魔法使いの犯罪(2)

              ※


 イジケたヒキコモリ。


 有栖川ありすがわ黎斗れいとがバスルームへ向かいざま、小さくつぶやいた言葉。

 小さく微かな声だったが、それでも夏輝の耳にはハッキリと知覚できていた。


 彼女にとっても、それはそのままにその通りの指摘で、だから、否定するつもりはさらさらないのだけれど──。

 少しだけ、言い分というか、言いたいことがあった。


 別に、彼女は初めから引きこもってふさぎ込もうとしたわけではない。


 ただ、必要のないことはしたくないと思っただけ。

 余計なものを読み取って、余計な思いをせずに済むように。

 最低限、最小限の行動以外は極力避けて、ひっそりと静かに過ごしていこうとしただけ。


 そのためには外出はひかえるべきで、必要がないなら誰とも会わないのが望ましい。


 そう志して自室に構えてみれば、困ったことに、あるいは幸いなことに、どこへ行く必要もなく、誰に会う必要もなく、飢えて窮することもないままに──。

 気がつけば、この部屋に閉じこもり続けて約三カ月。立派なヒキコモリ状態になっていた。


 要因としては、押し入れの段ボール箱に収められた品々が大きい。

 以前、どこぞの誰かが事件解決の礼にと寄越したブロック栄養食一年分と、同じく、いつぞやに何かの事件が終わった時に贈呈されたビタミンサプリメント半年分。

 非生産的な毎日がどれほどのエネルギーを消費することもなく、科学が生み出した栄養保護食品の恩恵は、怠惰たいだな飢えを満たすには充分だった。


 テレビなどの通信情報はもとより、窓もカーテンも閉めきり、鍵も閉め、来客も無視し通して全ての外的情報を閉ざした。


 そのおかげで、ここには


 平穏万歳。

 まさに理想の生活。

 これこそが願い望んだ日常。


 今さら他人に指摘されたところで、だから、動じることはないはずだったのに──。


 バスルームから微かにもれ聞こえるシャワーの音。

 久しく聞いていない他者の奏でる音にさいなまれながら、夏輝は、とても後ろめたそうに表情を歪めた。


「また、あなたですか……」


 彼女の切れ長の双眸が嫌悪によどみつつにらむのは、部屋の片すみにうずくまる少女の影。


 当然、黎斗ではない。

 小柄な黎斗と比べても、さらに小さく幼い影。


 それが、誰の刻んだ痕跡かは知らない。知りたくもない。


 ただ、全てを閉ざしたというのに……今でもその幼い少女の姿をした過去だけは、ふと気がつくと現れては、夏輝を恨めしげに睨んでくる。


「……そんなに、今のわたしが憎いのですか?」


 憤慨というよりは、後ろ向きで陰湿なイラだちを込めて見返す夏輝。

 視線の先、その幼い少女は薄暗がりの中でジッと膝を抱えている。

 この夏日に、うずくまる少女が着るのは長丈のレインコート。いや、その格好は最初に現れてから変わっていないだけかもしれない。


 暗がりゆえに──というよりも、まるでその少女のいる場所だけが色彩を失ったかのように、不気味なモノトーンの影は微動だにしないまま。

 目深にかぶったフードの下から、恨めしげな鋭い眼光が、夏輝をジッと睨み続けている。


「…………そんな目で睨んでも、もうダメですよ」


 夏輝は投げやりなまでに力なく吐き捨てた。

 もう夏輝はそういうことはやめたんだから。

 二度とイヤだと思い知ったんだから。

 そのためにこうして自室に閉じこもって、無為なる怠惰をむさぼり続けているんだから。


 だから、そうして恨めしげに睨まれても困ってしまう。


 拒絶を返しても、レインコートの少女はやっぱりジッと夏輝を睨み続けたまま──。


「何してんだ? おたく……」


 黎斗がそう呼びかけるまで、彼がシャワーを終えて居間に戻ってきたことにすら気づけなかった。


「まるで、幽霊でも出たみたいな顔してるぜ」


 黎斗が怪訝けげんのままにそう言うと、夏輝はスッと短く息を呑んだだけで、返事どころか見向きもしない無反応。


「おい……」


 続けた呼びかけは、だが、鳴り響いた電話の着信ベルによって唐突に掻き消された。閉めきった室内に、無粋な電子音はやたらと耳障りに大きく響き渡る。

 鳴っているのは、この部屋の据え置き電話だ。

 つまり、考えるまでもなく朝凪夏輝への電話なのだけど、当の夏輝は無視を決め込んでいる。


 いや、無視ではない。


 彼女は電話の方をジッと見つめている。

 そうして鳴り響く着信ベルを露骨に意識しながらも、なぜか応対しようとはしない。


「電話、出なくていいのか?」


「……いいんです」


 ふるふると頭を振って返す夏輝。

 考えれば確かに、ヒキコモリの身で律儀に電話に応じるのも奇妙というもの。黎斗もそれ以上は追求しなかった。


 鳴り響く着信は、しかし、切れることもなく、やがて留守電機能に切り替わった。


『もしもし、そこにいるのでしょう?』


 発信音の後に続いた相手の声は、やけに威厳のこもった女の声。

 その声に、夏輝は身じろぎもしなかったが、黎斗の方こそが身構えてしまった。


「んあ? この声……」


 その老いてなお張りのある声音に、黎斗は大いに聞き覚えがあったからだ。

 声の主は、電話越しに相手が聞いているのを前提の様子で、尊大に語りかけてきた。


『これまでは、多感な若者への配慮としてあたたかく見守ってきたのだけれど……。そろそろ、無理にでも更正させるのが良識ある大人の務めだと思うの』


 宣告の直後、響いたのは〝バダンッ!〟という乱暴な音。

 電話越しではない、現にこの部屋に響いたそれは、玄関ドアが開け放たれた音。

 部屋に乗り込んできたのはふたりの黒い人影。

 これまた黎斗にとっては見覚えのありすぎる姿、昨夜もひと波乱を演じた相手、学院の黒服たちである。


(……って、オレへの追っ手かよ!)


 黎斗が慌てて身構える間もあればこそ、ふたりの黒服はそんな解体魔を無視して、ベッドの上の夏輝を両脇から抱え上げた。

 夏輝は当然のごとく抵抗したが、相手はプロである。

 抵抗の動きは、流れるようにからめ取られ、あっという間に夏輝の両手首は革ベルトに縛り上げられてしまった。


「御無礼をいたします。夏輝お嬢様」


 短い謝罪は確かに申し訳なさそうに、それでも、あるいはだからこそ、黒服たちは容赦ない勢いで夏輝の身体を部屋の外へと引きずり出していった。


 ひとり取り残された黎斗は、身構えた姿勢のままで茫然ぼうぜんと──。


「……ぁ……いや、待てよ!」


 すぐに我に返って後を追う。

 外に出てみれば、マンションの前に停車している、いかにもな黒ぬりの高級車。

 その車体に優雅に背を預けて立つのは、喪服のごとき漆黒のドレスに身を包んだ初老の女。鋭い面立ちに、ピンと姿勢良い姿は、まさに貴婦人という表現がふさわしい。


 その黒衣の老婦人の姿を認めた黎斗は、すぐに塀の陰に身を隠し、呻きを濁らせた。


「やっぱり、九条くじょうのババア……!?」


 九条菜那静ななしず

 それがあの老婦人の名であり、今し方の電話の相手。

 そして、黎斗が収監されている〝学院〟の学長にして理事長。つまり大ボスである。


 彼女がなぜここにいるのか?

 脱走した解体魔を捕らえるその程度のために、あの貴族然とした老婦人が自ら出向いてくるわけがない。


 現に、黎斗はこうして放置されたままだ。今、老婦人の御前に引き立てられているのは解体魔ではなく探偵少女の方。

 眼前に引きずられてきた夏輝を見下ろして、黒衣の老婦人は、ことさら穏やかに双眸を細める。


「お久しぶりね」


 携帯電話を耳に当てたまま、彼女は薄笑いながらも厳然と告げた。


「九条先生……」


 黒服にねじ伏せられた夏輝が力なく呼びかければ、菜那静は一瞥いちべつだけを返して、手にした携帯電話を傍らに控えた黒服に手渡した。

 それから、改めて夏輝を見下ろして問いかける。


「……さて、ヒキコモリの御嬢さん。前回会ってから、どれだけぶりかしらね?」


「………………」


「前回はそう、貴方たちが中学を卒業してすぐだったわ。あれからどれだけ経ったのかを教えて欲しいのよ。何しろ、貴方がイジケている間の様々な面倒はわたくしが引き受けてあげたのですからね。実の娘同然に目をかけた貴方がどれだけの期間恩知らずに閉じこもっていたのか、是非とも貴方自身の口で答えて欲しいと……」


「約三カ月……正確には九十五日…………もっと細かく言えば三千三百時間と二十二分」


 まくし立ててくる菜那静に、夏輝はボソボソと、だが、さして考えた風もなく応じながら、拘束されたままの手を億劫そうに動かして、こめかみに垂れた髪を指先で弄っている。


「秒数まで必要ですか?」


 見上げて問えば、菜那静は「いえ、上出来よ」と、満足げにうなずいた。


「それにしても、若い娘が髪の手入れも怠けていたのね……せっかくの綺麗な髪が、嘆かわしい」


 長いポニーテールにくくられた黒髪、乱れてアスファルトに広がったそれは、どちらかといえば、こうして引きずり出されたおりに乱れたもの。


 だが、そんな反論こそ無意味だと、夏輝はその切れ長の双眸を痛ましげに歪めて、心底から嘆願する。


「わたしのことは、もう放っておいてください……。わたしは、もう……あんな思いをするのはイヤなんです」


 だから、放っておいてほしい。もう普通の人間として、普通の生活を望んでいるんだから!

 心の底から嘆願する夏輝を、菜那静は鼻で笑って一喝した。


「愚かだこと。引きこもって社会と隔絶するのが、普通の生き様なものですか」


 菜那静の冷ややかな叱責は、痛いところに突き刺さったんだろう。

 反論もなく、ただ、恨めしげに睨み返す夏輝。

 菜那静はそれには見向きもしないまま、冷然と口の端をつり上げる。


「異能も普通の才能であるなどと、理想論に過ぎないと思い知ったのでしょう? だから三カ月も引きこもっていたのでしょう? ええ、わたくしはずっと昔から忠告していたはずよ。普通じゃないからなのだとね」


 もとより、普通に生きることなどできるわけがなかったのだと、菜那静は断じた。

 夏輝は反論しようとして、言葉が見つからぬ様子で歯を食い縛る。


 持って生まれたなら全てが才能。


 それは菜那静が指摘した通り、夏輝の持論であり、信条であった。

 才能は、受け入れて正しく活かすべきだと、かつては誇り高く返答できたのに……今の夏輝は、ただ、のしかかる後悔に押し潰されているだけ。


「……わたしはもうこんな能力なんて、二度と使いたくはない……わたしは、〝魔法使い〟にはなれなかったんですから……!」


 ただでさえ弱々しい泣き言は、消え入りそうに濁って淀む。


「はぁ……。まったく、やれやれね」


 その文字通りの泣き言に、菜那静は気怠げな溜め息をこぼして軽く手を振り、夏輝を押さえていた黒服を下がらせた。


 解放してくれる……わけもなく、菜那静は夏輝の髪をガシリとつかみ上げ、そのまま力任せに己の後方へ引き倒す。

 穏やかならぬ衝撃音とともに、夏輝の横面が黒いボンネットに叩きつけられた。


「よろしいかしら? 御嬢さん」


 ねじ伏せた夏輝の耳もとに、菜那静は囁きを寄せた。


「わたくしはね、貴方のを買っているのよ。だからこそ色々と目をかけてきた。それが一度や二度の失敗でウジウジとうつに沈んでいるのはイラつくの。どうせ普通に生きられないのなら、せめてわたくしの役に立ちなさい」


 菜那静の声音は静かに底冷えて、あるいは、そのまま夏輝の髪を引き千切りかねない不穏な威圧をまとう。

 拘束されてねじ伏せられた夏輝は、もとより抵抗も、その意志も封じられたまま。


 現に彼女の四肢には、あの黒い鎖が、グルグルと重たげにうごめき絡みついていて──。


 だから、解体魔が動くキッカケは、結局のところいつも同じだった。


「いい加減にしろよババアッ!!」


 鋭い恫喝は黎斗のもの。

 二階の廊下から事態をうかがっていた彼は、廊下の外塀に足をかけると、勢いのままに飛び越え、階下へ降りた。

 たかが二階、身軽な者にとっては無理な高さではないとはいえ、実際に着地した衝撃はそれなりに重く大きく、込み上げた痛みと呻きを無理矢理に怒りへと相乗し、黎斗は眼光も鋭く身を起こした。


 敵意もあらわに迫る金髪の少年に、すぐさま立ちふさがって身構えるふたりの黒服。

 その防壁の向こうで、老婦人は冷ややかに笑う。


「あら、貴方もいたのね。それで? 何かわたくしに文句でも? 解体魔のボウヤ」


 露骨な挑発とともに、菜那静は夏輝をねじ伏せる右手に力をこめる。黎斗はその可憐な顔をギンッと凶相に染めた。


 松雪といい、この菜那静といい、相変わらず学院の連中はトボケたマネばかり……!


「わかってて、見せつけてんだろうが陰険ババアッ!」


 憤怒を叫んで駆け出した黎斗。

 迎え撃つ黒服に対し、黎斗は顔の前で交差するように両の腕を振り上げる。それが左右に振り払われた直後、


 バチバチッ! と続けて弾けた小さな破裂音に、黒服ふたりは耳を押さえて体勢を崩した。


 彼らのつけていたイヤーセット型の無線機が、突然に火花を散らして弾けたのだ。破裂は小規模でも至近、ヘタをすれば鼓膜を損傷しかねない衝撃だった。

 黒服が怯んだそのスキに、黎斗は一気に老婦人との間合いを詰める。


「ハッ!」


 短い嘲笑とともに、婦人の首筋に両手を突きつけた黎斗。

 彼の双手に握られているのは、手品のごとく瞬時に現れ出でた無数の工具。それは一本や二本ではない、両の手、十本の指先を器用に絡めて、無数の工具を挟み持っていた。

 ドライバーや工作カッターの鋭利なきっさきが、今にも菜那静の喉を破らんと威嚇する。


「相変わらず、手グセの悪さは喝采ものね解体魔」

「うるせぇッ……いいから、その女を放せよ!」


 この期に及んでも冷然と、動じるそぶりもない菜那静に、逆に黎斗の方が声音を濁らせる。


 正直に言えば、黎斗はビビっていた。

 実際、凶器を突きつけてはいるものの、本当に突き刺すわけにもいかない。


 まして相手は九条菜那静である。


 学長だからとかいう以前に、彼女はあの〝九条〟なのだ。いっそ逃げ出す機をこそうかがうために、二階に留まっていたというのに──。


 だが、それでも、ここで知らぬフリを通してやり過ごせるなら、元より有栖川黎斗は解体魔だなどと呼ばれてはいなかったろう。


 自由を奪われる姿。

 それが何者であれ、黎斗にとっては耐えがたい苦痛だった。


 ──だからこれは、義憤だとか正義感だとか、そういう綺麗なものではなく、まごうことなき私情からの私憤。


「力任せに縛りつけてねじ伏せて、無理矢理言うこときかせるとか……そういうのを、オレの前でやるんじゃねえよ!!」


 怖じ気を激情でぬり潰して、黎斗は工具を手にした左手を一閃する。

 たたずむ老婦人にはこともない。

 ただ、ねじ伏せられた夏輝の、その後ろ手に嵌められていた拘束具の留め具だけが、甲高い音を立ててバラバラに砕け散った。


 老婦人はなお平然と黎斗を、そして、両手が自由になった夏輝を見下ろした後、スッと身を離して衣服の乱れを正す。


「まあ、良いでしょう」


 吐息も浅くひとりごちながら、黒ぬりVIP車輌の後部座席に乗り込んだ。開け放たれたままのそこから、浮かべた笑顔も白々しく手招きする。


「おふたりとも、車に乗っていただけるかしら?」


 穏やかな問いかけと同時に、ふたりの黒服が黎斗と夏輝とそれぞれの背後についた。自ら乗らないなら、丁重にエスコートしてくれるということだろう。


「御要望通り、穏便にお願いしているのだけれど……」


 お気に召さないかしら? ──と、首をかしげる老婦人。

 夏輝はただ、諦観の溜め息だけをこぼして、


「……わかりました」


 と、弱々しくも了承を返した。


「おい、いいのかよ」


 不満げな黎斗。その未だ戦闘態勢な意気込みに、夏輝は静かに頭を振って微笑むと、そのまま自分の足で車に乗り込んだ。


「…………」


 黎斗の方は何とも釈然としない様子で両手を軽く振る。途端に、握られていた無数の工具が全て消え去った。袖口か、いずれコートに細工でもあるのだろう。


「覚えてろよババア……」


 ヒネリのない悪態を吐き捨て、黎斗もまた車内に移る。


「本当に、小癪なコゾーだこと……」


 菜那静が苦笑いつつ片手を振れば、黒服たちもまたそれぞれに運転席と助手席に乗り込む。


 すぐに動き出した車内は、エンジン音はおろか揺れすらもしない。後部座席は普通の座席とは違い、三人がけのシートがふたつ、前後に向かい合う形に備えられ、菜那静は前部側に、黎斗と夏輝は後部側に背を預けており、互いの間には小型のテーブルまで設置されていた。


 相変わらず、金持ち仕様なことだと口の端を下げる黎斗。

 そのフテ腐れた顔を、傍らに座した夏輝がジッと凝視するように覗き込んでくる。


「何だよ?」


 黎斗が怪訝に問えば、夏輝はいかにも記憶をたどるように「ア、アリマ……じゃなくて、えーと……」と、思案げに言葉を選びながら……。


「……アリスちゃん?」

「誰がアリスちゃんじゃ。オレは有栖川黎斗! さっきも名乗っただろうが」

「レイ……ト?」


 首をかしげる夏輝に、向かいに座した菜那静が得心した様子で邪悪に薄笑う。


「何やら、愉快な誤解が生じているようね。そこの金髪のお人形みたいな輩は、そんなナリでも立派な男よ……いえ、立派ではないわね。まだガキだわ」

「うるせぇ、これからデカくなんだよ……」


 嘲笑もたっぷりと解説する菜那静と、文字通り小癪に噛みつく黎斗。

 そんなふたりを交互に見やってから、夏輝は再度、念を押すように問い返す。


「でも、こんなに小さくて可愛らしいですよ?」

「小さ……だからこれからデカくなるんだよ!」

「小さくて可愛らしかろうが、そいつは生物学的にも医学的にも通俗的にも正真正銘の男性よ。気づいていなかったのかしら?」


 気づいていなかったのだろう。

 夏輝はその切れ長の瞳が丸く見えるほど見開いて、しばし呆然と黎斗を見つめながら、


「それは………………」


 言葉に詰まっているのは、多分、全裸で対峙したり、全裸で蹴り倒してきたり、全裸で馬乗りになってきたりした時のことを思い出してのことだろう。黎斗を女の子だと思っていたのならば、改めて羞恥と動揺が込み上げてきても仕方ない。


 けれど、夏輝は浅い吐息をひとつ挟むと、


「……まあ、いいです」


 さしてどうでもよさそうにシートに座り直した。


(いいんかい……)


 脱力する黎斗。

 結局、夏輝にとっては〝別に減るもんじゃないし〟ということなのだろう。もう驚くことではないかもしれないが、あきれるのは変わらない。


 それにしても、いくら黎斗の容姿がこうとはいえ、本当に気づいていなかった点には少しガッカリした。推理力とか洞察力とか、そういうのに優れているからこその探偵少女ではないのか……?


 それは驚いた反面、納得した部分もある。

 やはり、彼女が探偵少女として活躍できた根幹は、その頭脳よりも〝異能〟のゆえが強いのだろう。

 さて、どうにかしてその異能を利用できないかと思案しつつ。


(……それ以前に、まずはどうやってこのババアから逃げるかだな)


 つい流れで車に乗り込んでしまったが、やはり逃げ出すべきだったかもしれない。


 黎斗が恨めしげに視線を向ければ、当の菜那静もまたこちらを見つめていたようで、半眼に細められた眼差しとガッツリぶつかった。


「な、何だよババア」

「学長……と、呼びなさいな解体魔。礼儀をわきまえぬ輩は畜生にも劣るわよ」


 それ以上は特に知ったことかとばかりに、車窓の外、流れる景色へと視線を移す菜那静。

 黎斗は身を乗り出して問い詰めた。


「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」

「……まったく、成長のないコゾーね。今は貴方に構っているヒマはないの。少しは大人しくしていなさいな」


 それはむしろ穏やかに紡がれたものだったが、込められた語気の冷ややかさは背筋を刃でなぞられるに似て鋭く、引き下がるというよりは、気圧けおされて押し戻される形で、黎斗はシートにもたれかかった。


 菜那静は満足げにうなずき、それから、静かに表情を引き締めると、うつむいたままの夏輝へと向き直った。


 そして特に何を問うでもなく、老婦人は無言の眼差しを向けたまま。

 その沈黙に耐えかねたのだろう、夏輝は浅い溜め息に肩を揺らす。


「わたしを……どこに連れて行くのですか?」

「さて、あえて答えるまでもないと思うけれど……」


 トボケるように、あるいは威圧を込めるように声音をしぼった菜那静だったが、ふと、何かを認めた様子で、目線を車外へと滑らせた。


「停めなさい」


 鋭い命令に、運転席の黒服がすみやかに車を停車させる。

 車体の性能か運転手の腕か、急停車にもかかわらず車内の反動はゆるやかに。路肩へと寄せた車内から街並みを見やった菜那静は、その表情を物騒に歪めた。


 オフィス街の一画、新しいビル建設現場に、数台のパトカーと、交通規制を敷く警察官たちの姿。

 何か事件でも起きたのだろう。今まさに現場検証中のようだ。


「ちょうど良いわ。学院に行く前に、腑抜けた貴方のリハビリといきましょう」


 老婦人のニコやかな決定に、当の夏輝はいかにもウンザリと深い溜め息をこぼしたのだった。


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