第9話 唇だけは知っている

 岡本佐江は、朝の高級ホテルのロビーで優雅に笑った。


「そうなんです、海外からいらっしゃっているお客様がコルヌイエにお泊りなので、こちらで打ち合わせをさせていただきます。ああ、白石さんにうちの安西を紹介させてください。今後は打ち合わせでたびたびお伺いすることになりますから」


 そう言うと、岡本佐江は隣に立つ小柄な若い女性を紹介した。

 ぺこっと頭を下げて名刺を差し出した若い女性は岡本佐江の優雅さにはほど遠いが、じゅうぶんに愛らしかった。


「ドリー・D八越店の、安西翠あんざいみどりと申します」

「安西はこの秋のレセプションパーティの担当をいたします。こちらのバンケットルームをお借りいたしますので、よろしくお願いいたします」


 ほう、と白石は感心した。


「この若いのにレセプションパーティの担当ですか。期待の若手ですね、岡本様」


 岡本佐江はにこっと笑った。花が咲くような、あでやかな笑顔だ。


「安西は腕ききの販売員なんですが、パーティの担当は初めてなんです。みなさまのお力添えでなんとか成功させたいと思っております」

「“なんとか成功”じゃあダメなんだって、いつも言ってるだろ、岡本」


 ずいっと野太い声が聞こえて、岡本が優雅に身体をひねった。ロビーを大股で歩いてきた男は、笑っているような大声で岡本佐江に言った。


「ドリーが世話んなっているデザイナーの旗艦店きかんてんオープンだ。失敗したらドリーの顔が立たねえ。うちのブランドのパーティ同然に力を入れろよ」

「それなら先輩が担当なさればいいじゃないですか。うちは安西を取られるだけでも、痛手なんですよ」


 岡本佐江は笑ったまま、それでもするどく男に抗議をした。男は岡本に言われたことなどまったく頓着せずに小柄な安西の方を向き


「通常業務のすきまに、ちっとばかりパーティの仕事をしたって罰は当たらねえよな、安西?」

「冗談ですよね、山中店長。この仕事のせいで八越店の売り上げが落ちたらどうしてくれるんですよ。あたしのボーナスがかかっているのに」

「パーティが成功したら、特別ボーナスをやるように本部長に掛け合ってやる。機嫌直せよ、な?」


 男は肉の厚い手のひらで、ぽんぽんと安西の頭をたたいた。


「それじゃ、いくか。ん、ガーデン棟ってのはどこにあるんだ?」


 こちらです、といつの間にかレセプションカウンターの横に立っていたダークスーツ姿の井上清春が、三人を誘導すべく先に立つ。それからふとレセプションカウンターを振り返り、


「こちらさまをガーデン棟までご案内いたしますので、しばらくレセプションをお願いいたします」

「りょうかい、いたしました」


 茫然としたまま白石は答える。その声に反応したかのように、最後にやってきた男がレセプションカウンターをみた。

 男の大きな瞳がきらりと光る。


 あの男だ。

 巨大な体躯を持ち、温かくて柔らかい唇をそなえた男。

 白石糺は、この男の名前を知らず住所も職業も知らない。しかし唇だけは知っている。


 ごくりと自分が唾をのむ音を、あの巨大な男に聞かれた気がした。

 白石がそう思った瞬間、まるで内心の動揺が伝わったかのように巨大な男がちらりと顔を向けた。

 肉の厚い表情が、にやりと笑っている。


 白石は無意識のうちに自分のネームプレートをまっすぐに直していた。


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