魔法使いの呪縛(2)

 

 いくつかの路地や繁華街の喧騒を介し、ひとしきり駆け抜けて──。


 そろそろ大丈夫かと立ち止まった黎斗は、大きく息をついた。


 ただでさえ暑苦しい七月の熱気は、日が沈んだ後も茹だるように。

 そんな中で全力疾走などすれば、全身が汗だくだ。

 まして、黎斗は膝まで届く長袖のコートを羽織っている。


 だが、それでも彼はコートを脱ぐことはせず、じっと息を整える。

 やがて追従してくる気配がないのを確認しつつ、両手首に残った手枷のあとを睨んだ。


「アイツら、ガッチリ絞めやがって……」


 吐き捨てた文句は、だが、乱暴に拘束されたそのことよりも、その痕が真っ赤に目立つほどに、己の腕が細く生っ白いことへの不満だった。


 ふと見れば、路上駐車された車の窓ガラスに己の姿が映り出ていた。

長い金髪ブロンドを背に流した小作りな顔立ちの中、大きな青い瞳が、剣呑に細められている。


 思わず鳴らした舌打ち。

 我ながら、絵に描いたような白人美少女の姿がそこにあった。


 無論、黎斗は男装しているわけでもなければ、両性具有なんて突飛な存在でもない。

 生まれた時から歴然と、心身ともに男性である。

 だが、心外ながらも外見は見ての通り、小柄で小作りな愛らしき少女のごとき容姿。おかげで、昔からいらぬトラブルに巻き込まれることはなはだしい。


 黎斗はイラ立ちのままに右腕を閃かせる。

 立て続けに響いた金属音とともに、車のドアがグラリと傾いた。


 車体との接続を断たれて転げ落ちたドアは、さらに表裏の結合を解かれ、黎斗を映し出していたウィンドウ部をはじめ、様々な部品をアスファルトにまき散らす。


 突然に瓦解がかいした車のドアに、周囲の通行人は何事かと驚いてはいるものの、原因に気づく者などいるはずもない。

 果たして、それを為したであろう黎斗は、綽々しゃくしゃくと鼻を鳴らして歩き去る。


〝解体魔〟────。


 その大仰な異名は、別に黎斗自身が名乗ったものではない。

 勝手気ままに物を解体する彼の所業に対し、周囲が呼び始めたもの。

 当然、それは蔑称であるのだが、だからこそ黎斗は気に入っていた。

 特に、解体師や解体屋ではなく、解体〝魔〟というところがいい。

 それは、まさしく黎斗のことを的確に表した異名だと思うからだ。


 まあ、それはさておいて……だ。


 首尾よく逃げきれたものの、現実問題として行くあてがない。

 ことは一日や二日で片づくとは思えないし、差し当たっては腰を落ち着ける拠点が必要だった。


 黎斗のような、見るからに未成年がひとりで野宿などしていては、たちまち警官や警備員に見咎められるし、まして、彼の容姿は金髪青眼の少女にしか見えないのだから、トラブルの種はそれだけではない。

 色んな意味でも、隠れ家は必要だ。


(どっか適当な空き家とか、空き部屋にでも潜り込むか……)


 実際、アパートやマンションなどの集合住宅は数多く建っているのだ。探せば空き部屋のひとつくらいあるだろう。鍵は、いざとなれば解体すればいい。


 ふと目を向けた先にも、一棟の集合住宅があった。

 鉄筋三階建て、安っぽくもなければ高級でもない、ごくありふれた賃貸マンション。

 通りからざっと見た限りでは、明確な生活の気配のある部屋は少ない。入り口の集合ポストを検めると、各階六室ずつの計十八室の内、名前が出ていない部屋が計四部屋あった。が、だからといって空き部屋とは限らない。ひとり暮らし用のワンルームマンションなら、いちいち名を明記しないのは良くある。


 だから、いざ確認した最初の部屋の鍵が、壊すまでもなく開いていた時、黎斗は思わずドアノブを回した姿勢で固まってしまった。


 二階の角部屋、201号室。


 室内から明かりはもれておらず、改めて確認したが表札はナシ。ドアの投函口にはチラシが数通挟まっているが、少なくとも、入居者がいることを示すようなものは見当たらない。


 ゆるりとドアを開け、中を覗き込む。

 間取りは1DKだろうか? 明かりは点いておらず、月光を頼りに見渡したダイニングキッチンには、食器も家具も見あたらない。

 短い廊下の途中には二枚の扉、トイレとバスルームだろう。奥にはメインであるフローリングの居間が見えるが、そこにもやはり、家具や生活用品の類は見て取れない。


 何より、この部屋からは人の生活している気配が感じられなかった。


 住人がよほど偏執的に片づけを心懸けているのでなければ、まず間違いなく空き部屋であろう。管理人が施錠を忘れたのか? 何にせよ黎斗にとっては好都合。素早く室内に上がり込むと、ドアを閉める。


 内鍵をかけようとして、だが、シリンダー錠はなんの抵抗もなく空転した。


(……何だこれ、壊れてんのか)


 だから施錠されていなかったのか……と、黎斗が得心しながらも、管理の杜撰ずさんさにあきれた時だった。


 ガチャリと、背後で扉の開く気配。


 すわ住人がいたのかと振り向けば、廊下の半ばに立つ女の姿。

 女だった。

 そう、そいつはまごうことなき女であり、見まちがえようもない。

 それは一目で瞭然りょうぜん、何せ相手は一糸もまとっていないのだから!


 射し込む月光に淡く照らし出された、そのスラリと長身のシルエットは、静かに黎斗の方へ向き直る。


 長い黒髪の水気をバスタオルで拭いながら、切れ長の双眸が驚きに見開かれるのが、やけにハッキリと見えた。

 美人……なのだろう。

 細面に、鼻筋の通った鋭い眉目。その眼差しは冷ややかに黎斗を射貫いてくる。


「あ、いや、違うんだ。オレはただ……」


 慌てて紡いだ弁解は、女の髪から垂れた水滴を思わず目で追ったことで掻き消えた。細い首筋から鎖骨にこぼれた煌めきが、胸元の豊かなふくらみを伝い流れて────。


(え? 何あれ、メロン? ……!?)


 官能的に揺れるふたつの真円に目を奪われながらも、だが、黎斗を真に困惑させているのは女の裸体よりも、その身体に絡み巻きついたの存在だった。


 黒い鎖……まるで女の自由を損なう枷のように、腕に、脚に、全身にグルグルと巻きついた漆黒の縛鎖。


 驚愕に硬直した黎斗は、さぞかしマヌケな顔をしていたのだろう。

 女は怯えるでも悲鳴を上げるでもなく、小さなあきれの溜め息だけを吐き捨てて、そのしなやかな足を大きく一歩、こちらに踏み出した。


 巻きついた鎖が重そうに揺れるが、打ち鳴らされるはずの金属音は微かにも響かない。


(……ああ、じゃあやっぱり、この鎖は……)


 得心する黎斗の眼前に立った女。

 百四十センチそこそこの彼に比べ、女の身長は頭ひとつ以上高く、まして、ズイと迫られれば、見上げなければ顔をうかがえないが……。


「う……ぐ」


 黎斗が呻きを呑み込んだのは身長差にというより、ちょうど目線の高さで迫るバストの迫力に気圧されたため。


 そのスキを衝かれて、女の右手に襟首をつかまれた。

 直後、黎斗の足下を薙ぎ払ったのはあざやかな下段回し蹴り。


 黎斗の視界は空転し、背中にしたたかな衝撃を受けて息を詰まらせる。続けて、腹の上にのしかかる重圧感と、頬をくすぐる濡れた髪の感触。


 あの奇妙な黒鎖は、いつの間にか跡形もなく消えていた。


「……あなた、いったい誰ですか?」


 冷ややかなまでに澄んだ声音が、静かに問い質してきた。

 その声が、表情が、あまりにも冷静であったから、黎斗は自分がどういう状況にあるのかを理解するのに、数秒を要した。


 大の字に倒れた黎斗を、馬乗りになって抑え込む女。

 無論、女の手脚は、黎斗の四肢を組み伏せるのに使われているので、隠すべき場所を隠せていない。いや、そもそも、隠そうとすらしていないのはどうしたことなのか!?

 一糸まとわぬまま、全裸のまま、真っ裸のまま、女はグイと絞め上げるように、黎斗の胸ぐらを引き上げる。


「う……わ……」


 間近に迫る女の眼光よりも、鼻孔に届く石鹸の香りに、黎斗はヒクリと頬を引きつらせた。


「わ……わ……わ……」


「わ?」


「服を着ろぉぉぉぉォォォーーーーッ!!」


 直後、喉も裂けよとなかりに絶叫した黎斗に、女はやれやれと肩をすくめる。


「……? 〝わ〟はどこにいったんですか?」

「い、いいから乳とかその他モロモロを隠しやがれッ!」

「風呂上がりなのだから、仕方ないでしょう……」


 女はさも面倒くさそうに、首にかけたバスタオルを垂らして形ばかり胸を覆った。


「ほら、これでいいですか?」

「いいわけねえだろアホか! つーか、おたく、女としてそのスタンスはどうなわけ!?」

「心外ですね。わたしだって、普通はちゃんと服を着ています。あなたがいきなり押し入ってきたのが悪いんでしょう」

「そ、そうだけど……いや、そうじゃないだろ!! そんななぁ、乳とか尻とか平気でさらして、襲われても知らねぇぞ!」


 その指摘にこそ、女は初めて警戒をあらわにして身構える。


「まさか、襲うためにきたのですか?」

「な、ちがっ……くて、オレは……つーかこれ襲われてんのはオレの方だろうが! ぁあもう七面倒クセーッ! いいからもう服を着ろッ! すぐに着ろッ! とにかく着ろーッ!」

「……はいはい」


 女はやれやれと立ち上がると、奥の居間へと向かう。

 黎斗もまた溜め息をこぼして起き上がった……のだが、廊下の先で今まさに下着を身に着けている女の姿を直視してしまい、素早く背を向けた。


 いや、それはもう自分でもビックリなくらいの高速反転だったのだが、それでも、垣間見た光景が網膜に焼きついたかのように鮮明に想起されて消えてくれない。


(あーもう!)


「バカかおたく! こっちから丸見えなとこで着替えんな!」


 黎斗は混乱と羞恥とに茹だった頭をガリガリとかきむしりながら抗議を叫ぶ。

 反して女の方は「別に、見られて減るものじゃないですし」と、どこまでも冷静に返した。

 何だか、ひとりでうろたえている黎斗の方がバカらしくなってくる。


「ほら、服を着ましたよ」


 呼びかけに振り返れば、女はTシャツにショートパンツという、いかにもラフな部屋着姿。何だか身体のラインは丸見えだし、胸のふくらみはTシャツ越しにも……とはいえ、まあ、全裸で構えられるよりは遥かにマシだった。


「これで文句はないでしょう。まったく、暑いのに邪魔くさい……」

「おい、何その反応? オレがオカシイみたいに言うなよ、絶対オカシイのはおたくの方だからな!」


 いかにも大儀そうに肩をすくめられ、即座に噛みつく黎斗だったが、女は相変わらず意に介す風もなく、肩にかかった長い髪をかき上げる。


「それで? 結局あなたは空き巣と強盗のどちらなんですか?」

「だから、空き巣でも強盗でもねえ」

「え、そうなのですか? それはそれは、手荒なマネをしてすみませんでした。改めて、わたしは朝凪あさなぎ夏輝なつきといいます。えーと……あなたは?」


 丁寧に一礼する女に、黎斗は反応に戸惑いながらも、つられて居住まいを正す。


「あ、オレは有栖ありす……ッ……」


 名乗ろうとして、尻すぼみに口ごもった。


(……何だこの状況……)


 何でノンキに自己紹介なんぞしているのだろう。

 調子が狂う。普通は叩き出されるなり、警察を呼ばれるなりされて然るべきではないだろうか?


 いや、それを言うなら、黎斗の方もさっさと退散するべきではあったのだが、どうにもタイミングを逃してしまった。


(……待てよ? アサナギ、ナツキ……?)


 どこかで聞いた名前である。どこで聞いたのだったか……?


「……でも、空き巣でも強盗でもないのなら、何の用なんですか?」


 不思議そうに問いかけてくる夏輝を、黎斗は半眼で睨み返す。

 ここには空き巣と強盗しか来んのかい……などという不毛なツッコミは喉元で呑み込みつつ。


「別におたくに用があるわけじゃねえ。オレはただ……ここが空き部屋だと思ったから、寝床にしようと思ったんだよ」


 ヤケクソな勢いで事実直球に答える。

 ただでさえ疲れて参っているところを蹴り倒されたりで、大いに調子を狂わされて、もうどうにでもなれという気分だった。


「ああ、そんなことですか……なら、好きにしていいですよ」


 あっさりうなずき、会話終了とばかりに背を向ける夏輝。

 その反応に、またも黎斗の方が慌ててしまう。


「は? え?」

「寝るところがないんでしょう? この部屋で良ければ好きに休んでかまいませんよ」

「何それ? つーか、信じるのかよこんな話!」

「嘘なのですか?」

「う、ウソじゃねえけど。いや、そういう問題じゃねえ…………だろ?」

「嘘じゃないのなら、あなたは追い出されると困るのでしょう?」


 まあ、確かにその通りではあるが、別に進退が窮まっているわけでもない。今度こそ本当の空き部屋を探せば済むことではある。

 だが、疲労困憊していることもまた事実。

 そもそも、黎斗の方が遠慮する理由もないのではないか?

 考えて、だが、考えていた内容が、次第にボンヤリとゆらぐ。


(……ダメだ、頭回らねえ……)


 疲労と混乱と眠気で思考が空転する。

 眠そうにまぶたをこする黎斗の様子に、初めて微笑を浮かべた夏輝。


「別に、何でもいいです。どうせここには盗られて困るものもないですし、それに……」


 腰まで届く長い髪を、ひとまとめのポニーテールにくくりながら、夏輝は改めて黎斗に向き直り、ニッコリと笑いかけてくる。


「いざとなったら、その時は蹴り倒せば済みますから」


 ニッコリと、それはもうイイ笑顔で物騒な宣告。


(ヤダ、コノヒトコワイ……)


 黎斗は思わず後じさりながらも「あ……」と気づいて目を見開いた。

 さっきまで髪を下ろしていたせいでイメージが違ったが、今、ポニーテールに結んだ姿を見て思い出した。


「アサナギ、ナツキ……そうか、どっかで聞いたことがあると思った」


 その呟きに、ピクリと夏輝のまなじりが震えたのを、眠気にゆるんだ黎斗の目はとらえきれなかった。だから、夏輝がゆらりと身体の重心を落としたことにも気づかないまま。

 何より、彼女があの朝凪夏輝であるという事実に、黎斗は大きく動揺し、同時に昂揚していた。


 朝凪夏輝。またの名を、


「おたくが、あの〝探偵少女〟か――──」


 昂揚のままに上げた声、直後、夏輝の右脚がしなやかに空を切った。

 鮮やかな上段回し蹴りが、ムエタイばりの鋭角を描いて黎斗の首筋を薙ぎ払う。


(……は?……)


 なぜ蹴られたのか理解できぬまま。

 意識がブラックアウトする刹那、垣間見た夏輝の顔……感情的に見開かれた双眸と食い縛られた口許。


 まるで泣き出す寸前の子供のようなその表情が、やけに印象強く、黎斗の意識に焼きついた。

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