終章 破滅を覆す者
神聖国総本山――その中腹である大広場には、大きなくぼみができていた。
円形に抉られた中心には、一人の男だけが立っている。傷が走った顔にかけた片眼鏡が、雲間から現れた太陽の光で輝いていた。
――破壊の限りを尽くした巨大な怪物は、跡形もなく消え去っていた。
「やった! やったぞ!!」
人々は危機を乗り越えたことを喜び、座り込んで涙するものまでいた。
皆が喜ぶ中、男はそこから動こうとしない。
身体中に無数の傷が走ったその男は、何かを引き上げるような動きで片腕を掲げていた。
その手には、鍋掴みのような、一見かわいらしい手袋がはめられている。
「なに、やってんだ?」
周りには幾人かの人が、その男の様子をうかがっていた。
少女が言う。
「あれは……姿は見えませんが、おそらくあの怪物の中の――」
皇国の兵たちが囲んだ窪みの中、傷の男はその腕を振った。
『ぐ、うう』
呻く声が傷の男の耳に入る。
片眼鏡で見えるその視線の先には、一人の青年が横たわっていた。
傷の男が渦の中から引き揚げたそれは、リファールの魂――異界人タカアキだった。
その青年は、鼻の低く凹凸のない平たい顔をしている。王国での一件の時と、面影はそのままだが、身体が別人のよう。
『なんで……俺を助けた』
脚は、お世辞にも長いとは言えないままでも、体は絞られ、細身ながら筋肉がついていた。
(俺と戦う為に、か)
傷の男は一瞬、ふ、と笑うと、大きく吸い込んだ。
「助けた? 違うな。俺の望みは、貴様を叩きのめして向こうに還す。それだけだ」
表情を消し、拳を構える。
「……さっさと始めるぞ」
『くそ……!』
タカアキは、ふらつく足で立ち上がり、しかし傷の男と同じように拳を握った。
『おれはこの世界で一番になれたんだ。それがお前のいう卑怯な手段だとしても。一番は最高だった……!』
その構えは、傷の男の見たことのないもの。半身の状態で、軽く飛び跳ね始めた。
「そんなものはしらん」
タカアキは、傷の男へと殴りかかる。
『自分に自信が持てる世界なんてもうここ以外ないんだ……!』
そして彼は左の拳を素早く打ち込んできた。数度放たれたそれを全て躱した傷の男は、右腕で顔面を殴りつける。
「なら守ればよかった」
口の端が切れたのだろう、タカアキは血を流しながらも再度向かってくる。
傷の男は、続けざまに青年の腹部を殴打した。
「お前は油断した」
身体を折り曲げたタカアキへ、更に右から二発の拳を見舞う。
「胡座をかいた」
殴りつけてくるタカアキの腕を回転して躱し、その力を加えて殴打。
「鼻の下を伸ばした」
顎下から繰り出した拳を振りぬくと、タカアキは倒れた。
「それが敗因、だろう」
しかしタカアキはまた、立ち上がる。その目の焦点は、あっていない。
『なんで、思い通りにならないんだよ!』
大ぶりの挙動は、簡単に躱せた。
『思い通りにならない世界なんていらないんだ!』
顔は涙と鼻血が混じり、腫れている。それでもまだ、タカアキは拳を振るうことをやめなかった。
『変われると思った。変わって、楽しくて、強い自分に自信を持てて……』
傷の男の顔をめがけて打ち込んだ拳は届かない。代わりに傷の男はタカアキの脇腹を思い切り殴打した。
打撃に、タカアキは呻いた。口からは胃液のようなものがあふれ出ている。
『また俺は、勝てないのか……!』
力も技術も傷の男のほうが勝っている。しかし、傷の男もかすみつつある視界の中で、タカアキの嘆くような言葉を聞いていた。
『絶対倒すって誓っても、まだ届かないのかよ……!』
度重なる戦闘、そして魔術の酷使――。タカアキと同じように、傷の男もまた、限界を迎えていた。
そして、傷の男は瓦礫のカケラを踏みつけて、ふらついてしまう。その体制を丁度タカアキの腕が捉える。
掠めた拳が、傷の男の装着した片眼鏡を吹き飛ばした。
『あ、当たった……!』
その瞬間、傷の男はタカアキを見失う。声は聞こえども、どこにいるのかわからない。
『お前……、もしかして……』
左から、右からと迫る拳を、傷の男は避けることができなかった。
『見えて、ねえようだな……」
繰り返し何度も殴りつけられる。決して力強い打撃ではないが、立っているのがやっとの傷の男の体力を確実に奪っていた。
『は、はは! やった! これで俺は、お前に勝てる……!』
更に幾度となく繰り返される見えない拳の応酬に、傷の男の膝が震えだした。
『ようやく始まるんだ、俺の、俺の――』
だが、傷の男は腕を伸ばし――掴んだ。
今まで何度も、異界の人間を還し続けてきたその傷だらけの腕で、掴んだ。
『なんで……! 見えてないはずだろ……!』
切れた口から血がにじむ。
大きく腫れて薄く開くのがやっとの目が、見えぬはずのタカアキのほうへと向いていた。
「年季が、ちがう」
そして、拳を思い切り振り回した。鍋掴みをしたままの腕に、確かに人をなぐりつけた感触があった。
「受け取れ!」
髭面の店主が投げつけた腕輪を、掴む。
傷の男は、ふらふらと歩き、片眼鏡を掛けなおした。形を歪めた眼鏡は、倒れて空を見上げる異界人の青年を映している。
「この世界は、俺たちのものだ……」
一歩、また一歩と弱々しい足取りで、しかし確実に青年へと辿り着くと、その腕をつかんだ。
片眼鏡が、壊れていたのだろう――外れて地に落ちる。高音をあげて、そのレンズが割れた。
「だから、元居たところへと帰れ……」
姿の見えぬ異界人に、傷の男は静かに語り掛ける。腕輪が光り、轟々と音を立てて青と黒の渦が生まれた。
『……最初から一対一なら、俺は負けてなかったんだ』
渦は、前方へと進み、そこにいるだろう異界人を包んでいく。
『もう一回戦えば、諦めなければ、きっと――』
「そうだな」
そして、傷の男の握った指から、何かがゆっくりと離れていった。
「さらばだ。タカアキ」
別れを告げる男の声は、とても穏やかで――。
『――ムカつく顔だ……』
かろうじて聞き取れた言葉は、すこしだけすっきりとしたもののように聞こえた。
気が付くと、後方に髭面の男が立っている。
「皇女様に言われてアレ投げたんだけど、おめえなにやってたんだ?」
彼は不思議そうに、腕を組んで傷の男の顔を見ていた。
「俺は俺の望みを叶えた。それだけのことだ」
「……よくわかんねえな」
肩をすくめる髭面の店主。その横を通り、傷の男はふらふらと歩き始めた。
「あの女……巫女を拘束しておいてくれ。これに懲りたとは思うが、また再び異界人を呼ばれたらかなわん」
「お、おい。どこいくんだよ。終わったんじゃねえのか」
「まだだ……。彼奴が呼び寄せた異界人は、まだこの地にいる……」
「ま、待てって」
足が言うことを聞かない。景色が歪み、息が苦しくなっていき――。
「俺はすべての異界人を還す。それだけ――」
傷の男が膝から崩れ落ちる。地面に倒れこむ寸前で、髭面の店主が支えた。大きく息を吐く。それは、呆れたようなため息だった。
「おめえはまったく。ちっとは休め、馬鹿野郎。……その、なんだ。異界人がどうとかよ、俺も手伝ってやるから、よ!」
肩から担がれ、傷の男は顔をあげた。その視線の先――大広間には、戦いを見守っていた人々が手を振っている。
「ほら、見てみろ。あいつらおめえを待ってんだ。英雄なんて大層なもんにならなくてもよ、酒の肴になるくらいいいだろ」
髭面の男の言葉に、傷の男は眉間を緩ませた。
「そう、だな」
彼は歩き出した。
戦いを見守っていた者の元へ。
――傷の男の戦いはまだ終わらない。
いまだ居るであろう、全ての異界人を還すまで。
彼の、彼らの住まうこの世界を、歪ませないために。
――傷だらけの男はきっとこれからも歩み続ける。
一歩ずつ、しっかりと大地を踏みしめて行く。
守るべき世界の、人々と共に――。
山地を覆っていた雲は、少しだけ形を変え、真っ赤な夕日に彩られていた。
終
リバース・デストロイヤー ――異界人強制送還―― 条嶋 修一 @jorge-mash
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