第5話 この狭い箱の中じゃ、何にも出来ねえから

 柔らかい男の唇が、白石糺の口に乗っている。

 大きな男のキスは、白石がこれまでにした無数の男とのキスに似ているようで、しかしどこかに“ここでしかできないキス”の気配を濃厚に含んでいた。


 男のつけている、トワレが香る。

 まるで水のように爽やかな香りが、白石のスーツに染み込んでいった。

 ぽん、とエレベーターの到着を告げる電子音が聞こえ、白石糺ははっとした。あわてて身体を、男からはなす。小山こやまのような大きな男から離れるとき、白石の身体はきしむような悲鳴を上げた。


 もっとふれていたい。

 もっと温まりたい。

 このキスの、先が知りたい。

 しかしキスを終えた男は、白石が茫然としているうちに勝手にエレベーターに乗り込み、にやりと笑った。


「わりいね、ちょいと、酔っぱらっているもんで」


 そして、ドアが閉まらないようにボタンを押して白石を待っていた。

 白石はあわててエレベーターに乗り込み、ゲストの代わりにフロアボタンを押した。

 ゲストの目の前で身動きも取れなくなるとは、どういうことだ。

 ホテルマンにあるまじき失態に、白石は自分自身をしかりつける。

 そんな白石の内情を知ってか知らずか、エレベーターの中でも男はのんびりとフロアボタンが点滅するのを眺めていた。


 白石のダークスーツを着た背中が、ひくひくする。背後から伝わる男の体温に反応しているのだ。

 くそ。これ以上何かあったら、おれはもうホテルマンとしてやっていく自信がない。


 白石は、熱の集まりつつある自分の下半身から必死に意識をそらそうとした。

 エレベーターが落ちてゆくのが、いらだつほどに遅く感じる。

 白石の吐いた息の音がもれたとき、男の声が背後からそっと聞こえた。


「安心しなよ。この狭い箱の中じゃ、何にも出来ねえから」


 ずくん、と白石の下半身が、明らかな意思をもって立ち上がってしまった。



 ★★★

 深夜であっても、巨大な老舗ホテルであるコルヌイエのレセプションカウンターには必ずスタッフがいる。

 白石は謎のホテルゲストを連れてカウンターにむかい、部下にチェックインの手続きをするように指示した。


 そして自分はなめらかな動きでカウンター裏のバックルームに入る。

 バックルームのドアを閉じてから、白石はどさっとパソコンデスクの椅子に座り込んだ。


 耳の奥で何かがジンジンと鳴っているのが分かる。

 自分の唇の上に、まだあの温かくしっとりした唇が乗っている気がする。

 しかし白石の指先は冷静にパソコンをあやつり、深夜の突然のゲストのために客室の用意をした。


 さっきの客室のカテゴリーはクラブフロアだった。しかし今度の部屋はクラブフロアほどの上級カテゴリーである必要はなく、ツインである必要もない。

 コルヌイエホテルにはシングルルームの設定はないので、セミダブルの空き室を探す。


 白石の指先と目はやり慣れた仕事を手早くこなしていくが、耳の奥はジンジンと鳴りっぱなしだ。

 唇が、温かい。

 あのとき唇ごしに伝わった男の体温は、するりと白石の中に入り込み、身体の中に逃れようのない熱をともしていった。


 あのキスを腰骨の上に受けたいと白石が思ったとき、カウンターでのチェックイン手続きを終えた部下の西川安奈にしかわあんながバックルームに入ってきた。


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