第22話 11年もかけて、初恋を成就
山中は、夜の路上でうんざりしたように白石糺を見た。
「じゃあ、それでいいじゃねえか。あんたは、理屈がなくちゃシャツのボタンもはずせない男だからな」
「そっちは、1グラムの愛情がなくてもベルトまではずせる男だな」
「セックスに愛情はいらねえよ。つまりは、前立腺の問題だ」
「俺の前立腺は、愛情と直結しているんだよ。あんたとは、宗派が違うんだ」
白石がそう言い返すと、山中は足を止めてバリバリと後頭部をかきむしった。
「めしと風呂の世話に、色恋の主義主張が関係あるか?」
「ない」
「そういうことだよ。あんたさ、面倒なことを考えすぎなんだ」
「初対面でいきなりキスしてくる奴に言われたくないよ」
「あんなもん、挨拶だ」
山中は振り返って
「どうすんだよ、あんたの家に行くのか、俺のところに来るのか」
「どっちも断って、一人で帰るっていうのはどうだ」
「ああもう面倒になってきたな」
そういうと、山中は白石のカバンを持ったまま勝手に歩き始めた。
「おい、俺のカバンを返せよ」
「欲しけりゃ、取りに来い。朝までここでしゃべっているつもりはねえんだ」
「……めしは何が出る?」
「がめ煮、精進揚げ、小松菜のおひたし」
山中が言うメニューを聞いて、白石は思わず言った。
「あんた、九州のひとか」
「いいや」
「このあたりの人は“がめ煮”なんて言わない。
「昔付き合っていた男が、福岡のやつだったんだ」
「……うまい、がめ煮か?」
「うまいよ。俺は料理が趣味なんだ。その話、井上君から聞いてねえか」
「いや、なぜだ」
「井上も、料理はプロはだしだぜ。岡本は料理が全然ダメなんで、井上君が作って喰わせている」
「へえ、知らなかったな」
白石はついさっき夜勤の仕事を引き継いだばかりの、美貌の後輩を思い出した。
ほんのりとエルメスのトワレの香りを漂わせた井上清春は、端正な顔つきに満足げな表情を浮かべて、夜勤につくべくふたたび出勤してきた。
白石はふと、どうでもいいことを口にした。
「あいつ、今日はトワレが違った」
「ふん?」
「いつもより、しっとりとした匂いで……ちょっと柑橘系とジャスミンが入っているような匂いだ。いつもの匂いと似ていたんだが」
ああ、と山中は駅に向かって足早に歩き始めながら笑った。
「そりゃ“李氏の庭”の匂いだろ。岡本が使っているトワレだ」
「“李氏の庭”」
あのヤロウ、と山中は巨体を軽々と運んで、かかと笑った。
「出勤ギリギリまで岡本と寝ていやがったな。岡本の匂いを付けたまま、一晩じゅう仕事したかったんだろう」
ぶわっ、とまた白石の顔が赤くなった。
それを見て山中が笑う。
「あんただって、身に覚えがあるだろう? 惚れた相手の香りを皮膚の上に乗せて、シャツの中に仕舞い込んじまうんだ。
それでしばらくは、恋しい気持ちをなだめられる」
「そういうのってうらやましいな」
「ああ、うらやましいほどの愛情だよ」
ぽつっと山中が言った。
「あの男はな、11年もかけて初恋を成就しやがったんだ。なまなかの男に出来ることじゃない。筋の通ったいい男だぜ」
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