第4話 蘇りし『破壊者』 前編

 時を経て、遥か昔に鎮められた『魔』が蘇り、世は乱れ、全ての生物が死に絶える。

 そう、預言者は言った。


 その言葉は各国を駆け巡り、諸国で対策のための大規模な会議が組まれ、ある国に至っては秘術を使い救世の使徒を導いたのだという。


 不安が暗雲のように世界を覆い、人々は皆、明日を恐れていた。



 ――だが少年にとって、そんな話には露とも実感を持てなかった。

 何故なら、彼の目の前にいる『その者』こそが、脅威そのものだったからだ。


「なんでお前だけ抵抗するんだ」


 その男の衣服は少年の腕に掴まれたまま、引きちぎれそうに伸びていた。

 苦渋に満ちた顔の少年の肩からは、血があふれ、肘を伝い、床へと滴り落ちる。


「もう、諦めろよ」


 心底あきれたように男は呟く。対し少年は、敗れる寸前の男の袖を離そうとしなかった。


「うる……さい……」


 精いっぱいの息で造った言葉はしかし、屋敷の外で降り注ぐ雨の音にかき消されてしまう。

 男は大きくため息を吐き、そして――、一息に蹴り上げた。少年の身体が大きく曲がり、手が離れる。


「お前が適うわけないだろ……転生者の俺に」


「なんだ……それ」


 倒れた少年は、這うように男の足をつかもうと腕を伸ばす。男はその手を踏みつけ、三度のため息を漏らした。


「もう、ここにはくるな。どこへなりと行ってくれ。これ以上は俺もやりたくない」


 男が手を叩くと、使用人が数人あらわれ、少年を担ぎ出した。


「く、か……」

 

 離せ、と口を動かすが、喉に絡まった血だけが出る。


 見知った顔の使用人たちは、みな同じように無表情で、意思のない瞳で屋敷の裏口へと向かう。


 抵抗しようとした少年の腕には力が入らず、ついには雨粒の降り注ぐ外へと放りだされた。


 激しい雨は強く少年の身体を打つ。


 ――少年は許せなかった。

 その男が、いることが。

 屋敷の当主に成り代わり、この街――少年の生まれ育った街を支配し始めた、あの男の事が。


 そして――その男へ対抗する術を持たず、痛めつけられ、ただうずくまるだけの自分が。



 冷えた身体から流れる血が、熱い。

 傷口が、熱と鼓動を身体に伝えている。

 自身が生きていることを、伝えてくる。


 自分が生きているのに、何もできないことが――許せなかった。


 目の奥に暗い火をともし、少年は這う。


(転生者……)


 男の言った言葉を反芻する。

 彼の男を――転生者という者を許さないと、心に誓い、動き出した。


 おぼろげな意識で、震える手足で立ち上がり、動き出した。


 その一歩は、復讐の為に踏まれた。

 彼の旅は、泥を血の跡で濁し、始まった。

 傷ついた身体で、たった一人で這い進む旅が始まった。



 傷がある限り、彼は痛みを忘れない。



 ――



 雨音が、男の鼓膜を震わせた。


 傷だらけの指で目を擦る。ぼやけた視界が次第にはっきりとしてきた。男――傷の男の開いた目が映すのは、小雨に降られた森林地帯。


 彼は神聖騎士団との戦いの後、森の中で休息していた。


 騎士団の残した物資を拝借し、手当てを行った後、馬車の中で泥のように眠っていたのだった。

 雨に降られなければもうしばらく寝ていたことだろう。


 足の傷を確かめるため、立ち上がる。騎士団長の一撃を受けた腿は包帯で巻かれており、白い布には赤いシミが滲んでいた。


 踏みしめた足には痛みがある。だが歩くのは問題なさそうに思えた。


 

 荷馬車にあったものからいくつか食糧を調達、他にも使えそうなものをいくつか選んでいく。

 戦闘のさなかに逃がしていたのだろう、馬は既にいない。馬具の一部だけが残っており、その金具を拝借した。

 

 それらを革袋に詰め込むと、馬車の幌を外す。薄手の皮でできたもので、少し重いが雨よけにはなりそうだった。

 羽織り、街道の方へと歩き出す。

 

 雨の勢いはそれほど強くもなく、足元もまだぬかるんではいない。傷のまだ癒えていない足で注意しながら藪をかき分け進む。


 開いた場所――平野が目に入る。その奥には街道、と、そこに遠目にもわかる程の人の群れを見かけた。

 

 かなりの数の人々の列は、子供や老人が多い。若いものも何人かいるようだが数えられるほどだった。

 大量の荷を引き歩き続けているが、隊商には見えない。むしろ今しがた逃げ出してきたかのように、傷の男には思えた。

 そして、彼らの来た道の先には神聖国領がある。

 おそらく――。


(避難民、か?)


 列の中の一人、足の悪そうな老人と目が合う。傷の男がそのまま近寄ると、老人が口元の白いひげを動かした。


「あんた、神聖国に行きなさるので?」


 聞き取りづらい籠った声に、傷の男はああ、とだけ答える。


「やめたほうがいい」

やはり彼の国から来ていたようだった。傷の男は話を聞き出そうと促す。

「どういう意味だ」


「魔王、ってやつがね、でたらしいとの話でねぇ……」

「何……?」

「そうそう、何でも――リファール、だとかいう」


「リファール、だと――」


 反射的にその名前を呟く。その名は、かつて彼が還した者の名前だった。

 

(何故奴が? 俺は確かに奴を扉に押し込めたはずだ。……戻ってきたとでもいうのか)


「わしらんとこは離れた村だったんですけどね、神殿の兵隊さんがきて、若い男連中なんかは連れていかれちまったんです。それで、戦えないやつは逃げろってなことで――」


 老人の話を最後まで聞くことなく、傷の男は歩き出した。


 彼が復活し、あえてリファールと名乗っている。であれば、必ず自分を放ってはおかないだろう。


 そう確信を持つと同時に、傷の男はリファール、いや転生者タカアキの執念を感じ取った。


 ――必ず戻ってくる。そう、彼は言い残していた。


 その男が、今神聖国にいる。転生者を呼び出す者――おそらくリファール復活の元凶でもある巫女――もいるその場所を目指し、傷だらけの男は、脚の痛みを無視し歩き続けた。





 丸五日間、傷の男はほとんど休むことなく歩き続け、大きな岩が散見する高山地域――神聖国へとようやく辿り着いていた。


 日が差すことが少なく、年中曇り空の続く地帯であるからか、分厚く暗い雲が空を覆っている。


 いくつか岩の丘陵が続き、その中でもひときわ高い丘を登ると、神聖国の入り口である大きな二つの大理石の柱が彼を出迎えた。


 柱の奥には、石造りの建物がたち並んでいる。信徒や教団関係者の者が住まう居住区である。


 削られ、積み上げられた岩や石の家屋は、規則正しく並んでおり、荘重な気風を感じられる。だが、以前立ち寄った時の美しい街並みは変わらずとも、様子が違う。


 険しい山地ではあるが、巡礼者が多く、人の多い場所であったはずだった。

 今は、その巡礼者さえも見当たらず、人の気配がほとんどない。吹き付ける風だけがむなしく住居の壁を打つだけで、石の家屋もかえって無機質で冷たく感じるほどだった。


 家屋の群れを抜け、巨大な階段に近づく。その石でできた階段のはるか先、山の頂上にあたる場所には荘厳な建物――この国の象徴ともいえる大聖堂が街を見下ろすように建てられていた。


 長い階段を登る。尖塔がいくつも連なってできた聖堂は、遠目からでもすぐ確認できる。だが、高低差もある為その距離はるか遠く、階段は山の中腹に至るまで延々と続いていた。


 登り終えた先には、中央聖堂と呼ばれる場所がある。それは聖堂という名ではあるが、実質大きな広場であり、山を突然切り取ったような台地となっていた。


 囲うように大理石の柱が建つ広場は普段から解放されており、巡礼者が多い――はずだった。


 やはり今は、数人が立っているくらいである。ぼう、と虚空を見つめるだけの人々を視界にとらえながら、傷の男は広場を進んだ。


 目を凝らして見える広場の向かい側には、またも昇り階段があり、国の入り口から見えていた尖塔の大聖堂へと続いている。


 差し掛かる階段の手前に、帯剣し白い鎧を纏った神殿兵が二人立っていた。


 そのうちの一人がこちらを見やると、重量のある全身鎧を揺らして駆け寄る。

 兵士が面をあげる。そこにあったのは憔悴した顔をした壮年の男だ。兵士の両の目は、男の傷だらけの顔を見て丸くなった。

「お前は……『転生殺し』……」

 

 その視線は、すぐに足元へと沈む。

 

「リファール、様がお前を待っている」


「待っている? 俺をか」


「お前を差し出せ、と各国に通達すら出ているのだ」


 恨みがましい、というそぶりはなく、ただただ疲れた声で兵士は伝える。


「そうか。しかし……様、とはな」


 傷の男は笑うわけでもなく、無表情に言い放った。


「貴様らは奴の――リファールの言いなりか? ……その剣は何の為にあるというのか」


 顎で兵士の腰に帯びた剣を示す。兵は言葉に顔を苦くし、うつむいた。

 

「仕方がないだろう! ……あやつに逆らえば、殺される。きっと我らだけでなく、民も……!」

 肩を落とした兵士の後方には、街の人々が見える。彼と同じように暗く、項垂れた様は、さながら糸の切れた人形のようだった。


「……ならば、搾取され続け、屍人のように生きるだけだ。いずれにしろ、生きているとはいいがたい」


「それは、お前のせいで――」

 

「そう、かもしれんな」

 それ以上の問答はせず、傷の男はその場を開けた兵士の横を通りすぎた。


 彼はすぐに正面の聖堂入口へと向かわず、一度階段の脇へ足をのばす。階段の外は岩肌がむき出しになっており、人が踏破するのは困難である。


 その岩と岩を躊躇なく飛び越え、進む。


 足場を目で追い、静かに、しかし迅速に手足を使い登っていった。

 乾燥地でもあり、木々もない岩場は斜面も急ではある。

 だが、ごつごつとした岩肌は手指のかかりはいいのか、彼の四肢の力がそうさせるのか、すさまじい速度で傷の男は大聖堂の真後ろに到着した。


 傷の男は切り立った壁面を仰ぐと、縄を取り出す。騎士団から調達した馬具の一部――曲がった鉄の楔――を括り付け、投擲した。


 屋根の一部に引っ掛けると、その縄を腕で絞り、壁を蹴り登る。屋根へと差し掛かると腕を伸ばし、縄を回収。近場の窓から内部を覗き込んだ。


 部屋の壁際、座っているだろう小柄な人影が傷の男の両眼にうつる。


 ――髪が長い女だった。


(こいつは……)

 

 長い髪が床についたまま、伏せ、微動だにしないその女は、全ての転生者をこの世界に招いた張本人――『巫女』だった。


「貴様は何をしている」


 素早く部屋に入り、女の背後に傷の男は立つ。

 声に反応し、ゆっくりと頭をこちらに向けた。その顔は半分が布で覆われており、見える右目を大きく見開らく。


「お前は……!!」


 怨嗟そのもののような顔――歯を噛み締める音が聞こえそうなほどに食いしばり、女はしゃがれた声を絞り出した。


「貴様が、奴を呼んだのか」


 傷の男は女を見下ろしたまま、無感情に言う。開かれた窓から吹く風が、部屋の空気を更に冷たくしていた。


「――そうだ。お前を、廃すために……!」


「民を救う者が、私怨の為に、か?」


「民を救うために、必要なことだった!」


 髪は逆立ち、見える右目が赤く血走っている。だが荒げた声はすぐ、居場所をなくしたように消えていった。


「だったのだ……」


 巫女はまたも床へと視線を落とす。肩を自ら抱き、小柄な体をさらに小さくした。


「魔、だと自ら名乗るような……恨みの塊が……」


 ぼそぼそと消え入りそうな声を発し、震えている。


 国の様子も、民や兵士、発端であろう巫女までもが、怯え震えている。

 異常さに、傷の男は背筋に冷たい汗が通っていくのを感じた。だが、彼には止まろうという考えはない。

 そのまま巫女の隣を通り過ぎる。


「――貴様を誅すのは後回しだ。精々そこでうずくまっていろ」


 傷の男は鼻を鳴らすと、それ以上の言葉を交わさず、部屋を後にした。


 扉を開けた先には吹き抜けの聖堂が見えた。姿勢を低くし、聖堂内を覗き込む。


 白い大理石で造られた内部は、荘厳だった。神々しい彫刻細工が施された壁面に、美しく装飾された石柱が、左右対称に立ち並ぶ。


 以前彼がここを訪れた時は、巡礼者の格好で紛れ込めるほどに人が多かった。今は、疲れた顔の兵士が少しいるばかりで、寒くさえ感じる。


 その奥、教皇の間に視線を送ると、そこには何人かの人影が見えた。

 そして、大きな槍を持つ兵士に挟まれるようにある大きく豪奢な椅子に、黒い何かが腰かけている。


 足を組んだそれを視認した瞬間、傷の男は手すりを飛び越え、魔術を展開した。


 大きな青と黒の渦が、腰かける『それ』めがけて発生する。

 が――。


「幻影……」


 渦が掴んだと思っていたそこには、誰もいなかった。椅子さえ、姿かたちがみえない。

 背後から、笑い声が聞こえる。


「ようやくきたか」


振り返ったそこに、『それ』はいた。


「あんまり遅いから一つ目の街を潰すところだったぞ」

 先ほど見た幻影と同じ、大きな椅子に腰かけたそれは、足を組み替え、笑う。


「奇襲、ね。相も変わらず卑怯な手段を取るヤツだ」


 その姿は、傷の男が以前異界へと還した魔術師リファールとは、まったくもって違っていた。


 眉間のあたりに黒くとがった角があり、目は爬虫類を思わせる瞳孔。にやりと笑う口からは、鋭い牙が見える。


「その体……。魔物の物だろう」

「それがなんだ?」

 立ち上がり、悠然とこちらに向かう。表情は変わらず笑ったままだ。


 赤と黒の肌は鱗に覆われ、無数のトゲ、指にはそれぞれ鋭い爪が生えていた。


 ただ魂が異界人であるだけの――もはや人と呼ぶべきではない異形のものがそこにいて、笑っている。


「魔王、と名乗っているようだな。……英雄の末路としては滑稽だ」


「余裕があるフリがうまいな」


 リファールは背に羽織った外套をひるがえし、傷の男の後方を指さす。

 その爪の先には、神殿兵や、冒険者のような身なりの者もいた。


「この世界は俺のためにある。少しチカラを見せれば、人々は俺の側につくんだよ」


 リファールの私兵となった彼らは、そのどれもが虚ろな目をしている。


「俺はなるべくして王となったんだ。……お前の邪魔さえなければ、それももっと早かったんだ」


 そしてリファールが外套をさらにはためかせると、突如として女が――桃色の髪の女があらわれた。

 かつて王国でリファールと相対した時にいた、女冒険者だった。彼女は、ひきつった笑顔を作っていた。


(愚かな……いや)

 それも、彼女の選択なのだろう。


 魔王として蘇ったリファールの加護による支配なのか。そうでなくても、圧倒的な武力の前に、無力な者は逃げるか従うかしかない。


「俺は魔王として、この世界を支配することにした。いずれ全てが俺のものになるんだ……でもなぁ!!」


 拳を握り、リファールは吠える。


「倒さなきゃいけねーんだよ、てめぇだけは! お前が生きてちゃ意味がねぇんだよ!」

柱を拳で殴りつけた。石柱は一瞬にして砕け散る。


「妄執、だな」

「なんとでも言えばいい。俺はこの為に戻ってきたんだ。さあ、始めようぜ――」


 その瞬間、リファールが目の前から消え、瞬時に傷の男の前に立った。

 傷の男は、反射に近い挙動で殴りつける。打ち付けた拳で感じたリファールの身体は、鉄、いやそれ以上の硬さだった。


「きかねえなぁ……」


 リファールが笑い、左の腕で薙ぐ。

 腕に触れた途端に傷の男の身体が吹き飛ばされた。まるで突風にでも吹かれたかのような勢いで飛ぶ。

 石の柱を、傷の男の巨体が穿ち、ヒビを入れた。


 傷の男が地に伏した身体を起こそうと床石についた手を、瞬時にあらわれたリファールの足が踏みつける。


「ぐぁッ!」


 足を踏んだまま、顔面を一蹴。首ごと持っていかれそうな威力の蹴りは、傷の男の脳を揺さぶった。


 その様子をリファールが嗤う。が、すぐに大きなため息を吐くと、足先で傷の男の顎をあげた。


「おまえさ、武器も持ってねぇとか、舐めプにも程があんだろ」


 おい、と魔王は不機嫌に後方へと声をかけた。


「その槍の刃、特殊銀、だとかいったな。神聖国らしい退魔の武器、だったっけ?」

 槍を持った兵士は、慌てリファールへと駆け寄る。

「は、はい……」

 

「ちょっと刺してみろ」

 軽薄に笑うリファールの言葉に、兵士は目を白黒させた。

「へ?」

「いいから、俺に刺してみろ」

 リファールはかまわず自分の腹を見せ、ここだぞ、と指で示した。

「で、では」


 槍は、リファールの腹部を刺す。その穂先には血が滲んでいた。


「ってーな」


 血のついた槍をリファールは無感情につかむと、その柄を軸に振り回した。容赦なく、兵士は鎧ごと吹き飛ばされる。


「ま、得物ぐらいあったほうがフェアだろうからな」


 リファールは槍を面白くもなさそうに傷の男へと放り投げる。銀の槍は、鉄の音を響かせて転がった。

 

「……その傲慢さが貴様自身を滅ぼしたのを忘れたか」

 傷の男の悪態に、リファールは舌打ちで返す。

「……その態度が気にいらねぇんだよ。だからてめぇを完膚なきまでに叩き潰す」


 そして地に向かって唾を吐くと、双眸を歪め、にらみつけた。

「それが、俺の願いだ」


 傷の男は、受け取った槍を回転させ、両の手で構えて穂先をリファールへと向ける。


「いいだろう」


 余裕の表情で向かってくるリファールを、目にもとまらぬ速さで突いた。それを難なく躱す魔王。

 傷の男は続けて右脇を石突きで払い、そのまま身体を軸に回転する。

 遠心力を加えて飛び上がり、蹴りを放った。


 しかし、リファールには届かない。


「なかなか動けるじゃねーか。でも」


 笑う顔へと向けて放たれた一閃を、リファールは軽々と飛び越え――。


「問題。俺は以前なんの魔術が得意だった?」


 空中を蹴るような動作で、右方向へ不自然に移動した。


 目で追うよりも速く、傷の男は感性で槍を放った。だが、やはりその一撃は空を切る。


「おせえおせえ」


 リファールは逆さまの状態で中空に浮き、傷の男のわき腹へと手のひらをあてた。


「――時間切れだ!」


 刹那、まるで大きな岩で殴りつけられたかのように、傷の男の腹を何かが殴打した。


 リファールが使用したのは風の魔術だ。しかし詠唱もなければ道具を使用したようにも見えない。


 傷の男は飛んだ身体を無理やり捩って着地し、横方向へと駆け出す。


「まだまだ元気みたいだな」

 手刀を空中で切る。と、二度三度と見えない刃が傷の男の身体を掠めた。宙に飛び散った血を、リファールの起こす風がかき消していく。


「おらおら! そのまま切り刻んでやる」

 目に見えない剣。しかしその軌道は手の動きをみると多少なりとも予測がつく。傷の男は左右に飛びながらも距離を詰め、リファールへと肉薄する。


「やるじゃん。――でも、な!」


 リファールは勢いよくたたらを踏む。と、足元の石畳が隆起し、一枚の大きな壁が形成された。

 傷の男は一瞬、相手を見失う。


 突如生まれた壁の左右どちらなのか。相手が現れるのを警戒した瞬間、真正面から赤黒い拳が石壁を貫いて現れた。


 石のつぶてと共に繰り出された拳を、僅かな動きで回避し、回転を加えた槍の一撃を見舞う。


 だが、またもその刃はリファールに届かなかった。


 穂先は、リファールの腕の寸前で何かに阻まれて動かない。不可視の壁――圧縮された空気の層が、魔王を覆う鎧となっていた。


 咄嗟に身を後方へと飛ばす。


「そろそろ飽きたな」


 傷の男が飛び退った場所、そこには既に、牙をむき出しにした魔王がいた。身体を思い切り蹴り飛ばされ、傷の男の身体が宙に浮く。


「ぐ、が――ッ!」


 それは今までの衝撃を遥かに超えていた。浮いた身体はすさまじい勢いで石の柱に激突する。

そのまま石柱を割り、更に先の壁へと衝突した。


 くずおれる間もなく、顎下からまっすぐに拳が迫る。かろうじて槍で防ぐが、柄ごとへし折られ、再度壁に叩きつけられた。


 そして、壁に張り付いた一瞬のうちに、腹部に魔王が蹴りを入れる。


 ぶつけられた壁が、衝撃で崩壊した。

 石の破片と共に、傷の男は聖堂の外へと落ち、大きな岩に叩きつけられる。


「一つ、面白いことを教えてやるよ」


 上空からリファールが歩いてくる。

 見えない床でもあるかのように、ゆっくりと。


「今俺、詠唱してないのわかってるだろ?」

 

 リファールは傷の男に迫ると、彼の喉のあたりを指先で刺した。


「お前にやられた時みたいに、こいつを遣わなくてもいいんだよな」


 示す場所、喉には魔術器官が備わっている。

 声を媒介にし、中空にある魔力へと干渉することで、人は魔術を行使することができる。


「魔力そのもの、って言えばいいんだろうな。それが――」


 手のひらを上空に掲げ、振る。

「俺には、見える」


 その瞬間、またも見えない何かが、傷の男の身体を踏みつけた。身体が地面に伏した彼を見下ろし、リファールは続ける。


「今の俺には、魔力そのものが自由に扱える」


 傷の男の側まで寄ると、腹を蹴り上げた。

「ちょっと慣れてねぇから、加減がきかねえんだけど」


 踏みつけていた不可視の枷は外れ、身体が飛ぶ。

「もう俺を止めるやつはいない――」

 

 傷の男の身体は階段を転がり降りていく。

 内臓が、骨が、身体の全てが壊れていくのがわかった。痛みが全身を駆け巡り、脳が揺さぶられる。


 段下まで落とされた傷の男は、しかし、折れた槍の柄を床に突き立て、立ち上がった。


 身体の節々まで痛めつけられようとも、彼の目は、リファールを捉えている。


「お前だけを除いてな……!」


 吐き捨て、リファールは飛翔する。


 傷の男の背後に立ち、手を掲げた。

 風が舞う。その手のひらを傷だらけの男にぶつけた。


 なすすべもなく、傷の男は吹き飛ばされた。さらに何度も転がる。


 彼の身体は、広場の入り口に立つ兵士の足元へと転がっていた。


 傷の男は、兵士を見ることなく突っ伏す。だがその手はすぐに石の床を押し、身体をもちあげた。


 兵士は、傷の男を見ていた目を逸らし、くぐもった声を絞り出した。


「もう無理だ……! 適うわけないだろ!」


 傷の男は答えない。


 閉じようとする瞼を必死でこじ開け、リファールを、その中にいる異界人を睨みつけた。

 内臓を壊されたのだろう――口腔から血を吐き、しかしまた彼は立ち上がる。


「なんであんたは……諦めないんだ」


 迫りくるリファールは、傷の男の喉を掴み、軽々と持ち上げた。


「ぐッ……!」

「終わらせてやるよ。……苦しみから、痛みから、解放してやる」


 掴まれた腕を、決して自ら離そうとはしない。


 その男の姿を見る兵士の右手は、剣の柄を触っていた。

「お、俺の剣は……」

 兵士は剣を握り、そして――。


「うおおおおお!」

 リファールへと一直線に振り下ろした。


 その剣は、傷の男を掴む魔王の腕にあたり、しかし弾かれる。

 衝撃に剣を取り落した兵士を、リファールは凝視した。


「なにしてんだお前……!」

 

 舌打ちと同時に兵士を蹴ると、鉄の鎧が打ち壊され転がった。


「邪魔するんじゃねえよ。イラつくと手加減できなくなるっつってんだろ――」


 その時、怒気をあらわにするリファールの声が止まる。


 動きを止めた魔王のわき腹に突き立てられていたのは、短剣だった。


 リファールの懐を刺す銀製のナイフを持つのは――桃色の髪の女だった。


「ごめん、なさい、リファール様……。やっぱりあたし、この世界の人間だから……」


 涙目の女は、震わせた歯を鳴らし、得物を手放した。


「クソ……ッ。どいつもこいつも……」


 傷の男をつかんでいた赤黒い手が離れ、そのまま女の桃の髪へと伸びていく。


「ひっ!」

 魔王の腕は竦んだ女の頭を掴み、放り投げた。女の体は中空へと放り出され、そして倒れた。


「……やめ、ろ」

 血が混じった声で発する。握り潰された喉がうまく言葉を作り出せない。


 傷の男の歪んだ視界が、リファールの上空の何かを見つけた。

 鳥の群れのようなそれは、幾本もの矢だった。


 見ると、リファールの周りにいた神殿兵のほとんどが彼に対して弓引いている。


「かかれ! 彼に加勢しろ! 全員でいけば倒せるはずだ!」


 しかし矢は全て見えぬ障壁に阻まれ、魔王の周りに落ちていく。

 

「邪魔を、するなぁああ!」

 咆哮。

 リファールを中心に、衝撃波が拡がる。その波は瞬時に兵士達を軒並み吹き飛ばした。


 一瞬の静寂。風が渦巻き、リファールの周りの砂ぼこりが舞う。


「鬱陶しい。雑魚が束になっても雑魚なんだよ……」


 次第に風が止み、露わになったリファールの姿に、傷の男は違和感を覚えた。


 彼の右腕が、肥大化している。その大きさは、リファールの身体と同じくらいに不自然に大きくなっていた。


「なんだこれ……。クソッ、加減がきかねえっていってんだろが。全員殺すぞ……」


 沸々と怒りが湧き出しているのだろう、空気が張り詰めていく。傷の男はその怒気を肌で直接感じていた。

 喉に絡んだ血を地面に吐くと、立ち上がり大きく息を吸う。


「おい! タカアキ!」


 異界人の名で、魔王を呼びつけた。

「あぁ……?」


 折れた槍の先端を向けて、言う。


「……まだ、俺は生きているぞ」


 首をゆっくりとめぐらし、巨大な腕を引き摺りながらリファール――タカアキが傷の男をにらみつけた。

「てめえ、その名前で呼びやがって!! 今すぐぶち殺して――」


 が、次の瞬間彼の顔は歓喜に歪む。


「そうか……。そうだったか……。お前は他人を、その為に……!」

 リファールの双眸が開かれる。その目は、赤と黒に光っていた。


「くくッ、はは――! わざわざその名前で呼んで、挑発して……! いつも一人で戦おうとしていたのはそういうことだったか!」


 身体を曲げ、腹を抱えて笑い出した。

 その声は、その場にいた者全員の身体を貫くように低く、重い。


「――じゃあ、全部壊す、か――!」



 リファールは身体を揺らし、笑い続けている。


「……くく、ははは! 滑稽だな! 今からこいつらをもてあそんでやるよ。お前の精神を、限界まで壊し――て……」


 その時――リファールの身体が、不自然に跳ねた。


「あ……? んだこれ」


 その動きは、脈動するように小刻みに繰り返される。

 当の本人にさえ不意の事だったのか、鼓動を刻む身体をまじまじと見つめた。


「なんだ? 身体が、勝手に――」


 突如、不自然に膨張した腕が暴れ始める。右腕だけでなく、左腕、そして四肢のすべてが肥大し、膨張していく。


 身体が際限なく膨れ上がり、まるで巨木のように大きく変動していった。


「おい、なんだこれ……、なんなんだよ……」

 

 大きな、もはや魔物とすら呼べぬような、肉の塊。膨張していく黒と赤の沼は、床や柱を飲み込み広がり続けていく。


「あ、ああ……」

 そして、驚愕に染まったリファールの声さえも喰らうように――彼の全てを飲み込むように、塊は形を変える。

 獣のような、しかしそれとは明らかに違う、形の定まらぬ怪物となった。


「あれが、魔……、預言の……」


 兵士の誰かだろうか。絶望に震えた声が、咆哮の合間に聞こえた。


「なんだ、あれは……」


 傷の男の目の前には、リファール――異界人タカアキはもう、いない。

 そこにあるのは、赤と黒の渦巻く、不定の魔物だった。

 

 黒雲へと叫ぶ声は、誰の声なのだろうか。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


『破壊者』――デストロイヤー――


 憎しみの力。目標を破壊する事だけに特化し、力が増幅し続ける。

 タカアキの望みは、傷の男ただ一人への復讐。


 しかし望みは歪み、全てを壊す。

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