3「キスしか、していない」

第30話 ただの色恋の話じゃない

「先輩、先輩!」


 白石糺は耳もとでそう呼ばれて、はっと意識を取り戻した。

 すぐ目の前にコルヌイエホテルで共に働く井上清春の端正な顔がある。白石は夢からさめたように数回まばたきし、それからようやく答えた。


「ああわるい、井上。なんだって?」

「先輩、もう上がりの時間ですよ。あとはおれが引き継ぎますから」

「そうか。すまない、ぼんやりしていたよ」


 白石がまわりを見わたすと、そこは老舗ホテル、コルヌイエのレセプションカウンター裏、バックルームだった。狭いスペースにパソコン用デスクとパイプいすを置き、備品やファイルが並ぶ棚があるだけの殺風景な場所だ。


 殺風景な場所だが、コルヌイエホテルに入職してすでに11年になる白石にとっては、自分の部屋よりもなじみのある場所だ。

 入職してから過ごした時間の長さから言ったら、自宅マンションよりもコルヌイエのバックルームのほうが長いかもしれない。


 そんななじみの場所でさえ、意識をしっかりととどめておけないほど白石の頭の中は浮遊していた。

 あの男は、いったい何なんだ。


 知り合ってまだ10日ほどしか経っていないのに、すでに白石の頭の中には山中の巨体がどっかりと居座っている。

 白石はぶるっと頭を振り、バックルームのパイプ椅子から立ち上がった。その姿を井上清春が疑わしそうな顔で見た。


「先輩、疲れてきているんじゃないですか。日勤だけとはいえ、連勤はきついんですよ。おれの夜勤ローテは今日で終わります。明日からは峰が引き継ぎますから、明日はおれが日勤をつとめます」

「疲れているわけじゃないんだ。ちょっと、眠れなくて」

「先輩は、けがをする前から眠れないって言っていましたね――何があったんです?」


 井上清春の切れ長の目が、シルバーフレームの眼鏡ごしにじっと白石を見た。


「ただの恋愛話じゃない。そうでしょう? もっと、なにか複雑な事じゃないんですか」

「複雑なこと……か。そうかもしれないな」


 白石がそう答えると、井上清春はすっくりと立ち上がって白石に詰め寄ってきた。


 井上の、トワレの匂いがする。

 柑橘系の爽やかな香り。つけていても他人の気を引きすぎない、控えめながらもするべき仕事をきっちりとする香りだ。

 この香りは井上に似ているな、と白石は思った。


「先輩、おれに出来ることがあれば言ってください。おれだって先輩に世話になったことを忘れていないんですから」

「世話? 俺がお前を助けたことなんてあったかな」


 白石は笑いながらそう言った。

 何をやらせても完璧な後輩は、それだけで白石の支えになってきた。井上清春がいるから白石は長年コルヌイエホテルで働き続けてきたと言っても過言ではない。


 井上はちらりとバックルームのドアをみて、夜勤担当のスタッフがレセプションカウンターにいることを確認した。それから声を低めて


「おれと、うちの親父のことを理解してくれるのは先輩だけです。おれは先輩にだけは何だって言えます。それ以上の助けがあると思いますか?」

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