第3話 「荷物なんか、ねえ」

 コルヌイエホテルは都内有数の高級ホテルだ。昼間はシックな内装がふるえるほどにゲストの活気に満ちている。

 しかし夜になるとその姿は一変する。

 静謐さがあふれ、まるで都心のなかの神殿のようだ。そして白石は、この時間帯のコルヌイエホテルがいちばん好きだった。


 ゆっくりと夜の見回りのために深紅のカーペットを敷いた客室棟の廊下を歩いていて、白石糺しらいしただすはふと、数メートル先にこんもりした小さな山ができているのに気がついた。

 白石の足取りが、ゆっくりになる。


 深夜のホテルの廊下で出会う違和感には、必ずトラブルの予感がつきまとう。

 白石は無意識のうちにホテルマンの戦闘服でもあるダークスーツの襟元を正して、照度の低いホテルの廊下の奥をじっと眺めた。


「お客さま? いかがなさいましたか」


 ん? という声が、小山からもれた。

 ひくく、温かみのある男の声はのんびりとしていて、白石が拍子抜けするほどだった。


 だが、おかしい。

 今は深夜2時で、まともなゲストなら客室のきれいに整えられたベッドで寝息を立てているはずだ。


「お客さま、ご気分でもすぐれませんか?」


 白石がそう言ってひざを折り、小山の脇にしゃがみこむと、と小山が動いた。


「ああ、わりいね。ちょっとまあ、痴話げんかってやつだ」

「さようですか」


 いついかなる場合でも、ゲストに対しては冷静かつ温和な表情を保つことを叩き込まれてきたホテルマンの白石は、温和な微笑のまま、“小山”を見上げた。


 おおきい。


 大きな男が、深夜のホテルの廊下にすっくりと立ち上がっていた。

 白石も身長は180センチちかくあり、決して小さな男ではないが、この男はさらに大きかった。190センチ以上あるのではないか。

 しかし、男の巨きさを感じさせるのは身長ではなかった。


 広い肩まわり、がっちりと筋肉がついた上腕二頭筋。いつでも飛び出していけるような瞬発力を秘めた腰が、男を巨大な肉食獣のように見せていた。

 そして圧倒的な存在感を、シックでセンスのいいシャツとパンツで包んでいる。


 男は、深夜2時のホテルの廊下でありながらまるでパーティから抜け出してきたような陽気さをまとっていた。

 巨体をひねってちらりと背後の客室のドアを眺めたかと思うと、男はガリガリと頭をかきむしってつぶやいた。


「まいったな」

「なにかお役に立てますか」


 白石がそういうと、男ははじめて白石に気がついたように、まじまじと全身を見た。


「おたく、ホテルの人?」


 はい、と白石はおだやかにうなずいた。


「いかがなさいましたか」


 ああ、その、と大きな男はまたしても後頭部に手をやった。


「その、なんだ、連れに締めだされてね。中から鍵をしめられた。俺も飲んでいたもんで、つい面倒になってここで寝ちまったよ。なあ、こんな時間からでも部屋を借りられるかな」

「……もう一部屋、別の客室をですか?」


 うん、と男は大きく伸びあがり、それから白石に向かってにやりと笑った。

 白石が、ごくりと唾をのむ。

 まるで大型のネコ科の獣にぺろりと顔を舐められたような気がしたのだ。


「こんな時間だ。今さら部屋の中にいるやつを起こすのも面倒だし、あいつカンカンに怒っていたから、何を言っても開けてくれねえ気がするし」


 くすっと、白石は笑った。

 妻もしくは恋人とケンカして締めだされたにしては妙に明るくて、本人はまったく気にしていないところがおかしかった。


「客室はご用意できますが、お荷物はいかがなさいますか。お部屋に置いたままなのでは?」


 白石が尋ねると、巨きな男はゆるやかにエレベーターに向かって歩き始めながら平気な顔で答えた。


「いいんだ。荷物なんか、ねえ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る