第2話 『統治』 皇女ラキュア(ヨシオ 48才)後編
ひんやりとした温度を頬で感じる。
傷の男がうっすらと目を開けると、目に入ったのは石。感触は固く、無機的な床がそこにあった。
石畳のように敷き詰められた石の床、そして壁を三方で囲まれ、目の前には鉄格子。彼の目覚めたこの場所は城内の牢だった。
地べたにそのまま寝そべっていたのだろう。土や砂が口の中に入っていた。身体を起こして口元を拭う。
壁際には、明かり窓から光が入っている。その隙間から入り込む赤みがかった光は、今が夕方近くであることを知らせていた。
(随分と寝ていたようだ)
手指を動かし、痺れが消えていることを確認する。そのまま背中の傷跡を手で触った。
幸い背中の傷は深いものではなく、血はとまっている。
荷物は、すべて奪われていた。転移魔術に使う腕輪も外され、片眼鏡も同様に手元にはない。上着すらはがされており、応急処置もなくそのまま放置された為か、体温が著しく下がっている。
傷の男は体を震わせ、失血量の多さを窺い知る。
(おそらくこのままここにいれば、拷問と称して殺されかねないだろうが……)
顎に手を当て思案していると、背筋に気配を感じた。
『おじさま……』
その声は壁際の方から聞こえる。立ち上がり、そちらへと向き直った。
「いたのか」
傷の男は、のそ、と巨体を動かし、壁の方へと身体を寄せる。
『ご無事で――ひゃぁ!』
はっとした様子の声。姿は見えずとも彼女――皇女ラキュアの魂は慌てているようだ。
「? どうした?」
『と、殿方のお、お身体を、見ることがその、ないもので……』
「なるほど」
現在の傷の男は腰に布切れを巻いただけの、身包みを剥がされたような状態である。
箱入りとまではいかないだろうが、年頃の娘の前にいていい恰好ではない。
「しかし、どうすることもできん」
姿も見えない相手に、どう見えているのか。
答えの出ない事を考えても仕方がない。傷の男は気にしないことに決め、話を変えた。
「聞くが、その身体、壁をすり抜けられるのだな?」
『え、あ、はい……』
戸惑っている様子は抜けきってはおらず、声は少し遠い。
『そうですね。少々はしたない気がして慣れませんが……』
皇女の部屋に入った際も突如現れていたように見えていた。傷の男は質問を続ける。
「それと、俺の持ち物がどこにあるかわかるか?」
『あ、はい。あの後――』
彼が倒れた後、複数人がかりで牢に運ばれ、そこで衣服や装備、持ち物を奪われたという。
それらは兵士詰め所に放り込まれたようだ。皇女が言葉で示唆するのは、牢よりはるか上の階だった。
「感謝する」
簡潔に言うと、石積みの壁を指で掴んでするすると昇っていく。そして明り取り窓の空洞へと手を入れた。
『お、おじさま!?』
穴は頭一つ分より少し大きいくらいだ。壁の向こうに伸ばした手で少しの突起を指にかける。
ぶら下がったまま両足で左腕を挟み、引き抜くような動作を行う。
「ふんッ」
鈍く骨の鳴る音がした。
『な、なにをしていらっしゃるのです?』
傷の男の挙動に気づいたラキュアの声が、驚きに震える。その驚愕に対し特に感慨もなく、裸の大男は答えた。
「くぐって登る」
『えぇ!?』
骨を外された左腕は、肩からぶらりと垂れ下がっていた。
牢を脱すればいずれ見回りに気づかれるだろう。
傷の男は急ぐよう、一息に体を外側へと引き抜く。石造りの壁が少し壊れ、そのかけらが外の堀に落ちて水しぶきをあげた。
片腕の力だけで上半身を引きずり出す。そのまま穴に両足をかけ逆さまにぶら下がると、両足に左腕をはさんで右手で肩を入れた。
「ぐッ」
またも生々しい音が鳴る。はまった左肩をまわすと、激痛が走る。だが動くことは確認できた。
ひっかけた両足を軸にして腹筋で体を起こす。傷の男は壁をつかみ、ゆっくりと登り始めた。
治りきっていない傷跡から血が滲み、堀へと滴り落ちる。気にすることもなく、傷の男は壁へと手を伸ばした。
『何故貴方はそうまでなって……』
風の音にかき消されそうなほど、小さく聞こえる皇女の声。
『この国の為……ですか?』
「そうではない」
わずかな突起を手で探り、掴み、足をかける。
「……世界の為、いや違うな」
自分に問い、正すよう――ゆっくり、すこしずつ。言葉を発しながら登っていく。
「この世界に生きる――自分のためだ」
指の一つ一つに意思を込めるよう、壁を掴む。
「だから、気にしなくていい」
『ですが……』
吹き付ける潮風が皇女の声を攫ったのか、それ以上は聞こえなくなる。
傾いた夕日が、傷だらけの背中を照らしていた。
強い潮風の中、しかし着実に登り続け、見えてきた窓に手を伸ばした。
上体だけで拳を振り、ガラスを割って中に入る。
傷の男が降り立ったのは廊下だった。幸い周囲に人の気配はない。
窓にかかった高価そうな赤いカーテンを引きちぎり、血の流れ続ける背中を覆うように巻き付けた。
廊下で男は首を巡らす。
『こちらです』
ラキュアは彼の意図を読み取ったのか、左側から声をかける。
『この先の角を曲がったすぐの部屋に、兵士の詰め所があります。貴方の荷物はそこに』
「助かる」
足音を消しつつ廊下を曲がり、兵士詰め所のあるドアの前に立つ。
物音は――ない。慎重に扉を開け、構える。
果たして、部屋の中に兵士はいなかった。
もしかすると彼の脱走が知られ、駆り出されているのかもしれない。
傷の男は詰め所を見渡す。ぞんざいに放り投げられたのであろう、彼の肩掛けの革袋が椅子の下に転がっていた。
革袋の口をあけ、椅子の傍にある円卓の上に一つずつ中身を置いていく。
バナナ、腕輪、ドラゴンフルーツ、バナナ、バナナ、腕輪――。
「……ない」
『どうかされました……?』
広げた荷の中に、片眼鏡は見つからなかった。
倒されたあの時、彼は幽体視のできる片眼鏡を装着していた。外された装備を律儀に荷物と一緒にまとめておいてあるはずもなく。おそらくどこかに捨てられたか、目聡い誰かに奪われたかしているのだろう。
よく数えるとバナナも数本なくなっていた。
「いや……気にしなくていい」
作成するために使った費用を考えるとかなりの痛手だが、嘆いても戻ってくるわけでもない。
それに、異界人が誰であるかはすでに判別している。
傷の男は大きく息を吐き、思考を切り替える。
荷を革袋にしまいながら、手に取ったバナナの皮をむいた。
椅子に座ったまま頬張る。
甘みを舌で味わい、咀嚼していく。疲労の溜まった体に滋養がいきわたる感覚。丸々一本を食べ終え、皮を台の上に置いた。
そして革袋から次に赤い果実――ドラゴンフルーツを掴み取り、ナイフで切り分けた。
赤い外皮の中は、白みがかった果肉に黒い粒。むしゃぶりつくと、控えめな甘さが頬を刺激した。
『ふふ』
皇女のかすかな笑いが聞こえた。
『おいしそう、ですね』
今どのあたりにいるのか。不可視の少女の声に少しだけ手がとまる。
『身体がないと、食事もとれませんから』
「すまんな」
『あ、いえ、そういう意味ではないのです。ただ、懐かしいなと。そう思っただけですから』
ラキュアの声は、絶望という色とは違う、どこか寂しさを含んだもののように、傷の男は感じた。
『この姿では誰にも気づかれないままでした。でも、おじさまに出会うことができました』
しかしそれを一笑するかのように、彼女は冗談めいた声で笑う。
『不思議な方。どのような状況であろうとも戦おうと、今も準備されています。そんなに傷だらけになりながらも』
身体中に走った傷跡を指しているのだろう。
「これはもともとだ」
『今までどれほどの苦労を……なんと痛ましい……』
顔、背中、胸。指の先に至るまで走った無数の傷。
しかし彼にとってそれはただの傷。――結果であり、感慨などはない。
それより、と傷の男は前置く。
「俺には……貴女のほうが痛ましく思える」
皇女ラキュアは今、身体を奪われ幽体として存在している。
片眼鏡のない今、姿を視認することもない。声を聴かれることもなく、ただ一人でこの国の中を何日も、幾月も孤独に過ごしてきたのだろう。
「あのような男に、身体を乗っ取られているのだから」
『……わたくしのことは良いのです。ですが、民が――民に混乱を与えてしまっていることが何よりも辛い』
力なく俯くように、声が小さくなっていく。
『民の痛みを思えばこのようなこと。貴方にも傷を負わせてしまって……』
そう、皇女が呟いた次の瞬間――。
傷の男の体が、雷に撃たれたよう跳ねた。
「なんだ?」
『え……? 今――』
一瞬、ほんの一瞬の浮遊感。
『も、申し訳ありません! 今、おじさまに触れてしまって……』
ラキュアにとっても意図せぬ事態だったのだろう。動揺が声に出てしまっている。
「その身体、誰かに触ったことはあるか?」
『は、はい。何度か……。すり抜けてしまって触ることはできないのですが……今のようなことはなかったのですけれど』
「肉体の疲弊か? それとも精神か……?」
傷の男は何かを思いつく。考えをまとめるためか、独りで呟きだした。
『おじさま?』
接触の瞬間、意識が少し外へと飛び出た感覚があった。
それは、魂が肉体を離れた、そう捉えることもできる。
「もしかすると身体を取り戻せるやも――」
彼が話し終わる寸前、詰め所のドアが無造作に開かれた。
「もう~、またここ? ってあれ?」
現れたのは、高価そうな軽鎧を身に着けた少女。十代の半ば程だろうか、肩まで伸びた毛先が茶色がかった髪を揺らし、傷の男を目を丸くして見つめる。
「え、ええ? おじさん誰? ええ?」
すでに傷の男は椅子から立ち上がっている。少女の、驚きしかし間延びする声からは、すぐさま敵対行動をとるようには見えない。しかし傷の男は、何者かわからない相手を――たとえそれが子供だとして――信用するような生き方をしていない。
そして何より、彼女の手には皮をむいて一口食べられたバナナがあった。
「え、何々!? おじさん超怖いんだけど! あ、このバナナもしかしておじさんのだった? ごめん! 勝手に食べてたのは謝るからさ!」
少女は円卓におかれたバナナの皮を見つけると、手のひらを合わせて申し訳なさそうに頭を振る。
『おじさま、どうか冷静に』
大切な食料、それも高価なものを無断で奪われているからか。傷の男の怒気は、皇女に諭されるほど漏れ出ていた。
咳ばらいをし、あらためる。目の前の少女は、特徴的な黒い瞳を傷の男に向けていた。
「貴様、何者だ」
「え、あたし? 迷子だよ迷子。ほんとここわけわかんなくて……」
「迷子、だと?」
「そう、その迷子。あたしすぐ迷っちゃうんだよぅ。高校生なのに迷子センターでよばれたりさぁ……」
わかりやすく肩を落としため息をつく少女から、聞きなれない言葉が出てきた。目の前の少女は慌ただしく手をふりながら一方的に話し始める。
「ん~? なんかおじさん、どっかでみたような……。レオン君がなんかいってたような……なんだっけ?」
傷の男は彼我の距離を、瞳を動かさず確認した。入口付近に立つ少女を躱さなければ部屋の外へと出ることはできないだろう。
彼の思案を露とも知らず、少女はまだ口を閉じない。
「皇女様もなんか変だし、ヨシオっていう人探してるけど見つかんないし、そのこと皇女様に聞いたらものすごく怒られて閉じ込められたりさぁ。ホント最悪だよ」
「ヨシオ?」
再び聞きなれない言葉が出た。誰何を訪ねる男の声に、少女は黒い瞳を見開いて更に話始めた。
「そう、そのヨシオって人の事をさぁ、なんか巫女様が言ってたんだよね~。私と同じで向こうから来た~って。だから注意してあげろってうんぬんかんぬんでさ。……あたし難しい話よくわかんないし、どうしようかなぁって」
まとまりのない話し方や耳慣れない単語。そして、巫女――。
(もしやこの娘……!)
傷の男に戦慄が走る。
「でね、傷だらけのおじさんが私たちを狙ってるって……。ん? おじさんすごい傷いっぱい……。もしかしておじさん……」
「逃げるぞ」
姿の見えないラキュアへ一言発すると、傷の男は両腕を思い切り振り上げて円卓をひっくり返した。
「あぶなっ! おじさん何すんの!!」
飛びのく少女の脇をすり抜けて入口を突破する。廊下に出るとすぐ方向を定め、跳ねるように走り出した。
「うわ、丁度いいところにバナナの皮が!」
転んだ音が、後方から響いていた。
廊下を駆け、角を曲がる。
男の側を離れずにいたのか、耳元でラキュアの声がした。
『先ほどの少女の鎧……、あの胸元の意匠……。彼女は教団関係者かもしれません』
「何……!?」
傷の男の表情が一変する。
「そうか、わかった。……やはりあの娘、異界人かもしれん」
『そ、そうなのですか!?』
彼女の言っていた“むこう”とは異界を指している、と傷の男は推測する。
「確証はないがな、となれば、あの娘の言うヨシオ、というのは……」
異界人は聞きなれない名が多い。リファールも真名も、タカアキという名だった。
もしかするとその、ヨシオ、という名は――。
「で、出たぞ! 先ほどの侵入者だ!」
少女の転倒で騒ぎが知れたのか、廊下の先から兵士が数人あらわれる。
慌ただしく剣を抜こうとした兵士の腕を素早く蹴り上げる。蹴った足を軸に更に回転して逆足の踵を兵士の側頭部に当てた。
傷の男が着地したころには、なぎ倒された兵士は気を失い倒れこんでいた。
さらに槍をこちらに向けた兵士へ、近くにある花瓶を投げつける。そのままとびかかり、鎧の上から蹴り飛ばした。
吹き飛んだ兵士が、さらに後ろの者を巻き込み転ぶ。そのまま跳躍し飛び越え、事態を把握できないまま残った一人の顎を、拳で掠めた。
脳を揺らされたその兵士は、何もわからないまま廊下に沈む。
『お、お強いのですね……』
皇女の息を飲むような声がする。
「……鍛えているからな」
傷の男は少しだけ乱れた呼吸を、大きく息を吐くことで無理やり整えた。
『私もおじさまのようになれますか?』
どこからか、かすかに喧噪が聞こえる。じっとしていればすぐさま取り囲まれるだろう。
『おじさまのように、強く』
傷の男は急くよう、膝を曲げて跳ねた。
「貴女は、十分につよい」
彼の呟きは、駆けだした廊下に置き去りになったのか。皇女の返答はなかった。
何度も角を曲がり、階段を駆け上がり、出てきた兵士を倒しては駆け抜ける。
幾度繰り返しただろうか。やがて傷の男は、大きな両開きの部屋の前につく。
皇女の居室だ。
その豪奢な扉を守護していた二人の兵はすでに、彼の足元で倒れている。傷の男は、背中の革袋へと手を伸ばした。
彼が無造作に取り出したのは、青黒い腕輪と――毛皮でできた鍋掴みだ。
手首の部分には動物の毛があしらっており、防寒具の手袋にも見える。
親指部分以外をひとまとめに覆うその鍋掴みと、腕輪を右手に装着する。
『それは……?』
「幽体と接触できるらしい」
言い、前方へ軽く腕を振るう。
『きゃ!』
「む」
虚空に生まれた感触は、とても柔らかかった。
『……』
一体どこに触れたのか。追及されることもなく、男は手を開いて差し出す。
「……手を」
傷の男は静かに言い放った。
『は、はい』
皇女の声に、手が重なった。握りこむと、しっかりと手指の感触がわかる。
「ふむ」
加工屋の娘に言われるがまま購入したものだったが、“幽体掴み”というのは伊達ではないらしい。
『さ、触れます。触れますよ、おじさま』
「ああ。……殿下。もしかすると、いや、確実にあなたの身体を傷つけることになると思う」
『かまいません。名誉の負傷です。でも、できるだけ手加減をお願いいたしますね』
男の声に、握りこんだ指が応えるようにしっかりと握り返してくる。
「善処しよう」
傷の男はそういうと、扉を蹴破った。
その瞬間、刃が傷の男を襲う。
突き出すその槍を軽く飛び越え、穂先を踏みつけ兵士を蹴り飛ばした。
兵士の手を離れた槍を足の先で弾くように蹴り、浮かんだすぐ手で掴みそのまま投擲する。
その槍は、扉の奥に悠然と立つ皇女の――姿をした異界人の――頬を掠める。そのまま奥に隠れていた兵士の腿を貫いた。
「ちっ。抜け出してきたか。まあいい」
傷の男の行動に、もはや異界人は驚かず憎々しげに吐き捨てた。
その美しい顔には、早朝に相対したときと違い、あるものが付属している。
片眼鏡。
透過石という宝石を使用した、魂を映しだす片眼鏡が装備されていた。
「こいつ、どういうアイテムかと思ってたけど。なるほどそうか」
嘲笑。その歪んだ頬を傷の男はにらみつけた。
「皇女は、そこにいたのか」
しかし、異界人の見る先は後方。皇女ラキュアの魂を見つめているのだろう。
「夜な夜な泣く声が聞こえるとかってのは、ただのウワサじゃあなかったワケだ」
肩を揺らして笑う異界人は口を歪め、目を細め、腰に装備した細剣(レイピア)を鞘から抜き、こちらにむける。
「……俺が完璧にこの国の皇女となるためにも……その女は排除しなければいけないよな。でもその前に――」
細腕から繰り出される速度にしては速い。しかしその構えは――。
(素人同然だな)
避けられない速さではない。男はひらりと異界人の刺突を躱す。
二度、三度と繰り返されるその突きを、身をひるがえして難なく避け続けた。
「ちっ。……しょうがない。本気だすのは面倒だから、やりたくなかったけど」
異界人が舌打ちをすると、どんよりとした重い空気が傷の男を襲う。
(加護――)
しかし、やはり先刻対峙した時と同様、傷の男自身に変化はない。が――。
皇女を取り巻く女性兵士達が次々と倒れていった。
(なんだ? 俺を対象としていない、のか?)
床に這いつくばった彼女らは、呻き苦しんでいる。
その中心に立つ皇女の姿の異界人は、のたうち回る民を見ると更に口元を歪ませて笑った。
「行くぞ!」
放つ言葉を聞き終える前に、異界人の姿が傷の男の視界から消えた。
「なっ――」
腕から鮮血が飛び散る。
『おじさま!』
ほとんど勘に近い動きで身体をひねっていたからだろうか、腕を掠る程度で致命傷は避けた。だが。
「さあ、これからが本番だぞ」
背後から声。
振り向く間もなく、逆の腕と右大腿部を刻まれる。
「ぐぁっ!」
その傷を皮切りに、目で追えない速度で何度も何度も斬り付けられる。
「おら、どうした! 顔に余裕がなくなってきたなぁ!」
異界人のあざ笑う声が部屋に響いた。
「ははは! その程度だよなァ普通の人間はよ! お前もひれ伏せ!」
笑い声と共に、幾度も斬りつけられていく。
「この国の人間はな、俺に降伏することを望んでいるんだよ」
視界の端に映る兵士たちは、もはや呻くことすらできなくなり、次第に動かなくなっていった。
(これは、まわりの兵士の力を吸い取っている、のか……)
「降伏こそ幸福なんだよ。何も考えなくてもいいだろ? 従っていれば煩わしさから解放されるんだ。考えてしまうから、人は不幸になる」
傷の男は左腕を前に頭を庇うように立つ。
右から、左から。前後関係なく放たれる刺突や斬撃を耐えている。
「それも、幸福の一つなのかもしれん」
あらゆるところから血が噴き出し、絨毯の毛を赤黒く染めていた。
「だが、貴様の支配は紛い物だ。そのような力――、貴様が統治者として優れているのであれば、そんな力は必要ない!」
身体中から噴き出す血を拭う間もない。しかし大きく息を吸い、叫んだ。
「ここは、貴様がいていい場所ではない!! 皇女を騙る異界人――ヨシオよ!」
「あぁ!? なんだお前!!!」
ヨシオと呼ばれた皇女の姿の異界人は、一層声を荒げた。
攻撃する手を止め、傷の男の眼前に立ち、睨みつけている。
「俺はヨシオなんかじゃない! 俺はこの国の皇女、ラキュア様だ! そんなやつはもういないんだよ!!!」
憤慨し、怒気をあらわにする。ヨシオという名は、奴の名で間違いないようだ。
その表情を確認すると、傷の男は素早く背中に両手を回す。
「遅い! 遅すぎるんだよ!」
異界人――ヨシオはまた姿勢を前に倒し、駆けだす。一瞬のうちに加速し、視認できぬ速さになる、が――。
傷の男はその軌道上へ、身体に縛りつけていたカーテンを広げた。
「ぬがっ!」
深紅のカーテンがヨシオを包む。細剣だけが布地から飛び出し、傷の男のまぶたを裂いた。
――生まれた一瞬の隙。
流れる血で眼球までも朱に染めつつも、傷の男は瞬間的にヨシオの足を払い転倒させる。
「なんだ! 何だこれ! くそっテメェ何しやがった!」
「いくら身体能力があがろうとも、貴様は所詮は素人だ。目をみればどう動くかはわかる」
倒れたヨシオを、刹那のうちに組み伏せた。
「開け! 門よ!」
暴れる時間を与えぬまま、腕輪から魔術を展開する。
青く暗い渦が生まれた。
それはヨシオの身体の頭上で、渦巻いている。
「お、お前まさか、転生殺し……!」
渦に、異界人ヨシオの身体が吸い込まれていく。傷の男に被せられたカーテンから覗かせた顔は戦慄にひきつっていた。
「皇女殿下!」
『は、はい!』
傷の男が手袋をつけたままの手を伸ばす。ラキュアは応じ、手のひらに指を重ねた。
それは華奢で細い。
だが男の手を離すまいと、しっかりと握られていた。
強く、気高い意志を感じられる力が、籠っていた。
「返せ! その身体はお前のものではない!」
傷の男は、叫び、皇女の魂を握った腕を異界人へと振り下ろす。
「や、やめ……!」
突如、ヨシオが皇女の身体を使い、傷の男を蹴り上げた。その細い脚は、異界人の力故か、その巨躯を蹴り飛ばす威力があった。
傷の男はそのまま壁に激突する。口腔から血が吐き出された。
「お、おじさま! ご無事ですか!?」
傷だらけの男の元へと、皇女が駆け寄る。髪も乱れたその姿は、さきほどの異界人のものと変わらない。
しかしその目は、先のヨシオのものとは明らかに違う。傷の男を案ずるその慈愛に満ちた瞳を見つめ、傷の男は少しだけ笑った。
「どうやら無事に……取り戻せたようだな……」
「え、あ! 本当! 私の身体……!」
ひし、と自身を抱きしめる皇女ラキュア。
異界の門を開くことでヨシオの魂を吸い出し、そこへ幽体掴みで無理やり皇女の魂を押し込んだのだ。
成功はした。だが、先ほど蹴り上げられたのは、まだ奴が完全に送還されてはいないことを示している。
傷の男は、姿を取り戻して安堵するラキュアへと手を伸ばした。
「……眼鏡を」
「あ、はい」
喜ぶ間もなく言われたまま片眼鏡を皇女は差し出す。
つかむと、素早く左目に装着した。
頭を振り、あたりを見回す。と、大きな窓の方へと浮遊する太った男の姿を捉えることができた。
「逃がさん!」
傷の男は自身の体力を振り絞り、跳躍。その男の魂に飛びつき、足をつかんだ。
『や、やめてくれ! 助けてくれ!』
「助けろ、だと……?」
ヨシオをぶら下げるように、掴んだ足を持ち上げた。
「助けすら呼べぬよう意志の自由すら奪い! 人々をいいように扱った貴様が!」
体の隅々まで血塗られた傷の男は、怒りを隠さずに咆哮する。
「――貴様が述べる言葉ではない!!!」
『か、帰りたくない! 可愛い存在でいたかっただけなんだ俺は!』
「門よ、開け」
足をばたつかせて叫ぶ異界人をつるし上げたまま、傷の男は魔術を展開する。
『帰ったらまたいいなりだ……! 年下の上司に顎で使われて、若い娘には邪険にされて……』
青と黒が、ご、と音を立てて大きく渦を作り出した。
『嫌だ! 帰りたくない! ここで俺は愛されて生きていたんだ……!』
渦の向こうは暗く、何も見えない。そこへと暴れる異界人を押し込めていく。
「愛を求めるのは貴様の自由だろう。たとえ偽りであろうとな。だが、この世界を、俺たちを巻き込むな! お前の世界で求めていろ!!」
『クソッ! お、お前はな、命を狙われてるんだぞ! そのうち掴まって殺されるんだ!』
顔の半分まで押し込められたヨシオは、憎悪を含んだ声を出した。
『教会騎士団がお前を探し回ってる! どこに逃げても無駄なんだ!』
「だからなんだ」
傷の男は言葉を紡ぐ。まるで他人事のように無感情なまま。
「そうだとしてもだ。命ある限り俺は、止まらん。貴様ら異界人を――全て還すまでな」
『や、やめ――』
「……さらばだ」
そしてそのまま、皇女ラキュアを騙る異界人を、渦に押し込んだ。
ふ、と傷の男がもらした声が、静かな部屋にいきわたった。
「終わったのですね……」
「おそらくな」
傷の男は片眼鏡を外しながら、皇女へと向き話し掛ける。
「元の身体はどうだ?」
「……少し、お腹がすきました」
皇女は、年相応の笑顔を傷の男にむけた。
「殿下! ご無事ですか!」
一連の騒ぎを知って駆け付けたのだろう、兵士がぞろぞろと部屋の中へと入り込んできた。
「貴様は牢にいた男! 殿下から離れろ!」
そして血だらけの傷の男へと武器を向ける。
「おやめなさい! 良いのです。この方はこの国を救って――」
皇女が傷の男へと目をむけた。
彼は窓を開け、その風を身体に受けている。傷だらけの男は、今まさに飛び出そうとしていた。
「あ、あの。お待ちください。せめてお名前を。……貴方に礼をしなければ皇族の恥となります」
「いや……、いい。辞退する。それよりも――」
傷の男は革袋から一つ何かを取り出すと、ラキュアへと放り投げた。
ラキュアは慌てて両手で受け取る。
「壊したものとは釣り合わんだろうが、今はそいつで貸しにしといてほしい」
それは、赤くて丸い果実だった。その実はところどころに鱗のような緑の皮がついている。
「ではな。……よき、政(まつりごと)を」
傷の男は窓の外へと身体を投げた。
皇女は受けっとった果実を、大事そうに両手で包みこむ。
そして、窓へと身を乗り出す兵士に、静かに言い渡した。
「彼を追ってはなりません」
その声に兵士たちは動揺する。
「良いですね」
だが皇女のその言葉を――仕えるべき王族の凛とした声を、彼らは受け止め、跪いた。
「はっ」
被支配とは違う忠誠を胸に、かしずく。
皇女はその兵たちへと微笑みかけ、窓の外へと目を向けた。
夜更けの海は、静かに波打っている。空と同じように暗闇を湛えながら。
(そう、彼こそが私、いえ、この国を救ってくれた勇者なのですから)
しかしその向こう――暗闇の中で輝く月は、皇女の顔を優しく照らしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜明け前。
十数人の男女が、欠伸をかみ殺しながら、ランプを掲げて堀の周りをうろついていた。
そのどれもが、十代の半ばから後半。少年少女というには少しだけ大人びてはいるが、大人と言うには早いような年頃の者ばかりだ。
「無事でよかったよ、コバヤシさん」
その中で先頭を歩くのは、柔和な顔つきの少年だ。
背中に大きな剣を背負い、しかしその重さを感じさせることもなく笑いながら隣の少女へ声をかける。
「参っちゃったよぅ。全然お城から出れないし、変なおじさんに机なげられるしさぁ」
でも、と少女は続ける。月明りとランプに照らされた瞳は、黒く丸い。
「ほんとレオン君が助けてくれなかったら危なかったよ。ありがとう~」
「え、えへへ。僕も城の中に入るのに苦労したけど、なんだかお城で騒ぎがあったみたいでさ。運がよかったよ」
レオン、と呼ばれた少年は、感謝の言葉に頬をかいた。
「コバヤシさん、そのおじさんっていうのが……」
「そう、あの“傷の男”、だっけ? 多分間違いないよ。……ん?」
少女はそういうと、急に駆けだした。
この娘はいつもこうだ。後先考えずに思い立ったら行動する。夜目が効くのも彼女が盗賊のスキルを持っているからなのだが、何も告げずに飛び出していくので何かとトラブルが多い。
少年は肩をすくめ、しかし笑いながら足早に少女を追いかけた。
しかし、レオンはその緩んだ表情をすぐに引っ込めた。手を背中の剣の柄へと伸ばしてつかむ。
「あ、やっぱりおじさんじゃん。おーいレオンくん。この人だよ~」
少女――コバヤシの視線の先、堀から身を乗り出したその大男を視認すると、周りにいた仲間へと指示を飛ばす。
「みんな! 戦闘態勢だ!」
少年は自分の力が増したのを自覚した。
使命。なすべきこと。
『勇者』の加護を受けた時から決まっていた運命。
レオンは、堀から上がり水浸しになった、傷だらけの大男へと剣を向ける。
「あんたが傷の男だな」
水平線から顔を出した太陽を受け鈍く光る刀身は、少年の背丈を優に超える巨大な両刃ものだ。
「僕は教会所属、神聖騎士団団長レオン・カワノだ! 傷の男――いや転生殺し(リバース・デストロイヤー)! ……お前を拘束する!」
少年は大きく息を吸う。この世界の秩序を守る、その使命を切っ先に込め、高らかに叫んだ。
「……救いの巫女様への暴行、並びに教団施設破壊。その罪を償ってもらう」
皇国の夜明けに、勇者の声がこだまする。
少年少女に囲まれた、無数の傷を持つ男は――何を言うでもなく、ただ静かに拳を握りしめていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『統治』―ドミネイション―
支配者の力を得る加護。
自身の領内における民の精神を支配し、従わせる。わずかながら力を借り受けることができ、支配人数が増えることでさらに増加する。
ヨシオの願望。
可愛いもの――少女になり誰からも愛され、すべて思い通りになる世界。
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