2章 魔法使いの犯罪
魔法使いの犯罪(1)
あの日、彼女と交わした会話を、良く覚えている。
いや、それは別にあの日に限りはしない。
あの日のことは、ことさらにハッキリと覚えている。
今から九十五日前のこと。
彼女はいつものように儚げに微笑みながら、夏輝に聞かせてくれた。
〝――ねえ、夏輝。ギリシャ神話のパンドラって、知ってる?――〟
パンドラ──全ての不幸が閉じ込められた封印の箱を開けてしまった女の名前。
彼女がそれを開けてしまったから、世界にはあらゆる不幸があふれ、ただひとつ、箱の底に希望だけが残った。だから人間は、不幸と災厄にさいなまれながらも、絶望せずに生きていけるのだという。
不幸が詰まった箱に、希望が入っていたなんて妙な話だ。
それに、箱をすぐに閉じたおかげで希望が中に残ったというなら、この世に希望だけは存在しないということになるのではないか?
夏輝がそう応じれば、彼女は微笑で首肯する。
〝――あの神話はね、もともとは箱じゃなくて壺なんだって――〟
伝承の過程で誤訳や解釈のズレが生じたのだという。
より古い伝承によれば、不幸が詰まった封印の器の底に残ったのは、単純な希望ではなく、未来がわかってしまう不幸なんだそうだ。
これから何が起きて、どうなるのか、その全てを予知してしまったら、人は生きる意味を失ってしまう。
その〝未来予知〟という不幸が封じ込められたままだからこそ、未来がどうなるかがわからないからこそ、未来に希望を持つことができる。そういう意味での希望なんだと、彼女は涼やかに笑った。
それを聞いた夏輝は、最初は首をかしげた。
未来がわかるということは、確かに生きる覇気を奪うことにもなるかもしれない。
けれど、これから起こる不幸を予知することで、抗うこともできるのではないだろうか?
そう返せば、だが、彼女はゆるりと頭を振った。
〝――未来がわかるということはね、何もかもが、自分の好きにできるってことなんだよ――〟
為したいことも、成してみせたいことも、全てが為すがままに成し遂げられていく。
失敗の可能性などわずかにもあり得ない。なぜなら、全ては始める前に、成功を確認しているのだから──。
全てがすでにして成功している世界は、誰も不幸になることはなく、誰も傷つかないのかもしれない。
その代わりに、達成感も充実感もない。
悲しみが存在しない世界には、すなわち喜びも存在しない。
なら、そんな状態こそが、すでにどうしようもなく不幸で、壊れてしまっているんだろう。
失敗することはないが、成功する意味もない世界。
運命を計り知る不幸とは、そういうことなんだと、彼女は言った。
未来が、運命が、事前に読み取れたなら、ただ成功に身をゆだねるか、あえて失敗に身を投じて自滅するか、いずれにしても、ただ結末に向けて流れて行くことしかできなくなるんだと、そう言った。
なら、確かにそんなものは耐えられない。
未来予知の不幸がギリギリにでも封印されて本当によかったと安堵する夏輝に、彼女は儚く微笑を返した。
儚い微笑み。
いつも穏やかに笑う彼女が、時おり垣間見せていた悲しげな陰り。
だから今でも、夏輝は悔いて、嘆く。
開けてはいけない封印を開けた愚かな女。
それはまさに朝凪夏輝のことに他ならない。
〝あなたが余計なものを読み取らなければ、私たちはずっと友達でいられたのに〟
血だまりに倒れた彼女の最後の姿が、今でも記憶に焼きついまま、決して消えてはくれなかった。
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