第4話 蘇りし『破壊者』 後編

 雷雲を轟かせる分厚い雲が、暗く重く神聖国を覆っていた。


 瓦礫が飛び散り、煙が上がる。舞い散る土と砂が、傷の男の身体に降り注いだ。


 彼の視線の先には巨大な――人家の高さなど優に超す大きさの怪物。雄たけびを上げるそれは異質で、そして異常だった。


 おそらく頭であろう位置には、それらしいものが付いている。だが、大きくさけた口らしきものには鋭く数多の牙が不規則に生え、目であろうものが中央に大きく一つあった。その球体は、蠢くように、胎動するように一つ所に留まらず動いている。


 腕は、視認できるものでも六本。黒く、赤い腕は身体の側面から右から二本と左に三本。そしてもう一つは背中から長く伸びていた。


 反して足は短く、しかし巨体を支えるよう、それこそ無数に生え、今も増え続けているようだった。


「なんなんだ、あれは……」


 ぐねぐねと定まった形を持たない、生物の理を抜けたその姿は、なんと形容するのが正しいのか。傷の男が今まで見てきたものの中では、群を抜いて禍々しく思えた。


 その異形の怪物は、おぼつかない足取りで聖堂へと寄っていく。恐ろしく長い腕を伸ばし、いとも簡単に建物の屋根をもぎ取った。

 腕のひと振りで石柱をなぎ倒し、床石を地面ごと剥がしている。更にはよじ登った尖塔をつかみ、まるで土くれのように投げ飛ばした。


 その圧倒的な力を前に戦慄しても、彼ら――神聖国の兵士達は戦うことを止めない。


「怯むな! ヤツが街へ行く前にここで食い止めるぞ!」


 手に取った武器を掲げ、自らを鼓舞している。

 組織だった行動とは思えない。隊列もあったものではない。だが、その人々の意思は一つだった。


 兵たちは、弓を掲げ矢を放つ。放たれた矢の雨はしかし、刺ささりはすれど、彼の魔物を止めることなどできない。


「もういい、もう、やめろ……」


 傷の男は、立ち向かう兵士たちに声をあげた。その声は聞き入れられず、先頭に立つ兵が剣を構え、黒い怪物へと向ける。


「……矢では効果が薄いか! 魔術を展開しろ!」


 神殿兵のうち、魔術を得意とするだろう幾人かが、前に立ち詠唱を開始した。


 彼らの頭上に風が渦巻き、火花が走る。それは次第に大きな炎になり、複数の火の玉を形作った。


 いくつもの火球が弧を描き、魔物に降りそそぐ。


 だが、やはりというべきか――黒と赤の魔物は、火炎の礫をものともせず、振り回す腕で弾き飛ばす。怪物は、首を巡らし取り囲む兵士を捕捉。重々しい巨躯を揺らし、進行方向を彼らへと向けた。


 そして、天へと向かい咆哮。その音は、周囲の人々の鼓膜を打ち抜くように、大きく、重い。はらわたの底を震わす地鳴りのように響き、恐怖というものをそのまま打ち付けるかのように、人々を地面に縫い付けた。


 竦むような轟音に、しかし兵たちは負けじと武器を構えて声を荒げた。


「まだだ! 我らが動かずして誰が民を守るのか!」


 槍を構え突撃する兵士が、剣を取り立ち向かう者達が、傷の男の目の前で吹き飛ばされていく。


 一人で戦ってきた男の前で、大勢の人間が倒されていく。


「戦うな……!」


 男は、たった一人だった。

 賛同するものはおらず、かといって彼自身も周囲に人を寄せ付けようともしなかった。


 それでいい、と男は思っていた。

 これは自分自身の戦いであるがゆえに。


「もう、やめてくれ……」


 紡ぐ言葉は掠れ、彼らの耳には届かない。

 身体に走った傷が痛む。生きていることの証が、己が不甲斐なさを責め立てる。


 たった一人でよかった。


 周りに賛同する者がいなくとも。

 違和に気付くものがいなかったとしても。

 たとえそれが独りよがりであろうとも。


 世界の歪みを直すと誓った日から、覚悟をしていた。


「奴の敵は俺だ。俺だった筈だ。だから……」


 握った拳を、地に打ち付ける。指に血と痛みが滲んだ。


 血を流し、傷つく者は、自分一人だけでよかったはずだった。


「お前らには関係な――」


 ――その時だった。頭に衝撃が走る。

 追ってくる痛みは頬。突然、傷の男は頬を殴打されていたのだった。


「な……!」


 痛みよりも驚きに目を見開く。


「――関係ない、なんて言わせねぇぞ」


 傷の男の視線の先。そこには髭をたくわえた禿頭の男――皇国の加工屋の店主が立っていた。

 彼は使いこまれた胸当てを付け、大きな革袋を背負い、痛そうに右の拳を振って傷の男をにらみつけていた。


「おめえ、また飽きもせずに関係ない関係ないってよぉ。いい加減聞き飽きたぜ」


 鼻を鳴らし、口の端を歪めている。

 そして、髭面の店主の後ろから小柄な少女が姿を現した。

 

「そうです。これはこの大地に、この世界に住まう我々の戦いです」

 

 金の髪をなびかせた、見目麗しい銀の鎧姿の少女は、傷の男へと手を差し伸べる。


「――ですのでおじさま、貴方一人のものではありません。少々、欲張りが過ぎると思います」


 皇国における皇位継承権を持つ皇女、ラキュアはそう言い笑った。


 彼女の後方には、皇国軍がいる。ラキュアと同じ、銀の鎧で統一された皇国兵が整然と、毅然と立ち並んでいた。


「我ら皇国兵の力を見せる時! 大弓、構え!」


 号令に大きな弓を一斉に構え、魔物へ攻撃を開始。弓兵の奥には数台の大きな櫓――投石器も設置され、岩石を放射していた。


「皇国軍……それにあれは皇国の皇女……!」

「神殿の兵士よ! 我らも加勢する! 持ちこたえろ!」


 神殿兵たちは息を吹き返し、皇国の兵と共に声を張り上げた。

 

 傷の男は、口を閉じることを忘れ、兵たちの攻撃を見つめるしかできない。


「どっかの馬鹿が一人で突っ走るからよ、乗せられちまったんじゃねえのか」

 憎まれ口をたたきながら、髭面の店主は大きな声で笑う。

 

 大きく風が吹いた。それは傷の男の後方から、強く身体を押し出すように吹き付ける。


「彼の魔王と名乗るものが、憚らずもわが国に宣言したのです。あなたを引き渡せと」


 その風は、皇女の黄金の髪をもたなびかせた。手で軽く抑え、彼女は続ける。


「我が国を救った英雄を助けるのに、誰が反対などしましょうか」


 皇女ラキュアは、まっすぐな眼で傷の男の手――いくつもの傷に覆われたその手を、しっかりと掴む。


「おじさまが一人でやり遂げようとされる方なのは、承知の上です。けれど、これは私たちが決めたことですので」

 

 引き上げる力は弱くとも、その意思に傷の男の身体は動かされた。


「お言葉をお借りしていうなれば、やりたいからやった。それだけのことです」


 立ち上がった傷の男を前にラキュアは照れたように笑う。


「私の――いえ、我が国の礼、今度こそ受け取っていただきます」


 ここは皇国にとっては外国。

 皇国と神聖国が友好的とはいえ、国境を越えてくることは容易ではない。皇帝や諸将を相手取って、軍の一端を動かす皇女の手腕に傷の男は舌を巻いた。


「……ここまで飛んでるお姫様だとはな」


「まぁ。あの夜飛んでいったのはおじさまでしょう?」

 

 ふふ、と笑い声をこぼし、舌を出してみせる皇女。


 と、ふたりの間に、一人の兵が割って入った。兜に羽飾りを付けた兵士――おそらくは指揮官級のものだろう――は傷の男を一瞥してすぐ、ラキュアへと敬礼する。


「殿下、お下がりください。我々が前線を維持します」


「え、ええ、任せます。……ではおじさまはこちらへ」


 手招きされて向かう。その先にいた鉄製の杖をもった兵士――術兵だろう者が、傷の男へ右手をかざした。治癒の術式を施され、次いで数人の兵が彼の傷を包帯などで縛っていく。


 身体中から流れる血がとまり、すこしだけ体力が戻ってくる。手厚く素早い治療に、傷の男はむずがゆくなった。


 居心地の悪い様子で座っていると、彼の目の前に一つの大きな袋が放り出される。地についたと同時に金属のぶつかる音が響いた。


「おう。コレ、持ってきてやったぞ」

 その革袋の開いた口からは、魔術を込める腕輪が大量に覗いていた。

「必要なんだろ? 今回はツケにしといてやる。で、どう使うんだ?」


 不遜な態度で笑う店主を見、傷の男の口元が緩む。

「く……はは……」

 傷の男は、笑った。肩を震わせ、腹を抱えて大きく笑った。


「な、なんだよてめえいきなり笑うなよ。こええな……」

 髭面の店主は、口を開けて傷の男を見る。治療している兵士も驚き、手がとまっていた。


 傷の男はひとしきり笑った後、目じりを拭う。


「そうか……。そうだな」


 彼は、他者を巻き込まぬようにしてきたつもりだった。一人で始めた戦いに、他の者が血を流す必要などないと思い、一人だけで戦うつもりだった。


 だが、戦うことを選ぶものもいる。彼らもまた、傷の男と同じように、世界の歪みに一矢報いんと選らんだのだ。


 あの黒く、巨大な怪物を倒さんと、神聖国の兵士と皇国の兵士が応戦し続けている。


「ならば……」


 傷の男は、大きな軍馬へと足を掛けた皇女へ声をかけた。


「殿下。あいつを、遠巻きからでもいい。包囲してほしい」

「承知しました」


 皇女は大きく頷き、金の髪をなびかせて馬を走らせた。


 傷の男は、治癒魔術を施す兵を押しのけて立ち上がる。が、足がもつれて倒れこみそうになった。


「肩貸すくらいまけといてやるよ」


 転ぶ寸前で髭面の店主に腕をつかまれ、そのまま腕を肩に担ぎ上げる。


 傷の男はその腕を振りほどこうとはせず、一歩、前へと歩き出した。


 巨大な魔物の声が、鼓膜を震わせる。


「なぁ、なんなんだよあれ。お前いつもあんなのと戦ってんのかよ」


「俺も、あれは初めてだ」

「勝てるのかよ」

「わからん」


 瓦礫の山へと進む。

 化け物は何かを探すように周囲をうろついていた。戦う者達の声がいくつも聞こえ、建物の破壊される音が響く。


「……娘がよ。またウチに顔出せっていってんだ。だからおめえを生きたまま連れ帰らねえと俺がぶっ飛ばされんだよ」


「……すまないな」


 ぽつり、と髭面の店主がもらした言葉に、傷の男もまた小さく呟き返した。


「はっ! なんだおめえ気持ち悪い」


 髭面の店主は、心底嫌そうに顔を歪める。


「いらねぇよ謝罪なんぞ。第一おめえ、自分が悪いなんて思ってねんだろうがよ」

「そうだな」

「俺らが勝手にやってんだ。勝手にやってるおめえに勝手に加勢した。姫様も言ってただろ。……それだけだ」


 だが、鼻をすすりながら言うその声は、どこか楽しそうだった。


「ならば何故殴りつける必要があった」

「……こまけえこと気にしてんじゃねえよ」


 店主は顔をそむけると、咳ばらいを一つ。


「んで、なんか考えがあんだな?」

「ああ」


 傷の男は、瓦礫の上で呆然と立ち尽くしている人影を見つける。


 この戦いの発端となったのは傷の男、そしてリファール。ひいては彼を呼び出した――。


「……奴にも責任を取らせる」

 救世の巫女、と呼ばれた髪の長い女の側まで寄ると、傷の男は店主の腕から離れた。


「巫女よ」

「転生殺し……!」

 巫女の虚な瞳に光が灯る。それはほの暗い光だった。殺意にも満ちたその眼を、傷の男は真正面から受け止める。


「協力しろ」

 傷の男は簡潔に伝える。その声に、巫女は反抗的な目を向けた。


「……あれは、預言にあった『魔』そのもの……。人々、いや全ての命さえ喰らいつくす。そんなものに、対抗など……」


「そんなことを聞いているわけではない。協力しろ、それだけを言っている。俺が躊躇わないのを、貴様は知っているだろう」


 ギリ、と歯を噛み締める巫女は、布で覆われた左の眼を手で触る。


「貴様の行いでで呼び出されたものは、歪み、力に振り回されていた。どの異界人も、もれなく。――奴もそうだ」


 傷の男が指さすのは、リファールであった怪物――。街を破壊し、吠え猛るその魔に対し、人々は抵抗を続けていた。矢を放ち、魔術を展開し、陣を組んで応戦している。


「俺は、貴様を葬るつもりだった。……だがそれは、俺へと復讐しようとした貴様と、同じだった」


「何を……」


 傷の男は巫女の襟首をつかむ。その形相は、憤怒にも、しかして憐憫にも見えた。


「いまあそこで戦っているのは誰だ。目の前で足掻く者達は――お前の救おうとした、この世界の人々だろう」


 巫女は答えない。


「彼らはあの化け物に向かっている。自らが勝ち取るために。その足で地を踏み、その手で武器を取って」


 だが、巫女も傷の男の目を負けじと睨み返していた。


「本当に救いを望むのなら、貴様もその手で示して見せろ。今戦うべき相手は誰か」


 視線の絡み合う中、傷の男は強く問いかける。


「貴様が今やるべきことを。貴様と……俺の後始末を」


 そして彼は、掴んでいた首を離した。

 倒れ、咳き込む巫女へ、傷の男は低い声で言い放つ。


「奴を、還す」

 手のひらを強く握り、拳を作った。

「し、しかし私ではあの巨大なものを覆うほどの力は……!」


「誰が、一人でやれといった」

「では、お前が……?」


 作った拳に走る傷は、いくつもの戦いを越えた記録。

 それだけではない。顔、腕、腹、脚――。すべての傷が、今まで彼が戦ってきた証だった。


「それでは足らん」


 ならば、という巫女の声を遮り、傷の男は語る。

 迷わぬ目で、強く。

「この場所を守ろうとする者、この世界を壊させまいとあがく者がいる」

 彼がかかわってきたすべての人々を思い、強く。

「俺たちは、俺たちの力で、世界を守る。……それだけのことだったんだ」


 傷の男は巫女に背を向ける。

 

 背後にいた髭面の店主へいくつか言葉を交わした。

 店主は頷いて、複数の腕輪を傷の男へ渡す。


 二つを両の腕にはめ、残りは革袋の中へと入れた。


「とにかく貴様は、ここにある腕輪に転移魔術を込めろ。全部だ。倒れるまでやれ」


 そう言い残すと、走り出した。


 男は、他の世界の者の力など必要ないと足掻いた。

 そして、この世界の人々の力も借りずに、たった一人だけで戦うことを選んだ。


 瓦礫の中心で、怪物はまだ暴れ続けている。


(世界を拒絶した化け物、か)


 手にはめた腕輪へと魔力を注ぐ。転移の術式を込め終わったものをしまい、新たに取り出しては、また込める。


 怪物の周りを囲む兵たちの元へと駆け抜けていく。


 傷の男は、その兵の一人に接近した。

「これを」

 それは、魔王を相手に剣を取った神殿兵だった。彼は面を開け、腕輪を受け取る。

「あんたは……」

「合図を送る。それまで持ちこたえてくれ」


「ああ。あんたも死ぬんじゃないぞ!」

「わかった」

 

 そして傷の男は彼を振り返ることなく再び走りだした。腕輪に魔術を込めながら。


 怪物が、走り抜ける傷の男へと首を巡らしていた。


 大きな腕を振り回し、彼に瓦礫を投げつけた。

 跳躍し、躱す。着地と同時に、更に速度を増して走りぬける。


 傷の男の視界に、桃色の髪の女が映った。彼女は、乱れた髪を直すこともなく、魔術を怪物へと放っていた。


「宿屋さん……」

「宿屋は廃業した。……おまえも無事だったようだな」

 

 息を切らした女は、手櫛で髪を整える。


「ええ、なんとか。さっきは、いえ、あの時もそうだったけれど、ごめんなさい」


「気にしていない」

 傷の男の言に、女はふふ、と息をもらした。

「優しいんだね。……それによく見ると、結構いい男だったんだ。やっぱりちょっと顔は怖いけど」


「……それだけ言える余裕があるなら、これを」

 口の端を吊り上げ、腕輪を手渡す。

「魔力を込めるだけでいい。頼んだ」


 言い残し、走り去った。

 また術式を込めていると、視界が急にかすみ出した。


(まだだ。騎士団と戦った時のほうが、ひどかっただろう)


 彼を取り囲んだ少年たちの顔を思い出し、腕で脚を殴りつけ自らを叱咤する。

 気合で加速し、進んで行き、銀の鎧の集団――皇国軍の兵たちへと近づく。


 一糸乱れぬ陣で長柄の槍を構え、後方からは弓と投石を仕掛けている。


 更に後方には馬上のラキュアの姿が見えた。傷の男の顔を見つけると、馬を走らせ近づく。軽やかに降り立った彼女は、すこしだけ不安そうにこちらを見ていた。


「おじさま……先ほどの女性は?」

「ただの顔見知りだ」


「そうですか……」


 何か言いたげな様子の皇女の表情を不思議に思いながらも、傷の男は口を開く。


「殿下、合図をしたら兵たちの魔術で奴を抑え込んでもらいたい」


「はい!」

 ラキュアは頭を振って、大きく答えた。


「これを」

 傷の男は右手にはめていた腕輪を渡す。

「抑え込んだ後、その腕輪に魔力を込めてほしい。それと」


「な、なんでしょう?」

 受け取った腕輪を、神妙な面持ちで自らの腕にはめていくラキュア。


「持ち直すことができた。その……感謝する。――貴女のおかげだ」


「……ぇあ、はい……」

 皇女は顔を耳まで赤くし、何度も頷いていた。


 動きが止まってしまった皇女に気づかず、傷の男は走り始める。


 皇国軍の攻撃は優勢とは言えずとも、怪物の動きを制限していた。

 傷の男は走り抜ける中で、先ほど顔を見た指揮官と目が合う。素早く彼の側に行き、腕輪を差し出した。


「丁度良かった。これを」


 彼は腕輪を受け取るとしばらく止まる。

「……まさか貴様のような男に姫様が……しかしこの男は我が国を……」

「なんの話だ?」


「ええい! こちらの話だ! 合図したら魔力を込めればいいのだな!?」

 腕輪を奪ってにらみつけると鼻を鳴らして踵を返した。

「? ああ、頼んだ」


 首を傾げ、再度足を動かす。


 建物の破片が体にぶつかり、足がもつれる。だがそれでも彼はとまらず、転んでも立ち上がり、駆け続けた。


 そして、幾人かに腕輪を渡し終え、髭面の店主の所まで戻る。

 

「こっちはおおかた配り終わったところだぜ」


 傷の男は、肩を上下させながら、店主に頷いた。そして、その隣で息を吐きながらあおむけで倒れている巫女を一瞥する。

 声も出せない状態だろう、口を動かすだけの彼女の恨みがましい視線を受け、傷の男はにやりと笑った。


「上出来だ」


 傷の男は、一度大きく息を吐き、そして吸い込む。


 身体を反らし、一言。


「タカアキ! 俺は、ここだ!」


 言いつけ、傷の男はまたもや走り出した。


(少しでも自我が残っているのであれば……)


 その彼へと、黒と赤の異形は大きく首を向けた。

 巨大な瞳が傷の男を捉え、巨躯を揺らして向かってくる。



「貴様と俺の決着は、まだついてないだろう!」


 傷の男は、走り、跳び、魔物を広場の中心へと誘導し――。


「殿下!」


 声を張り上げる。

 合図に応じ、皇国の魔術兵が怪物の上空に魔術を展開。天空から大気の塊をぶつけ、一瞬ではあるが、怪物の動きがとまる。


「今だ! 皆、腕輪に魔力を込めろ!」


 傷の男は、全身全霊を込め、喉がちぎれそうになるほどの声で叫んだ。

 腕輪を渡した人々が、一斉にその腕を空へと掲げる。


「開け! 扉よ!」


 一斉に発動した魔術は、大きな渦。

 青黒く、そして果てしなく大きな渦は、沼のように巨大な怪物ををからめとり、怨嗟の怪物を地に沈めていく。


「おお! 行けるぞ!」


 異形の怪物は、その大きな渦の中で暴れるも、徐々にその姿を埋めていった。


 誰もがその終わりを確信したその時――。


「おい、なにやってんだ!」

 制止の声が聞こえた。


 無視し、片眼鏡をつけた傷の男は渦へと向かい跳躍する。


「来たれ、異界の徒――」


 自ら傷を負うことを選び、全身にその跡を刻んだ男は、渦巻く扉の中へと腕を突き入れた。


 傷の男には、決着をつけるべき者があと一人いた。

 その傷だらけの腕で、決着をつけるべき者が。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 暗い。


 何も見えない。


 何もかもわからない中で、呻きのような、呪いのような声がずっと頭の中を駆け巡っている。


 耳から聞こえるようなものではない。

 頭の中に直接響くような。しかし聞こえてはいないような。


 曖昧で、不確かな空間。


 声を発しようにもなにもできない。

 何かをしようとしても動くことすらできない。


 たった一人きりの空間で、ぼんやりと考えるだけ。


 それは、あの日々と同じだった。


 生きているのか、死んでいるのか、わからないだけの日々と。


 その生活の中、自分が生きていると実感できたのは、あの世界に来た時だった。


 自分の人生をやり直せた――あの世界だけが自分の世界だった。


 全てがうまくいく。

 冗談のように強い自分がいて、なんでもできた。


 何もできなかった自分が、なんでも――。


(だけど……)


 それを壊した者がいた。


 たった一つだけ、もやのように思考を淀ませるものがいた。


(そうだ、あいつ……)


 その男がいなければ、自分が生き続けていられた。楽しいままの日々を謳歌することができていた。


(だから俺は……)


 自分の世界を壊した男を倒す為に、何でもやった。

 自分自身が強くならなければ、ヤツに勝てないと思った。


(そうだ、俺はまだ、あいつに勝ってない)


 すべて、その男に勝つために


 無駄に、したくない。

 自分が、何かに一生懸命になったことを、ただうずくまって無かったことにしたくない。


 それが例えどんな結果でも、まだ自分自身が終わってないのなら。

 今こうやって思考が生まれ続けるのであれば。


(あと、もう一度だけでも――)


 そう願った。


 その伸ばした手を、つかむものは誰一人いない。



『――来たれ、異界の徒よ。我が呼び声に応え、その魂を現せ』



 ――たった一人。ある男を除いて。


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