第39話 白石の最後の恋

 この男を、抱きたかった。


 もう二度と会うこともないなと思いながら、白石は山中の大きな身体を切なく見つめた。

 山中は無心に、白石からもらった紙袋をのぞきこんでいる。しかしギフトラッピングがされているので、中身がわからないようだ。

 白石が笑って


「コルヌイエホテルのもので悪いがね、中華調味料のセットだ。コルヌイエのレストランアイテムのなかでもコンスタントに売れている。使いやすいらしいよ」

「ありがとう。じゃあ、これでなんか中華を作るか」

「やってみてくれ」

「あんたは喰いに来ないのか」


 山中は、ぼそっと言った。


「あんたに、喰わせたい」

「ありがたいけど、それはもういろいろとまずいだろう」

「あんたの男に悪いからか?」


 山中がそういうのを聞いて、ははと白石は笑った。自分のどこからこういう声が出てくるのか、よくわからないと思った。


 うわっつらだけのあかるく礼儀正しい声だ。本来の白石はこんなふうに、他人に“嘘の声”を使う男じゃなかったはずだ。

 だが今、この男が白石に嘘をつかせている。


 白石自身が痛い目を見たくないがために。たったそれだけの理由で、白石は自分と山中に嘘をついている。


「男なんていないよ。いたら、あんたに飯を食わせてもらうわけがないだろう」

「フリーか。フリーなら、なぜ俺と付き合おうと思わない?」

「理由はね、あんたがおれの後輩の井上清春に近すぎるからだ。俺は職場でカミングアウトしていない。だから井上にゲイだって知られたくないんだ」

「あいつは、あんたがゲイだって知っても誰にも言わないよ。岡本がそう言っていた。

 岡本の惚れていた相手がてめえの妹だってことさえ、11年も誰にも言わなかった男だ。あんたがゲイだなんてまわりに言うはずがない」

「岡本さんは、井上のいもうとが、好きだった?」


 白石は、正直に驚いた。


「井上の妹って、渡部のことか?」

「俺は名前まで知らねえよ。井上とはおふくろさんが違うって、岡本は言っていたな」

「彼女から直接聞いたのか」


 ああ、と山中はのっそりと起き上がり、ひげが生え始めている顎をさすった。

 きらびやかなブランドショップの2階は、ざりっという、手があごをこする音まで聞こえそうなほど静かだった。

 山中は少しうつろな目つきで床を眺め、


「岡本は何もかも見抜いてる。あんたがゲイであることも、俺があんたに惚れたことも、あんたが俺に何の興味も持っていないことも」

「何の興味もないわけじゃ……」

「惚れた男に、めしまで食わせようって思ったのが間違いだったんだ。

 ただの前立腺の問題で終わらせりゃよかった。これまで俺の頭の中と前立腺は、別個の存在だったのに」


 ふうと言って、山中はフィッティングエリアのテーブルに置いてあったデジカメを取り上げた。

 カメラの横のふたを開けて、中のSDカードを取り出す。そのまま小さなカードを白石の目の前に差し出した。

 白石は差し出されたSDカードを見たままつぶやく。


「何だ?」

「あんたの画像はここに全部入っている。バックアップは取っていない。インスタの画像はさっき全部、他のやつに差し替えた。これで、おしまいだ」


 白石は黙ってSDカードを受け取った。ちっぽけなプラスチックに包まれた部品。このなかに、白石の最後の恋が詰まっている。


 さいごの、恋。


 山中は白石を見つめたまま言った。


「あんたが持っていてくれ。俺が持っていると、未練が消えない」


 もう、コルヌイエにも行かねえよ。


 巨大なネコ科の獣は爪も牙もすっかりしまい切って、白っぽい顔つきで笑った。


「バカだった。あんたのカラダをネットに乗せてさらすなんてな。どうせ俺の手に落ちてこないものなら、世界中にあんたのきれいな腰骨を見せびらかしたかっただけなのに」


 くすっと山中は、泣いているような顔で小さな笑い声を漏らした。


「見せびらかせば見せびらかすほど、あんたが欲しくなった。あの腰骨の上に3つ並んでいるほくろに、キスしたくなった。なのに、出来ねえ。このおれが男に相手にされなかったなんて、いつが最後か思い出せねえよ」


 あんたが、最後になる。


 山中は大きな身体をぶるっと震わせて、後ろを向いた。


「もう二度と、恋と前立腺の問題を一緒にしねえよ。苦しいだけだからな」

「山中さん」


 白石は呼び掛けた。山中は肉の厚い肩をピクリとさせただけで、振り返りもしなかった。

 1階から、客が入っては出ていく音がにぎやかに聞こえる。

 白石はフィッティングルームのガラステーブルからさっき出してもらったコーヒーを取り上げた。香り高く、苦みと酸味のバランスの良いコーヒーはまだカップに半分残っている。


 白石の、最後の恋にとどめを刺すには十分な量だ。


「山中さん」


 と、白石はもう一度呼び掛けた。白石は耳の後ろを掻き、面倒くさそうな顔つきで振り返った。

 そして、目を丸くする。


 白石はさっき受け取ったSDカードを左手でつまみ、右手でコーヒーカップを持っていた。そのままSDカードを漆黒のコーヒーに落とし込む。


 ぽしゃん、という軽い音がして、白石の最後の恋が沈んだ。

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