第11話 井上清春が唯一、身体と心を開いたひと

 山中は“ユリ”の小さなカウンターでグラスの焼酎を飲み干し、小皿のホタルイカをつまんでうなずいた。


「昔は俺が上司だったが、今はもう岡本が出世しやがったから同僚だ。岡本は俺の下について仕事を覚えたんだ。十年以上も昔のことだが、俺にとっても岡本にとっても楽しかったよ」

「へえ。先輩・後輩の仲か」

「あいつが俺のすぐ下に入ってから、もう9年になる。考えりゃ長い付き合いだな」

「9年……長いな。彼女は、初めからあんな風だったのか?」

「あんなふう?」


 うん、と白石はうなずいた。


「仕事ができて、おだやかで。他人に対して繊細な心づかいができる人だ。なによりも“黙っていたほうがいい時に何も言わずにいられる”っていうのは、女性には稀有な才能だな」


 山中は分厚い肩をすくめた。


「あいつは昔から、底が知れねえ女なんだ。ひょっとすると俺以上に何もかもを知っているにもかかわらず、黙っているんじゃねえかって思う時があるよ」


 それから山中は掌中のグラスの最後の一滴まで飲み干した。


「そういうところはなあ、おたくの井上君とよく似ているんじゃねえか」


 ぴく、と白石の丸っこい指が飛びはねた。


「井上のことも、よく知っているのか?」


 まあなあ、と山中は白石の前の小鉢に箸を突っ込んだ。たちまちホタルイカとヌタが消えてゆく。


「あの男、仕事ではキレッキレのくせに服のセンスはてんでダメだからな。岡本もあれこれやっているようだが、最近は井上君がひとりでうちの店に来る。ここ何ヶ月か、井上の私服はだいたい俺がコーディネートしているんだ」

「私服ね……俺は井上のプライベートなかっこうなんてみたことない」

「そうか。一度見てみろよ。もともとが良い男だから、ちょっと手を入れてやっただけで目がさめるような男になったぜ。

 あれでもうちょい欲があれば、二丁目の売れっ子にしてやるんだがなあ」


 げほっと白石はむせた。


「いの……井上は、まったくのノンケだぞ」

「知ってるよ」

「ノンケどころか、かなりの女好きだ」

「女好きかなあ。あれは、オンナがのほうが井上君を好きなんだろう。あいつはそれほど女が好きなわけでもねえ気がするがな」


 白石は、山中の言葉で目が覚めたような気がした。


『あいつのほうはそれほど女が好きなわけでもねえ気がする』


 これほど井上清春の本質をみごとに言いあてた言葉を聞いたのは、初めてかもしれない。

 女が好きか、男が好きかという話ではない。

 相手が何者であれ、井上清春という男は他人に対する距離感がとほうもなく遠いのだ。


 これまで、井上が自分の内に入るのを許した人間は、おそらく異母妹の渡部真乃わたべまのと、子供のころからの親友であるバーテンの深沢洋輔だけ。

 そして今は、恋人の岡本佐江だ。


 血のつながりのある異母妹と同性の親友を別にすれば、井上清春が唯一、身体と心を開いたのは岡本佐江だけだ、ということになる。

 では、岡本はいったいどんな魔法を井上に対してふるったのか。

 白石にはなんとなくわかるような気がした。


「以前、さ」


 と白石はシソの爽やかな香りのする焼酎を、白っぽい蛍光灯の明かりに透かして見ながらつぶやいた。


「以前、井上と岡本さんと3人で、ここで飲んだことがあるんだ」

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