り返ることは無かった。
●
時折コーヒーを口元に運びながら、サジェは興味深げに光人の話を聞いていた。
「なーるほど。じゃあ、そのテトラちゃん?は今四番書庫、ミシュリーたちんとこにいるとね?」
「はい。」
「上着は?」
「テトラに貸したままです。」
「そか。洗い替え用にもう一着用意しといたけん、明日はそれ着とき。にしても、機械の魚ってのは珍しか。そういうのはそもそも機械って判定で真っ先に時間が止まったりするもんだけんど。」
「そうなんですか?」
「まぁ、今までの統計上って話だけだら。こういう例外もにゃあわけやない。そういう例外に最初からぶち当たるってのも、主人公性能かねぃ。」
「さぁ……。」
「はっはっは。わがんねぇよなぁ。」
快活に笑って見せると、サジェは光人の腕に着けていた検査器具を外した。異常なし、という彼女の言葉に光人はホッと胸を撫でおろした。
「んで、君の部屋ね。今まだ配属も決まってないせいで用意できてないんよ。だもんで、そこで寝といてほしいけん。」
「はい。……この、手術台みたいなところですかね。」
「おん。あぁ、勝手に手術したりせんから安心してな。」
「怖いこと言わないでくださいよ。」
「はっはっは。早いトコ配属決まるとよかねぇ。」
ほい、とサジェに渡された毛布に包まって光人は恐らくは手術台であろうそこに寝そべる。サジェが雨だれのようにキーボードを叩く音が次第に遠のいていく。疲れていたのが、やっと実感として湧いてくる。抗えない睡魔に屈し、すぐに光人は寝息を立て始めた。サジェが手を止めて振り返る頃にはすっかり寝入っていた。
「やっぱ、見た目に反して肝が据わっとるのぅ。」
ずず、とサジェはコーヒーをすする。
「よォくおやすみ。」
そしてまたモニターへと向かい、彼女はキーボードをたたくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます