第38話 たった十日
俳優の内海は整った顔で明るく笑い、渋い顔をする山中に向かって言った。
「なんだよ、あなた販売員でしょうが。客に売ってくださいよ」
「ショップスタッフだからって、必ずしも客に売らなきゃならないわけじゃない。俺が正価で買えば普通の客じゃねえか」
「屁理屈だ」
若い俳優は笑って、すいと山中に近づいた。相手のパーソナルスペースに踏み込む、無造作な動き。
同じフロアの片すみで山中たちを見るともなく見ていた白石糺には、ピンときた。
こいつら、寝たことがあるな。
キレイな肩と背中をした若い男は、フィッティングエリアにいる白石にはまったく気づかない様子で、少し甘えた声を出した。
「じゃあ、ありがたく“山中善彦セレクト”のコートを買わせてもらいますよ」
「ちっ。このトップスとパンツの山は全部買うのか?」
山中が小山のような肩で、かたわらの服の山をしめした。若い男は軽くうなずき、
「もう選んでくれてあるんでしょう、全部買います。ちょうど秋冬物の入れ替えをしなくちゃいけない」
と、さりげなくほっそりした靴のつま先で、山中の履いている革ブーツのサイドをなぞった。
「助かるよ。山中さんのおかげで来月の“メンズ・レオ”の私服スナップショットで困らない」
「コーディネートは雑誌のスタイリストに頼めよ」
すると若い男は顔をしかめた。
「あのひと、俺と好みが違うからイヤなんだ。山中さん、撮影についてくださいよ。
「だめだ。個人的なスタイリストとしてつくと、他のお客に言い訳が出来ねえだろうが。俺の本職はショップスタッフ。スタイリングはサービスだよ」
あーあ、とぼやきながら、若い俳優はきれいな身体を山中から離した。
「まあ、あのマーブル柄をあなたから ぶんどっただけで満足しようかな」
「返してもらっても良いんだぜ」
「ご冗談。あれほどインパクトのあるコートは、この秋冬のあいだに着たおしますよ。じゃあ、あとでマネージャーが服を取りに来ますから、よろしく」
華やかな笑顔を振りまいて、若い男は足音も軽く階段を降りていった。その後ろを山のような服を持ったスタッフがついて歩く。一階で会計をするのだろう。
あとには、山中と白石が残された。
山中はふうと息をはいてから、大きく伸びをした。
「待たせた。お、うまいほうのコーヒーを入れてもらったな」
白石はまるでアートギャラリーのように美しいフィッティングエリアで立ち上がった。
「おいしいコーヒーだった、ありがとう。ああそうだ、これ。お礼というには、少ないけれど」
といって、白石はコルヌイエのロゴが入った紙袋を差し出した。山中はちらっと白石の手首を見て、
「手首の固定はとれたんだな」
「ああ、少しずつ動かしていいらしい。長い間ありがとう」
「長い間、というほどでもなかったがね」
山中は後頭部をバリバリと掻きながらつぶやいた。視線は、自分の足の大きな靴にあてられている。
山中の足のサイズは29センチ。
食事の好みは和食党で、酒はなんでも飲む。音楽はスタンダードのジャズが好き。なかでもベーシストのロン・カーターが好きだ。
そして、本人は隠しているつもりだが実は左利き。
右で字を書き、箸を持ち、何でもこなすが、とっさの時に先に出るのは左手だ。
人にシャンプーをするときには、繊細な動きでかゆいところに確実に左手の指を届かせる。
たった10日ばかりのあいだに、白石は山中についてそんなことまで知った。
そして白石は、この男を抱きたかった。
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