第35話 あたためてくれるひと・温めてあげたいと思うひと

 コルヌイエホテルの優美なレセプションカウンターの中にいる白石の耳には、バックルームにいる後輩たちのおさえた話し声がよく聞こえた。

 とくに井上清春の声は、低くても滑舌がいいのでクッキリと聞こえてくる。


「最近、このインスタをよく見るんです。世話になっている人が始めたものだから」


 へえ、という声のあとに、ちょっとびっくりしたような峰の声が続いた。


「井上さん、こんなの見ているんですか? これブランドショップの公式インスタですよね」

「かっこいいでしょう? おれが、私服でお世話になっているひとのコーディネートなんです」

「ははあ、カッコいいです。しかし井上さんの服のイメージとはちょっと違うような……」


 そうだな、と井上清春は低い声で笑った。


「おれが何を選んでもカカシみたいな組み合わせになるらしいね。だからこの店で一切合切そろえてもらうんです。

 楽ですよ。休みの日は、朝、ハンガーにかかった一式を着ればいいんですから」


 ははあ、と峰はうなった。


「井上さん、ファッション関係は全然ダメなんですか? 意外だなあ。おしゃれな人だと思っていましたよ」

「服を選ぶっていうのはセンスがいるんです。あいにくおれはセンスが皆無なようです。たとえば、これなんかどう思う?」

「良いですね。うん、井上さんに似合いますよ」


 峰が軽くそう答えると、ふう、と井上がため息をついた。


「そう、この組み合わせはおれに似合うそうです。佐江もそういうし、山中さんもそう言う。

 しかしね峰、おれにはどう似合っているのか、さっぱりわからないんです。それにしても、このモデルの男性はきれいな腰をしているな」

「カッコいいですね。スナップショットだからプロのモデルじゃないんでしょうけど、着こなし方が自然ですよ」

「うん……ただこの身体の線に、見覚えがある気がするんだ」

「インスタを投稿している本人じゃないですか? タグだって、“ドリー・D銀座店”ってついていますよ」

「あの人は、もっと大柄だと思うんだがなあ」


 そのまま井上清春は黙り込んだ。峰はわらって


「それにしても、コルヌイエホテルのプリンス、井上アシマネがファッションセンスゼロって、なんだかいいですね。コルヌイエのグループラインにあげてもいいですか?」

「嫌だよ。やめてくれ、峰」


 井上が苦笑しているのが、わずかに開いたドア越しにレセプションカウンターにいる白石にも聞こえた。峰は井上の困惑を気にせず


「井上さん、最近いい感じになってきましたからね。もともと井上さんにあこがれているやつは多いんです。カッコよくて仕事がデキて、しかもカノジョさんはあんなに美人だ。

 後輩の男どもがあこがれたって、おかしくないでしょう」


「なんだ、結局、最後はおれじゃなくて佐江なんですね。さあ仕事に戻るぞ」

「了解です。そうだ、井上さん。今夜は何時までいてくれます?」

「25時までです。それ以上は勘弁してほしいですね。1時半を過ぎると、佐江が寝てしまうんです」

「ラブラブですねえ」

「寝ついたら、起こしたくないんですよ。かわいそうだからね」


 井上の低く、つやのある笑い声がした。


 あいつのベッドにはもう孤独はないんだ、と白石は心底うらやましい気がした。

 そして、白石のベッドは空っぽだ。

 あたためてくれるひとも温めてあげたいと思うひとも、今は遠くにかすんで、よく見えない。


 仕事の終わった白石は、銀座線に乗り、30分ほどの道のりを揺られていった。

“ドリー・D”の銀座店は、歌舞伎座の裏手にある。

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