魔法使いの選択(3)
現場である宇利崎製作所は、異様な雰囲気に包まれていた。
町工場に毛が生えた程度の規模だが、その広くはない敷地が今は騒然としている。
無数の警察車輌が取り囲み、多くの捜査員たちが行き交い、マスコミや野次馬たちを警官隊が牽制している喧騒の光景。
それだけならば当たり前の現場風景なのだが、空気の張り詰め度合いがあまりに違う。
現場を取り囲む喧騒はいつにも増して激しくざわめいているのに、それとは逆に、現場内で調査に当たっている者たちは不穏なまでの静けさ。
捜査員たちはみな一様に黙り込み、思案げに表情をしかめている。
「……何があったんだ?」
険悪な空気に、黎斗が思わず呻く。
「ここの作業場内にて、九名ほどの射殺体が見つかったみたいです」
背後に控えた紫が吐息まじりに応じる。
九人分の死体。
しかも銃で撃たれているとなれば、確かに大事件である。現場の空気が張り詰めるのは無理もない。
だが、何だろう?
捜査員たちの様子は、そういう真っ当な緊迫感とはズレている。
どこか浮き足だったというか、まるで狐につままれたような……とでもいおうか。
そんな異質な雰囲気の中、夏輝たちの前に立ち塞がったのは椰子木剣一刑事。
「やっぱりきやがったか。中には入れねえぞ」
建物入り口に陣取った彼は、厳格な無表情でそう告げた。
やっかいな相手だ。
あるいは、黎斗が受け取った告発状やメールのことを伝えれば、協力してもらえるかもしれないか?
いや、規則に厳しい椰子木ではそれも難しいか?
保護はされても、探偵行動への協力はしてくれないだろう。
何にせよ、説得しなければ始まらないと歩み出た夏輝だったが──。
「いえ、入ってもらいましょう」
あっさりと許可したその声は羽間里警視。
「あ? どういうこったハマ」
いぶかしげに振り向いた椰子木の肩ごし、痩身のエリート警視は眼鏡を不穏に光らせて溜め息を深くこぼす。
「鑑識の検分結果はセンパイも聞いたでしょう。どう思いました?」
「どう……って、そりゃあ……イカレてるとしか、言えんだろう。現状じゃあな」
「そう、イカレています。ですが、それが鑑識の科学的検分の結果です。ならば、イカレているのが鑑識結果なのか犯行内容なのか、科学捜査以外の見知から調べてもらうのも悪くはありません。いわゆる〝専門家に協力を依頼する〟というやつですよ」
「あ? あのな、だったら科捜研でも大学の偉いさんでも好きに呼べばいいだろうが。何でわざわざこのガキどもを駆り出す必要があるんだよ」
「センパイ、良く見てくださいよ。朝凪さん、せっかく立ち直ろうとしているみたいじゃないですか。だったら、人生の先輩として少しは後押ししてあげましょうよ」
「何だその雑な詭弁は、オレぁ殺人事件にガキを関わらせるのが問題だってんだ」
「ああもう、センパイは学歴あるのに基本的に鈍いんだから……」
「オマエ……」
「つまりセンパイは鈍感ですねってことですけど」
「繰り返さんでも伝わってる!」
「伝わってませんよ。いいですか……」
椰子木の耳元に何事かを囁く羽間里。途端、椰子木はこの上もなく不本意そうに舌打ちを鳴らして道をあけた。
「さ、どうぞ朝凪さん」
羽間里にシニカルな笑みで招き入れられ、夏輝たちは建物内に入っていく。
その様子を面白くもなさそうに睨んでいる椰子木。
先導者のくせに一番最後に位置取っていた羽間里だが、それはわざと夏輝たちから距離を取ったのだろう。
椰子木の前を通り過ぎざま、極力ひそめた声音で謝罪する。
「こらえてくださいよ。言ったでしょう? これでボロを出してくれるなら幸いです」
「うるせぇよ。オレは頭悪ぃからな。そういうお利口さんの理屈はわからねえ」
椰子木は心底イヤそうに、それでも、ちゃんと小声で吐き捨てた。
現場の作業場内には未だ濃い血の臭気が満ちていた。
鑑識の持ち込んだ照明器具によって照らされた場内には、白い枠線で描かれた人型が点々と。検分に当たった鑑識員たちの姿は見当たらない。
いや、正確には、ひとりしかいないのだ。
「遺体はすでに運び出しましたが、それ以外はほぼ発見時の状態ですよ」
羽間里の説明に、だが、夏輝はそんな現場そのものの状態よりも、そこにたたずむ人物の方に注視していた。
鑑識の青い制服に身を包んだ、ズングリと丸い影。
左近勇馬。
彼は入り口からやや中央寄り、現場全体を見回せる位置に立ち、小刻みに拳を震わせていた。
怒っている? それとも泣いている?
否、これはどちらでもない。
「やあ、朝凪さん。見てくれよ、この素晴らしい犯行現場を……!」
芝居がかった手振りで周囲を示しつつ、肩越しに呼びかけてきた彼、その貌は、確かな歓喜に満ちていた。
あたかもそれは、素晴らしい芸術を目のあたりにして感極まった姿。
「……いったい、どうしたんですか?」
いぶかしむ夏輝。
黎斗や紫などは露骨に奇異な視線を向けて、身内の羽間里でさえも苦い笑みを浮かべている。
だが、当の左近はそんな外野の様子など知ったことかとばかりに、両手を広げて夏輝に向き合い、力強く語り出した。
「見て、感じてくれ、朝凪さんならわかるだろう? ここで何が起きたのか、ここで行われたことが、いかに凄まじい犯罪なのかが!」
期待と確信とを込めて詰め寄ってくる左近。
その穏やかならぬ勢いに紫と黎斗が阻もうと動くが、夏輝はそれを後ろ手に制しつつ、左近の双眸を真っ直ぐに見返した。
感動に濡れ、歓喜に噎ぶ表情…………だが、それだけだ。
そこに狂気は感じられない。
彼は正気のまま、率直に感激しているだけのようだ。
「あなたは、わたしの能力を承知しているのですか?」
夏輝の問いに、左近はキッパリとうなずいた。
「当然さ。言ったろう? 俺は朝凪さんの大ファンなんだ。それに、朝凪さんの捜査する姿を見た連中はみんな薄々勘づいてるよ。しょっちゅう無理して意識飛ばしたりしてたからね。名探偵というより霊能者だって……でも、それが何なのさ!」
重要なのは、颯爽と、鮮やかに、謎を解き明かす姿。
その点において〝探偵少女・朝凪夏輝〟は完璧なヒロインであったのだと、左近は真摯に真剣に言いきった。
「だから、立場上問題発言なのは承知で言わせてもらうけれど、正直、俺は今回の一連の事件に感謝さえしているよ。消沈していたキミが、こうして事件に関わってくれているんだから」
「…………それは、確かに問題発言ですね」
睨み返せば、左近は悪びれもせずに微笑で受ける。
夏輝は深呼吸をひとつ。
静かに意識を研ぎ澄まし、思考と感覚とを重ねていく。
知覚逆算。
過去を読み取る異能。
否、松雪によれば、それは異能ではなく奇病。
五感で感じ取った外部情報が処理されていく課程を、意識で捉えてしまうがために起こる記憶障害であり、過去を知るように感じるのはその副次的作用だという。
常から発動し、時に発作的に強く作用しては夏輝をさいなむそれは、意識で抑え込むことは困難だが、解放する分には造作もない。
つまり、読み取る分には、一応は意図的に行使できる。
耳に聞こえている音が、肌に触れる感覚が、鼻孔に届く匂いが、思考に浮かべたそれらとの境界を失っていく。
思考が五感の刺激と溶け合うそれは、主観的には感覚がクリアになるような錯覚。
飛び散った血の状態が、流れた経緯を指し示す。
場の湿度、気温、それがもたらした血の変色と凝固により、時間経過が算出されていく。床にたまった埃、微かに漂い舞う硝煙の名残、壁の弾痕。配管をかすめた擦過痕は跳弾の痕か──。
この場所が、いかにしてこうなったのか。
その軌跡が、残影が、組み上げ再結合されて、夏輝の脳裡に展開していく。
それはあたかも時が逆回しに流れるように、無彩色の経過情景として意識に流れ込んでくる。
白枠で区切られた九体の人影がふわりと起き上がる──。
手に手に銃を構えた姿勢を取りながら、それぞれの身体から飛び出した光の線が、場内を鋭角に乱反射していく──。
それは被弾から発射までを巻き戻して描いた銃弾の軌跡──。
無数に空を走る複雑な殺意の軌跡の中を、ひとつの影が動いている。
軽やかに、平然と、飛び交う死の軌跡の隙間を縫うように……否、走る光線の先をかすめて誘うように、そのただひとりだけ白で縁取られていない影は舞い踊る──。
ぐらりと、片隅に舞い上がった埃は誰かがへたり込んだのか──。
全ての軌跡がそれぞれの銃口に帰還し、白く縁取られた九つの影が手にした凶器を下げた時──。
ただひとり縁取られていない影は、場内の中央……つまりは、ことの最初にたたずんでいたであろう場所に立つと、ゆるりと静かに、こちらへと向き直った。
途端、ただの影だったその姿は、レインコートをまとったあの姿にすり替わる。
目深にかぶったフードの下、目も鼻も口もないのっぺらぼうの顔。
それなのに、ハッキリと夏輝を見つめているのだと感じ取れた。
まるで未来の今、ここで過去を読み取る存在を承知しているかのように、そいつは朝凪夏輝を真っ直ぐに見つめて────。
いや、真っ直ぐではなかった。
少し戸惑うように、所在の見当をつけて探るように、その視線が揺れている気がする。
やがて世界が色彩を取り戻した途端、夏輝の意識はぐわんと揺れた。
痕跡さえ残っているのなら、それを読み取ること自体は困難ではない。
生物の感覚器と、脳が持つ情報処理能力は、本来、とても優れたものなのだ。
……だが、その膨大な処理に肉体機能が耐えられない。
だからこそ、脳は情報を意識の外で規制し、制御するのである。
夏輝は逆算の異能を完全に抑え込むことはできていないが、行使する分には意図的に可能。
ただし、それは肉体の負担を無視する限りだ。
ドクンッ! ──と、激しく脈動した動悸。
大きく嘔吐いた夏輝は、喉まで込み上げた鉄の味をどうにか呑み込んで膝をつく。
「おい! どうした!?」
「夏輝お嬢様!」
慌てて駆け寄った黎斗らに支えられながら、夏輝は懸命に呼吸と動悸を抑えつつ身を起こした。
脂汗に濡れた表情、その苦悶の中に、理解による驚愕を見てとったのだろう。
場内の中央、あの不穏な人影がたたずんでいたその場所で、腕組みした左近はとても楽しげに、そして満足そうにうなずいた。
「わかったかい? 犯人が、どうやって九人を殺したのか」
どうやって? バカな……どうやったかなどわかるわけがない!
「バカげている……」
思わず毒突いた夏輝。
何が起きたのかはわかった。
だが、どうやったらこんなことができるのだ? 何をしたらこんな結果を作り出せると左近は言うのだ?
夏輝は、読み取ったこの場の経過情報の不可解に歯噛みする。いや、不可解ではないのだ。それは見たままに歴然と確実なのだ。
だからこそ、夏輝は歯噛みせずにはいられない。
状況を理解できぬままの紫と黎斗。
その狼狽を見かねたのか、後方の羽間里が解説をはじめた。
「鑑識の結果だけを答えさせてもらえば……。九人の死因はみな、銃撃による失血死、及びショック死。全員が銃器で武装しており、遺体に撃ち込まれた銃弾が、それぞれの持つ銃から放たれたものであることが施条痕などにより判明しています。そこの机に置かれていたノートPCには、某金融機関を襲撃する計画書らしきデータが残されていました」
「あらら、決行前に仲間割れってことです?」
「…………」
黙して眼鏡の位置をととのえる羽間里が浮かべたのは、いかにもつまらなそうな冷笑。
そこから先は、バカらしくて話したくないとでもいうように。
「仲間割れの果てに撃ち合った……というのは違うだろうね。九人は、九人がみんな、自分の手にした銃から放たれた弾丸を受けて死んでいるんだから」
解説を引き継いだのは左近のキザな言い回し。
「かといって、怖じ気づいて集団自殺ってのもハズレだ。弾頭の歪みや場内の弾痕から、九人の被弾は跳弾の結果だと判明しているからね。彼らは互いに撃ち合ったのでも、自分を撃ったのでもない。彼らはただ、突如現れた
彼は机上のノートPCを操作し、中のメールデータのひとつを表示させて見せる。
〝……2016年7月5日の殺人を、〝魔法使い〟は赦さない……〟
それは予想通りというか、案の定というか、件の告発状と同様のもの。
「敵……って、つまり〝魔法使い〟か?」
「さあね。ともかく、その敵は、こうしてこの場所に立ち、全員の銃口を一身に向けさせた上で、その射撃のタイミングと、弾道を巧みに誘導し、それぞれの銃弾が射手自身に跳ね返るよう立ち回ったのさ!」
感極まったままの説明は、それでも簡潔にわかりやすく、しかし、だからこそ一同は怪訝に首をかしげた。
九名の人間が放つ銃弾を誘導する?
しかも射手に跳ね返るようになどと。
映画や漫画じゃあるまいし、現実にそんなことができるわけがない。
「どうやって、そんなことを?」
「そんなのは知らないよ。ただ、この場に残った痕跡がそう示しているんだ。そうだろう朝凪さん。なあ、朝凪さんには観えたんだろう? まるで、弾道を予知しているかのようなこの犯人の凄まじさが!」
左近の興奮した呼びかけに、夏輝は無言のまま。
地面に残った痕跡は、犯人の立ち回りが決して超人じみたものではなく、ごく普通の所作であったことを示している。ヒビや破損、強く踏み締めた形跡すらない。
何らかの特殊装備で銃弾を弾いたり、防いだりしていたわけでもないだろう。
実際、そんな小細工をする必要はなかったのかもしれない。
「銃に残った弾数、遺体や周囲への着弾数、空薬莢の数にも矛盾はないよ。そもそも朝凪さんなら、どこからどう撃ったのかまで読み取れてるんじゃないの?」
左近の指摘の通りである。
この現場で犯人がとった行動は、単純にして明快。
……入り口から入ってきて、まず中央に立ち、作業場内をグルッとひと回りして出ていった……それだけである。
ならば痕跡もハッキリと、そして、だからこそ細工や仕掛けが施されていないことも歴然と感じ取れている。
それでいて、立ち回ったルートと、倒れていた遺体や弾道の交錯線は実に絶妙にリンクしているのだ。
犯人は九人の銃撃を誘導し、その上でそれぞれに跳弾で返した。そうとしか読み取れない。
道理で、捜査員たちが不可解そうなはずである。
「そもそも銃弾って、避けれるもんなのか?」
黎斗の疑念に、傍らの紫は「そうですねぇ……」と、思案げにこめかみをつついた。
「銃口の向きとかから弾道を予測して避けるという技術はありますよ。ただ、拳銃一丁相手なのが原則というか、そもそも予測動作としての回避ですから、大前提として撃たれてから避けても間に合いません。銃弾は音速ですからね、避ける方も音速で動かないと物理的に避けられませんよ。音速ってマッハですよ? 標準大気でおよそ時速千二百二十五キロ、秒速三百五十メートルぐらいですよ? 動けますか? マッハで」
あきれも深くまくし立てたそれは、解説なのか難癖なのか……いずれにせよ、真っ当に考えれば、九人分の銃撃を回避するなど不可能である。
しかも──だ。
この件は、銃弾を回避しているだけではない。前述の通り、ビリヤードよろしく狙って跳弾させているのだ。
左近は言った。まるで弾道を予知しているようだ──と。
だが、これは予め弾道を知っていればできるということなのか?
ゲームセンターのリズムゲームだって、常人はタイミングを制御するのに四苦八苦なのだ。
それを、九人分の銃撃を制御するなどと、単なる予知や予測では納得できない。
(……だから、問題はそこなんです……)
この犯人が、どうやって犯行を為しているのか?
夏輝にとって、問題はその一点に過ぎない。
改めて自身に言い聞かせつつ、再度の深呼吸。血の臭いに噎せそうになりながらも、姿勢を正して羽間里警視の方へ向き直る。
「九人の死者。弾道を誘導した犯人。けれど、この現場にはもうひとりいたはずですね」
逆算の中で読み取った、場内の片隅にへたり込んだ誰かの痕跡。
その位置を睨みながらの夏輝の指摘に、羽間里はやれやれと肩をすくめた。
「……なるほど、どうやら貴方が痕跡の調査において優秀なのは本当のようですね。いますよ確かに。同じく強盗未遂犯の一味であり、この場に居合わせながらも生き延びている方を一名、我々で保護しています」
さらりと応じたそれは、ある意味では衝撃の事実である。
今日は七月五日、すなわち告発状が示した期日。
魔法使いに告発されながらも、死なずに生き延びている初めての実例。犯人を目撃している可能性も高い。
「会わせてください」
夏輝の申し出に、羽間里は即応はせず、ゆるりと眼鏡の位置を整える。
わざと、もったいぶっているのだろう。
「それは朝凪夏輝としてのお願いですか? それとも九条夏輝としての要請ですか?」
眼鏡のレンズごし、無表情に問いかけてくる羽間里の双眸。
それは夏輝の意志を問い質すものであり、ひいては、夏輝の今後の在り方を問う命題といっても大袈裟ではないもの。
少なくとも、夏輝自身にとってはそのぐらいに重い問いだった。
かつて夏輝は、自らの異能を才能として受け入れ、事件に挑み、それを解決することを誇りに思っていた。そうすることで、あの〝魔法使い〟の青年に少しでも近づけるのだと信じていた。
しかし、そんな彼女は三ヶ月前に取り返しのつかない失敗を犯した。
増長慢からの暴走の果てに、かけ替えのない親友を失った。
自分は〝魔法使い〟にはなれないのだと思い知った夏輝は、だからもう二度と異能を才能だなどと思い上がって事件に挑むことなどしないと、自分の殻に閉じこもったのだ。
なのに、そんな彼女が今なお、再び事件に踏み込もうとしている。
それはあの過ちを繰り返す愚行なのではないか?
脳裡に疼いた葛藤──けれど、そんな葛藤は、それこそこの三ヶ月間の内に飽きるほど悩み尽くしたのだ。
夏輝は、小さく呼気を挟んで答える。
「これは、九条夏輝としての要請です」
静かに、だがハッキリと力強く告げた覚悟に、羽間里は白々しいほどニッコリと微笑んで頷いた。
「では、一介の公僕に抗えるわけもありませんね」
そのまま案内しようとした彼だが、しかし、立ちふさがったのは大柄な浅黒い強面。
「気に入らねえな……」
低い声音。
それは恫喝ではなく、込み上げる憤りを抑えた呻きのごとき詰問だ。
「オマエさんは、三ヶ月前のことで、もう懲りたんじゃなかったのかよ」
椰子木剣一。
彼の深い失望を宿した問いに、夏輝はゆっくりと頭を振り返す。
「懲りたましたよ。もう、血生臭い事件に関わるのは御免です」
でも──。
「また身近な誰かが傷つくのを黙って見ているなんて、もっと御免なんです」
微笑とともにそう言いきれば、椰子木はこの上もなく苦そうに表情を歪める。
「……フン、なら勝手にしな」
鼻を鳴らしながらも、そのゴツイ身体を避けて道をあけてくれた。
傍らを通り抜ける際、椰子木はギョロリと高圧的に睨みつつ、
「いいか小娘! 九条だろうが朝凪だろうが、オレにとってはただの民間人だ。あまり好き勝手にやってたら黙ってねえぞ!」
威嚇をこめた警告。だが──。
「はい、ちゃんと相談します。もう、ひとりで突っ走ったりはしません」
夏輝には、それが彼の気づかいなのだと理解できたので、穏やかに感謝の微笑みを返した。
「ありがとうございます、ヤシノさん」
「…………いや、ヤシキだ。相変わらずだなオマエ……もういいから、さっさと行け」
脱力した椰子木に一礼しつつ、夏輝たちは先導する羽間里に追従した。
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