極めて理科的な藝術家

「退屈でしょうから、お話でもしましょうか」

「はい、お願いします」

「そこ、唇動かさないで」

「……」

 そのモデルはもう言葉を発することが出来なくなった。

 そのまま黙った。代わりに出来る限り肯定の色を示した。

「昔々ねぇ、それはそれは極めて理科的な藝術家が居たんですよ。私の傍に」

 鉛筆が紙を擦る音が静な部屋に響く。

 ちょうどモデルの輪郭を紙に写し取ったところだ。

「どのくらい理科的かと言えば、それはそれは理科的でね。何にもかもが正確でないといけなかった。気が済まないとかそういうのではないのですよ、いけないものだったのです」

 モデルの目の辺りをぐりぐり見る。

 数えているようにも見える。

「角度をこうして、長さをこうすれば今自分の見えているものと同じ物が描けるはず、そう考えていたんですよ。それが例えモノクロであろうとそれがそれであることには変わりがない。何故ならそこにあるものの命をゆっくりと時間をかけて写し取っているのだから」

 瞳を描き始めた。ここまではまだ大丈夫。黒目の下の空白の長さ、影の向き方、曲がっているところにどう重なり、どう空くか。

 緻密に観察し、緻密に描き上げていく。

 その瞬間、それまで本物と思っていた輪郭が突如嘘に見え始めた。

 苛々して消す。

「彼は写生をしていたのではありません。丁寧に世界の一部を我が物にしていたのです。自分の中に落とし込み、自分の物にして、満足する。複雑な世界を自分の所有物にする事こそを彼は生き甲斐としていたのです。故に複雑な世界を描く上で単純な設計を彼は酷く嫌いました。人を痛めつけることでそこに偏愛か何かを見出すこと、世界を広く自分の物にしようとすること、そういった物の表現が単純作業になることを彼は本当に酷く酷く嫌いました。そこに幾つにも折れ曲がり重なり合った過去やら思想やら影響やらを施す。画だけでなく、彼は文においても緻密で計算高い男でした。兎に角理科的な藝術家でありました」

 鼻が厄介だ。とても難しい

 向こうにあるのはないはずの線。それを描くことは細い線をわざわざ太いはけで塗り潰すことと大差ないのだ。

 しかし鉛筆を細く細く削り、ぼかしを入れながら芯を通すように描けば幾らかはましになる。

 ……ただそれが永久に残ることはほぼあり得ないであろう。

 目の前にあるのは静物ではない。生物なのだ。

 ナマモノ程足のはやいものもない。

「そうやって複雑に綿密に対象の命を写し取るものですから、どうしても時間がかかってしまうんですよ。彼は図画工作の時間に一つの写生を終えられた例しがなかった。しかし、それで良かったのです。見尽くす間に彼はその構造を胸に焼き付けることが出来るのですから、その時のことなどすっかり忘れて頭から抜け落ちてしまうのですよ。胸に残して頭からは取り落とす。そうでもしなければ彼の王国は彼の体内から溢れてしまう。倉庫に片付けておくことと同じなのです。しかしあなたは幾分か不思議に感ずることでしょう。何故最後までやらないのか、突き詰めないのか、と。彼にはね、いやはや時間が無いのですよ。彼を阻むものがいるのです。チャイムです」

 鼻の下の溝を影で表現し、いよいよ唇に入る。

「――彼は大抵チャイムに阻まれ、藝術活動をやめるのです」

 チャイムが鳴った。

 もう学校も閉まる。

 朝から描き続けていたがもう夜に近い。

 彼はまだ一枚も完成できていなかった。


「残念。もう終わりです」

 鉛筆を筆箱に仕舞いながら彼は言った。

「……明日はやらないのですか」

 乾いた唇を舐め、モデルは聞いた。

「大丈夫です。明日もこの作業のために時間が取られています。あなたはまた明日も来てください」


 飲まず食わずで描き続けていた藝術家がふらふらと教室を出ていく。重い足取りでしかし地面をしっかりと踏みつけながら。


 彼が何を考えているのか、モデルには分からなかった。

 しかし、彼の支配する世界になら住んでも良いと思った。

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