第31話 俺が見たいと思っているもの

 白石糺はおだやかに笑って、後輩ホテルマンの井上清春を見た。仕事ができて容姿端麗なのに、あまりにも他人を受け入れない男。

 その遠因が、父親との20年以上にわたる確執にあることを白石は知っている。

 そして井上清春の父親は、白石と井上の働くコルヌイエホテルの持ち主だ。


 事情が複雑すぎる。

 しかし白石はあえて物事をシンプルに考えようとした。

 そうでなくても、今の白石の頭の中は混乱しているのだから。


「会長とお前のことはプライベートなことだ。他人行儀すぎると思えるほど、距離を取っているくせに」

「あの親父との仲を今さら修復しようとは思いません。ただ、あっちがおれを放っておいてくれなくて」


 井上の言い草に、白石は明るく笑った。


「そりゃそうだろう。俺が会長だったら、おまえのことを放っておかないよ。たった一人の息子じゃないか。それも、おそろしく出来の良い息子だ」


 白石がそう言うと、井上清春は露骨に顔をしかめた。


「親父のためにホテルマンになったわけじゃありません。おれはコルヌイエが好きだから、ホテルマンになったんです」

「それで正解だ。お前は好きな職場で好きな仕事についている。それで、何が不満だ?」

「不満なんてありません。おれはコルヌイエに惚れていて、このホテルに骨をうずめるつもりです。でもそれだって、先輩なしじゃいやです」


 井上清春の整いきった美貌が、正面から白石を見据えていた。


「今さら、先輩を他のホテルに引き抜かれちゃ困るんです」


 おいおい、と白石は井上清春が言い始めた見当ちがいの話に困惑した。


「俺がコルヌイエを辞める? 引き抜き?」

「だって先輩が眠れないほど悩むだなんて、引き抜きくらいしか考えられないでしょう。困りますよ、今やめられては。

 相手はどんな条件を提示してきているんですか?」


 井上はますます白石に近寄り、声を低めた。


「ポジションですか、金ですか? どっちにしろ、相手の条件よりもいい条件をコルヌイエとしておれが提示しますよ」

「ばか、お前も何を言っているんだ」

「本気ですよ。先輩のためなら、おれはあの親父の前に膝をついてもいい。

 親父を説き伏せて、先輩のポジションでも昇給でも手に入れてきます。おれを信じてください」


 井上の真剣な顔に白石は絶句した。

 なにか答えたいが、あまりにも見当違いすぎる話で、どこから説明を始めたらいいのか分からない。

 とりあえず白石は井上清春の肩に手を置いた。


 見た目よりも、みっしりした肉の厚みを感じさせる肩だ。細身に仕立てたテイラーメードのスーツの下に、井上清春はしなやかなはがねのような身体を隠している。

 今ではもう、恋人ひとりにしか触れさせない美しい身体。

 白石は井上清春の肩に手を置いたまま、静かに言った。


「井上、俺がこの世で本気で信じているのはお前くらいしかいないよ。安心しろ、俺がコルヌイエをやめるわけがないだろう」

「本当ですか?」


 井上はまだ疑わしいという顔をしている。白石はあらためて笑顔を作り


「本当だよ。俺はまだ、俺が見たいと思っているものを見ていないからな」

「先輩の見たいもの、ですか」


 井上が切れ長の美しい目をそばめて、考え込んだ。


「先輩の見たいもの……なんだろう。思いつきませんね」

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