第20話 “山中”

 井上清春は、暗くて狭いホテルのバックルームで、にやっと笑った。こんな場所でも井上の美貌は欠けるところがない。まるで月が輝くようにきれいな男だった。


「佐江と一緒にいた男性……ああ、山中さんですね」

「やまなか……」

「おもしろい人ですよ、ひょうひょうとしていましてね。佐江の上司に当たる人なんですが、今はおれもよくしてもらっています」

「ああいう仕事も大変なんだろうな」

「見た目以上に体力勝負なんだそうです。立ち仕事ですし、接客で気を使いますしね。佐江も、たまに足をぱんぱんに腫らしていますよ」


 へえ、と白石は井上をまじまじと見た。


「あの、きれいな人がなあ」

「佐江は脚のラインが絶品なんですよ。足首からふくらはぎに向かってマッサージしてやると、足のつま先がピンと跳ね上がりましてね」


 井上清春の切れ長の目に、とろっと甘いつやがたまった。すさまじい色気が目元にあふれる。


「井上、もうよせ。鼻血が出そうだ」

「ああ、すみません。独り者の先輩には申しわけない話でしたね」


 井上は笑って立ち上がり、


「では、今日いったん帰って夕方に戻ってきます」

「通常の夜勤入り時間じゃなくていいぞ、井上。23時の“入り”でいい。おれが夜までいるから」

「ほんとですか? 助かります。16時入りだと、ちょっと急がないと間に合わないと思っていたんですよ」

「なんだ、やっぱり用があったんだな。すまない」


 白石が謝ると、バックルームのドアの前に立った井上が振り返ってにやりと笑った。


「謝罪は、佐江にしてもらいましょうか。これから夜まで、おれにさんざん付き合わされるんですから。なにしろこの先の2週間分をまとめてやりますからね。

 明日はあいつ、まともに立てないだろうな」


 それを聞いて、ぶわっと白石の顔が赤くなった。

 井上清春が明るい笑い声を立てる。


「前から思っていたんですが、先輩って純情ですよね」

「お前に、色気がありすぎるんだよ」


 とんでもない、といって井上は言った。


「おれのカラダはもう佐江専用ですよ。他の女じゃ、役に立たないんです」


 ぱたん、とドアを閉めて端正な男は去っていった。

 白石はため息をつく。


「“山中”ね」


 昨夜寝たかもしれない男の名前を、白石糺はようやく手に入れた。

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