4「抱かせろよ」

第36話 消しようのない摩擦熱

 白石糺は、電車に乗るのが子供のころから大好きだ。

 いったん乗り込んでしまえば考えごともできるし、新聞や本を読むこともできる。白石は昔から、音楽よりも本や雑誌などの活字に親しんできた。

 今でも通勤電車の中で本をよく読む。短時間ではあれ、別の世界に飛んで行けるからだ。


 だが今日は本や活字を読む気になれなかった。

 白石は駅を出て歌舞伎座のかどを曲がりながら、暗い気持ちを払拭しようとした。


 山中に伝える、明るいニュースはある。

 白石の捻挫をしていた左手首の固定が、ようやく取れたのだ。

 10日ぶりに自由に使えるようになった左手は心なしか細くなり、まだあまり酷使しないほうがいいように見えた。


 少しずつリハビリをしていこう、と白石は思った。

 そして今、道を行く白石の右手にはコルヌイエホテルのロゴが入った紙袋がぶら下がっている。

 中に入っているのは、コルヌイエの人気中華料理店”大観楼たいかんろう”の調味料セットだ。XO醤や花椒ホアジャオなどが入ったギフトで、料理好きな山中にはぴったりだと思えた。


 こんなものでは礼にならないかもしれないが、と考えつつ、白石はドリー・Dの銀座店を見上げた。

 センスのいいビルの一階と二階を使ったショップは、道路ぞいのディスプレイからとてつもなく華やかだ。

 俺には場ちがいなところだな、と白石はビルを見上げたまま思った。


 その違和感は、自分と山中とのあいだにある消しようのない摩擦熱に似ている。

 どうあっても、歩み寄れない二人。

 相手のために我を折ろうという柔軟性を持つには、33歳の白石糺は、かたくなになりすぎていた。

 だから、ここで終わりにする。


 向かい風に抵抗して相手に歩み寄る気力を、白石はとうの昔に失くしていた。

 軽く頭を振り、そのまま思い切って店の中に入っていく。


「いらっしゃいませ」


 一歩店に入ると、品の良いネイビーブルーのニットセーターにベージュのチノパンを合わせたショップスタッフがにこやかに声をかけてきた。


「なにかお探しですか?メンズでございましたら、お二階にございますのでご案内いたしますが」

「ああ、買い物ではないんです。お手数ですが店長の山中さんがいらしたら、白石が来たとお伝えいただけますか」

「言わなくても、分かってるよ」


 ショップ奥の階段から、例の野太い声がした。白石が見ると、山中が190センチの巨体を軽々とはずませて、階段を下りてくるところだった。


「悪いね、店まで来てもらって。瀬戸、こちらさまをメンズのフィッティングエリアにご案内しろ。

 良いほうのコーヒーをお出ししろよ。少し待ってもらわなくちゃならない」


 白石はこわばった顔で笑い、


「ああ、忙しいんでしょう。すぐ失礼をいたします。今日はご挨拶にうかがっただけですから」

「馬鹿いえ、あんたにゃ、やってもらわなくちゃならない仕事がある。前の客が長引いてるから、ちょっと待ってくれ」


 そういうと山中はまた身軽に階段を上がっていった。

 白石はしかたなく、若いショップスタッフの後ろについて二階に上がる。

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