第4話 ‟三十六計、逃げるにしかず”
ベテランホテルマンである白石は、深夜のホテルの廊下にあっても穏やかな声を出せた。しかし、内心では疑心暗鬼になっている。
今日チェックインしたのに、荷物もないゲスト?
“スキッパー”か?
白石はにこやかに笑いながら、目の前の大きな男の様子を探った。
コルヌイエホテルのような高級ホテルであっても、宿泊代を払わずに逃げる客がいる。
“スキッパー”と呼ばれるものだが、手口の一つとして、客室内に宿泊用のバッグだけをおいて外出したまま戻らないのだ。もちろんバッグの中身はゴミ。
十七年のホテルマン生活の中で、ありとあらゆるゲストに遭遇してきた白石は、にこやかな表情を崩さずに、目の前の男に尋ねた。
「お荷物はございませんか?しかし本日はご宿泊だったのでは?」
ああ、と男は野太い声でのんびり答えた。
「“ご宿泊”なんだがな。俺はどこに泊る時でも、クレジットカード以外は持って歩かねえんだ」
「それはまた、身軽ですね」
白石がそう言うと、男は顔をかたむけてニヤリとした。
「そうさ、時には身軽さが大事だからな」
「さようですか」
「とくにさ、浮気がバレて半殺しにされそうなときは、逃げるにしかず、だろ?」
「賢明なご判断です」
白石は、何ごとでもないような顔でエレベーターのボタンを押した。地上1階はコルヌイエホテルのメイン棟レセプションカウンターがあるフロアだ。
なあ、と隣で笑っているような声がする。白石が見ると、巨大な男はパンツのポケットに肉の厚い手を突っ込み、白石に向かって笑っていた。
「ホテルマンってのは、いつ何を言われても、何でもねえって顔をしてんのが仕事かな」
さようですねと答えつつ、白石はちょっと首をかしげた。
「なにがあっても、ゲストに余計な気を使わせないのがホテルマンですから」
ははあ、と感心したように巨大な男がつぶやいた。
「たいしたもんだな。だからあいつも、ああなのか」
男のもらした“あいつ”という言葉に、白石の耳は敏感に反応した。
これほど人好きのする男に“あいつ”と呼ばれるほど親しいとは、さぞかし幸せなひとだろう。
エレベーターがゆっくりと上がって来る。
白石と並んで点滅するフロアナンバーをながめつつ、男はまったく関係のないことを言い始めた。
「なあ、こういう場所は防犯カメラがついているもんだろう?」
「はい、ついております」
「ってことは、あんたたちは四六時中、監視されているようなもんだ。そういうのって、気にならねえのか」
「そうですね……気にしたことはございません」
白石は会話の行先がわからなくなり、男の顔を眺めた。
目も鼻も口も大ぶりで、あけっぴろげな表情の男は、両手をポケットに突っ込んだままフロアナンバーの点滅を子供のような目つきで追っている。
「俺は気になるなあ」
「防犯カメラが、でございますか」
白石が警戒心を抱きながらさりげなく尋ねると、巨きな男は、うんとうなずいた。
「しかしまあ、なんだな、角度によっちゃ、あんたの顔は映らねえだろう」
「どういう意味でしょ――」
と、言いかけた白石の言葉は、最後まで出てこなかった。
しっとりとした大きな唇が突然ふり落ちてきて、白石の口をふさいでいたからだ。
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