魔法使いの後悔(4)
※
夏輝たちを乗せた車がアパート前に着いたのは、じきに陽が暮れる時間帯。
黎斗が車外に出てみれば、空は夕暮れではなく暗雲に染まっている。じきに天気は大きく崩れそうだ。
ジメジメとイヤな案配だと内心に毒突きながら、黎斗は未だ後部座席にもたれかかったままの夏輝に呼びかける。
「ほら、ついたぜ」
「……ん……」
短い返事は、単なる呻きにも取れるもの。
移動の途中からずっと黙り込んでいた彼女。疲労か、車酔いでもしたのかとも思ったが、当人は単に眠いだけだというので放置していたのだが。
再度呼びかけても、なお起き上がる気配がない夏輝。
「あー、もう、しっかりしろよ」
結局、黎斗が肩を貸す形で車内から引きずり出した。
さすがに黒服も心配そうに声をかけてくるが、夏輝は「……平気……眠いだけ……です……」と、
ひとまず大丈夫そうな様子に、黒服たちは一礼して車に乗り込んだ。
走り去る黒ぬり高級車を見送ってから、途端にぐらりと傾いた夏輝。
「うおい!」
慌てて受け止め支える黎斗。体格は小さくとも腕力はそれなりにある黎斗だが、その身長差のせいでどうにもうまく支えきれない。
「ちょ、おたく、もっとちゃんと立てよ……って、オイ! 乳が、乳が頭に乗ってる!」
柔らかな弾力にのしかかられ、複雑な悲鳴を上げる黎斗。
夏輝の方は、なおもまどろみと寝ボケとの狭間で揺れたまま。
「……ああ……ごめんなさい……アリスちゃん……」
「だから、アリスちゃんじゃねぇ!」
いい加減にしろとばかりに抗議しつつ、どうにか夏輝を背に負う形で体勢を整えた黎斗。
二階にある彼女の部屋へと向かうが、二十センチ以上の身長差のせいで、どうしても夏輝を引きずる形になってしまう。
しかも、背後に聞こえるのはムカツクほど安らかな寝息。
もはや完全に爆睡している様子。
「ったくぅ、これじゃあぁ、死体をぉ、運んでんのとぉ、変わんねぇ!」
踏ん張りながらのぼやきも荒々しく、ようやく夏輝の部屋である二〇一号室にたどり着いた黎斗だったが──。
「生命活動が止まった人体と、血の通う人体を比べるなどと、罰当たりなことを
説教とともに、さも当然のように部屋の中から現れたのは長身の男。
天鈴学院の校医こと、
「まして、死体を抱えたところでそのように柔らかで温かな感触を堪能することなどできるわけがない。しかもそんなバン! キュッ! ボン! な、わがままボディに完全密着しているというのに、その幸福を感受できぬなどと……。というか、黙って見ていれば何だねそのうらやまし過ぎるシチュエーションは!」
高みからまくし立ててくるそれは、無駄に朗々と響いて黎斗の鼓膜を震わせる。
「お、お、お……」
「ふむ、少し瞳孔が開き気味だぞ。心肺機能に乱れが出ているようだ。少し深呼吸して落ち着きたまえ」
「何でおたくがここにいるんだよ!?」
「やれやれ、玄関先で騒ぐのは御近所に迷惑だろう。早く入りたまえ」
心の底から馬耳東風な様子でさっさと室内に引っ込む松雪。
黎斗もまた追いかける形で中に入ってみれば、以前にきた時とは室内の様子が全く変わっていた。
ハッキリ歴然と、生活の気配が満ちているのだ。
至るところに積もっていた塵やホコリが掃除され、食器やテーブル、家電など、ひと通りの生活用品がそろえられている。
夏輝が掃除したとは考えにくい。あるいは、この松雪が家主の留守中に
「ところで有栖川君は帰宅するとまずは食事派かね? それとも入浴派かね? ちなみに私は即行爆睡派だ」
真新しいガスコンロを前に、お玉を片手に問いかけてくる。
よくよく見ればその服装はいつもの白衣姿ではなく、カッターシャツとジーンズというラフなもの。しかも、あろうことかクマさんプリントのエプロンなど身に着けている。
コンロにはグツグツとスパイシーな湯気を立てている鍋。
「あのな……、だから何してんだよ、おたくは!」
「見てわからないかね? 夕食の準備中だ」
見てわかったからこそ、なぜ松雪が、どうしてここで、何のためにそんなことをしているのかを問い質しているのだが、黎斗の想いは届かなかったようだ。
「さあ有栖川君。いつまでもオッパイを堪能していないで、彼女を下ろしてあげたらどうだい」
「真顔でオッパイとか言うな」
「バカな、笑顔で言ったら変態ではないか」
「………………」
黎斗はツッコミも面倒になり、溜め息とともに夏輝を居間のベッドに運んで寝かす。
この期に及んでも目覚める気配なく熟睡している彼女。
その無防備な寝顔を見下ろして、黎斗は疑念に首をひねった。
「探偵少女ねぇ……」
そのふたつ名から予め想定していた人物像と、実際の彼女はずいぶんと違う。
確かに見た目が良いのはわかる。
逆算の異能はもちろん、最初は疑問だった洞察力も、実際は優れたものだった。
だが、どうにもやる気のないスローなテンションに、すぐに人を蹴る足クセの悪さ。裸を見られても平然としているし、挙げ句にこの熟睡ぶり。
「人の名前もまともに呼ばねえし、どういう神経してんだコイツ……」
「ふむ、まさにそういう神経をしているのだよ」
訳知り顔で応じたのは廊下の向こう、キッチンで鍋をかきまぜながらの松雪。
「彼女はね、人の名前をまともに呼ばないわけではない。覚えられないだけだ」
「覚えられない……って」
「一般的な感覚で言えば、思い出せないという方が適切だね。……以前に、彼女の逆算の仕組みについてはキミにも話したと思うが」
「ああ、確か……脳が知覚情報を選別する課程を意識が認識しちまうせいで起こる副作用……だっけ?」
普通、人間が五感から知覚した情報は、そのまま意識に流れるのではなく、一端、脳のもとで選別、整理され、取捨選択された上で、必要な情報だけが意識野に上がる。
だが、夏輝はその脳の情報整理が不安定になっているのだという。
そのため、本来は脳が選別するはずの知覚情報が、未整理のまま直接意識に流れることがあり、それを脳が慌てて選別整理していく課程を認識してしまうことがあるのだ。
この場から得た情報の全てが、意識野の中で整理されていく課程──それは、いかにしてこの場ができ上がったのかという課程の想定と同義。
結果、朝凪夏輝は、まるで過去の出来事を読み取るかのように、想定経過を意識野に感じることができる。
それが過去を知る夏輝の異能〝知覚逆算〟の科学的解釈。
「知覚情報を多く得るということはね、裏を返せば、その処理に意識が余計な負担を受けるということだ。つまり彼女の意識は、その機能の多くをリアルタイムな情報処理に費やしている……端的に言えば、朝凪夏輝は直感的な情報には敏感だが、経験的な情報には鈍感なのだよ」
「ああ、それってば……つまり、どういうことだ?」
「ふむ、例えばだ」
松雪はコンロを弱火に切り替えて振り返る。
「彼女が、初めて食べた料理があるとする。その味や見た目、食感などから、材料や調理法などを逆算想定することは、プロの料理人顔負けの精度で可能。それこそ、調理する課程が感じ取れるほどにね。……だが、数日おいてから、改めて感想や料理名を訊いたりすると、どうにも
「それは、新たな知識を記憶するのが苦手ってことか?」
「少し……いや、厳密にはぜんぜん違うな。脳というのは、もともと記憶するということに長けた器官だ。得た知識は、思い出せないことはあっても消えることはない。覚えが悪いというのはね、記憶できないのではない。単に、物事を記憶と照合するのが不得手ということなのだ」
人の顔は思い出せても、名前が思い出せない──とか。
また、普段から日常的にこなしている手順が、不意に曖昧になったりなどは誰しもある。
現在進行形で得ている情報の処理ではなく、かつて得た情報の照合不具合。
いわゆる〝度忘れ〟というものだ。
人間が日々蓄積し続ける記憶は膨大である。
その膨大な記憶の中から、現在必要な情報を、その都度に検索し、選別して意識に示すことが脳の重要な役目。
例えば、知り合いに出会った時──。
脳がその人の情報、主に外見を検索キーにして、記憶の中から該当する各種情報を選別照合して意識野に通すことで、意識は〝ああ、この人の名前はAさん。自分の同級生だ〟という風に認識する。
だが、時おり、この検索がうまくいかないことがある。
日々増えて行く新たな記憶の入力ペースに、整理が追いつかなくなるのだ。結果、脳が作業をミスしてしまって、情報の取り出しがとどこおってしまう。
知り合いの顔を見て、自分とどういう関係の、どんな人物なのかもわかるのに、名前のみ思い出せない──これは、名前という記憶情報を、脳が記憶から見つけ出すことができないために陥る事態。整理選別のとどこおりによる軽度の記憶障害である。
だからこそ意識は眠り、知覚情報を遮断することで、脳に記憶整理に専念する時間を与えているのだともいわれる。
眠らずに行動し続けたり、思考を酷使すれば、物覚えが鈍り、物忘れも激しくなる道理である。
「夏輝君は、生まれつき知覚逆算の症状が出ている分、普通の人間よりも神経伝達の速度は発達しているようだが、それでも生身の人間だ。知覚逆算によって常人より遥かに多くの感覚情報を整理する以上、そのシワ寄せは必ず出る。PCが複数の処理や複雑な処理をすれば負担が重くなるようにね。
彼女の意識は、未整理のまま素通りしてくる知覚情報を、認識できる形に解析する作業でいっぱいいっぱいなのだ。脳は脳で、今感じ取っている情報の整理に追われているせいで、過去に覚えた情報を取り出してくるのにまでは手が回らない。だから彼女は、過去に得た記憶情報を、即座に思い出すことが苦手なのだ。
忘れているわけではないから、少々時間をかければ思い出すが、それは常人でいうところの度忘れと大差なく、結果として、彼女は物覚えが悪いように見えるし、脳が記憶整理に専念するための眠りが、とても深い」
黎斗はベッドで寝息を立てている夏輝を見やる。
確かに、まるで意識を失うように睡眠状態になったところを見るに、普通の人間が眠いというのとは、また違っているのかもしれない。
「だからまあ、そのへんは黙って呑み込んで支えてあげるのが、男の度量というものだろう。違うかなアリスちゃん」
「有栖川だ。テメエは覚えてんだからちゃんと呼べ」
黎斗が半眼で睨み返せば、松雪は肩をすくめて料理の鍋に向き直った。
(名前が覚えられない……ね)
正確には、過去に得た情報を即座に思い出せないということらしいが、それでも有栖川のアリスという部分だけがハッキリしていたのは、そこは印象が強い──すなわち記憶の検索が楽だったということだろうか?
確かに、黎斗は外見だけならば、何たらの国のアリスにイメージが似ているとして、左近にからかわれたことがある。
「微妙に腹が立つな」
小さくぼやきつつ、夏輝の寝顔を睨む黎斗。
「ふむ、確かにけしからんね」
うなずいて言葉を継いだのは料理の皿を手にした松雪。
「見たまえ、ああして仰向けになってもなおタオルケットを盛り上げる見事な双丘。ほぼ形も崩れていない。大地の重力すら跳ねのけるなど、実にけしからんよ」
「…………そんなに乳が好きなのか、おたくは」
黎斗が思いっきり冷めた眼差しを返せば、松雪は逆に不可解そうに片眉をしかめる。
「オッパイが嫌いな者などこの世にいるのかね?」
相変わらず真顔のまま、声音も朗々と、本当にこの男はどこまで本気かわからない。
「まあ座りたまえ。彼女は当分目覚めそうにないし、とりあえず我々だけでも食事にしよう」
フローリングの床にどっかり
「カレーは嫌いかね?」
「あ? カレーが嫌いなヤツなんてこの世にいるのか?」
「然りだな」
微笑で肯定する松雪。
黎斗はスプーンを指先で弄びつつ、これ見よがしにボヤく。
「単に、お宅が作った料理に警戒してるだけだっての」
「だったら安心したまえ、私は高校時代に本格インドカレー専門店で四年バイトしたからね」
「なんで一年多いんだよ、留年したのかよ」
「私にも色々と青春のイザコザがあったのだよ」
遠い眼差しでカレーを食す松雪。
黎斗も溜め息とともにスプーンを口に運ぶ。
途端、確かな食感と、香辛料のほのかな風味が舌の上に拡がった。
言い換えれば、具が固くて、ルーの味が薄いということである。
「……微妙に美味くない」
「何と?」
「煮込みが足りないのは仕方ねえけど、材料の下拵えとかちゃんとしたか? 切って煮て市販ルーぶち込んだだけじゃねえのかこれ」
黎斗の指摘に、松雪は「ふむ」とうなずく。
「切って、煮て、ぶち込んだだけだね」
「四年のキャリアはどうした」
「仕方ないだろう。そのへんは店長のインド人が独占していてね、私には任せてくれなかったのだよ」
本格インドカレーのプライドが災いしたのか、松雪が頼りなかったのかは定かではないが、何にせよ、不満を堪えて食べ続ける意味はない。
「ちょっと待ってろ」
黎斗は互いの皿を手にコンロへ向かうと、冷蔵庫や戸棚を検める。
「……んだよ、ロクなもんねえな」
まあ、今日そろえた設備なれば無理もないか──と、その乏しい素材から選別して松雪カレーの味を改良する。その手際良い姿に、松雪は感歎をもらした。
「ふぅむ、見た目だけなら美少女が手料理を振る舞ってくれている光景なのだが、実に残念だな。……ところで、七味の内ブタを外して何をする気だね有栖川君」
「あーもう、死にたくなかったら黙ってろよ変態教師」
やがて改めて床に並べられたカレーの皿。
「食いかけてた分はドライカレー風に仕上げ直した。さっきよりはマシなはずだぜ」
「いや、マシどころではないよ! これは我が師の味にも匹敵する味わい深さ。まったく、つくづく男のコなのが残念だなキミは」
「おい、今〝コ〟を強調しなかったか?」
「いやいや、私はこう見えて性癖はノーマルなのだよ」
「そりゃ確かに意外だが、そういうことじゃねえだろ」
「……カレーの匂いがしますね……」
「「おわぁッ!!」」
突然割り込んできた夏輝に、黎斗と松雪がそろって声を上げる。
いつの間に目を覚ましたのか、黎斗の背後、肩ごしに覗きこむ形でカレーの匂いに目を細めている。
否、細めているというより、とろんとトロけているというべきか。
黎斗の細い肩に
(……て言うか、これは半分寝てんのか?)
「……おなか、すきました……」
呟いた直後、黎斗が食べようとしていたスプーンに、ハグッと横合いからかぶりつく。
「あ! テメ……!!」
抗議する黎斗をよそに、夏輝はゆるやかにカレーを味わって嚥下する。
「……おいしい……」
幸せそうに微笑む姿は、普段のどこか張り詰めた雰囲気とは別人のごとくまったりと。
それはもう本当に、あまりにもまったりと弛緩していて、黎斗の方まで気が抜けてしまった。
「……あぁ、もういいよ。おたくが食え」
そう言って皿ごと手渡せば、夏輝は一瞬キョトンとしたものの、すぐにふにゃりと相好を崩し、後はもうカレーしか見えていない様子でゆるゆると食べはじめる。
「何なんだ?」
「何だも何も空腹だったのだろう。今日は一日、色々あったのだから無理もない」
ひとり黙々とカレーを食べながらの松雪に、黎斗は不可解そうに口の端を下げる。
「腹減ると、この女はこんなにフニャフニャになるのか?」
「というより、こっちが素なのかもね。まあ、寝ボケているせいもあるだろうが、いずれにせよ、キミには気を許しているということだろう」
「は? オレに? 何で?」
「私に聞かれても知らないよ。まあ、好かれているなら結構なことじゃないか」
はぐらかしているのか、妬んでいるのか、どちらにせよのらりくらりとまともに答える気はなさそうな松雪に、黎斗もまた言及するだけ徒労だと、自分のカレーを新たによそって食べはじめる。
しばし、黙々と食事する三人。
「……ごちそうさまでした……」
やがて、夏輝は食べ終えて手を合わせるなり、パタリと倒れる。
すぐにも寝息を立てはじめた彼女に、黎斗は心の底から呻いた。
「わかんねえ……」
どうにも妙な女である。
魔法使いを捜す探偵役として大丈夫なのか心配だが、他にアテがあるわけでもない。
溜め息とともに、黎斗は再度、夏輝を抱え上げてベッドに寝かせ直す。シーツをかけてやれば、やはり、夏輝は相当に寝ボケているのだろう。
「……ごめんね、アイリ……」
──と、寝息の合間にポツリともらした。
「アイリじゃなくてアリスだ。……いや、アリスでもねえんだけど」
「もうアリスちゃんでいいじゃないか」
笑声をもらす松雪に、黎斗は半眼で睨み返す。
「つーか、結局おたく、何しにきたんだよ」
「ほほう、わからないのかね? 脱走した問題児を連れ戻しにきたに決まっているじゃないか」
「げ……」
言われてみれば、確かに黎斗は脱走中で、松雪は天鈴学院の職員である。マヌケに過ぎるが、完全に失念していた。
身構える解体魔に、だが、松雪は「ま、やめておこう」と、頭を振る。
「無理に連れ戻しても利はなさそうだしね。正直、キミに構っているヒマはないというのが現状なのだよ。なら、適材適所だ」
良くわからないことを並べつつ、松雪は玄関へと向かう。
「……この女が、オレの目付役ってことか?」
自嘲気味な黎斗の解釈に、松雪はあきれも深く返す。
「逆だよ。キミが、彼女の目付役だ。事件が収束するまで、彼女のそばを離れないようにしたまえ。さっきも言ったが、今の彼女が気を許しているのはキミだけなのだ。何せ、三ヶ月あまりも自分の殻に閉じこもっていたのだからね」
やれやれと独りごちた松雪。
そのまま暇を告げようとする彼を、どうにも意味をつかみかねた黎斗は呼び止めた。
「待てよ。わかんねえけど……やっぱり、これは魔法使いが起こしてる事件なのか?」
「キミの質問こそ要領を得ないね。もっと簡潔にまとめたまえ」
「だから、えーと……告発状を送ってる魔法使いは、この女の知り合いで、予知能力の異能者なのか?」
天鈴学院が黎斗のことを保留し、夏輝の動向を気にしはじめたのは、そういうことなのではないのか?
引きこもっていた探偵少女を更正しようとしたのに、余計に心の傷を広げるような事件が起きているから、慎重になっているのではないのか?
松雪は「ふむ……」と、小さく鼻を鳴らす。
「いいかい有栖川君。有史以来、予知能力者などというものは存在したことはない。世界に語られる予言譚は、いずれも後世からさかのぼって
ひと息に、そう断言する。
「そもそも、キミらは軽々しく〝未来を予知〟と言うがね。その未来とは何だね? これから起こる全ては、予め運命的に定められているとでもいうのかね? だとしたらなおのこと、今回の事件が未来予知者の犯行などとはあり得ないよ。予知した内容と、訪れた現実にズレを生んでいるのだからね」
未来の罪を予知し、対象を殺してその罪を未然に防いだら、その時点で未来は変わってしまったということ。
すなわち、予知は外れたということになる。
「まあ、仮に未来を読める者がいたとしても、この事件に関わっているのは未来予測者だろう。それならば、あり得なくもない話だ」
「予知と予測……って、どう違うんだ?」
「予知とは予め知ること、予測とは予め測ること。つまり、確定した未来を知るのが予知で、未来の可能性を測るのが予測だ。
要するに、未来予測者とは、夏輝君の逆の能力……現在の情報から過去を逆算するのではなく、未来を計算するのが未来予測だ。身近な例でいえば、天気予報などがそうだね。気象学と過去の統計データから、未来の天候を計算し予測する」
雨が降るという予報を聞いて、傘を持参したために濡れずに済んだ──すなわち、予測にもとづいた行動により〝雨に濡れる〟という未来を回避したということ。
確率的に導き出された未来ならば、変動もありえる。
「仮にだが、高い精度で未来を予測できる者がいたならば、より良い未来へと行き着くために、予測をもとに現在を改変するということも、理論上は可能かもしれないね」
「なら、そんな未来予測者にはどう対抗すればいいんだ?」
何せこの件の犯人は、降ってくる鉄骨の束を悠然と
黎斗が語れば、松雪は少々ウンザリしつつも、律儀に応じてくれた。
「未来予測者は、あくまで可能性の算出者であって、未来を操っているわけではない。つまり端的に言えば、未来の選択肢を潰せば良いのだよ」
選択肢から正解を取り除き、どれを選んでも〝詰み〟という状況に追い込む。
極論的な例で示せば、開けた場所で、四方八方から捕縛用ネットなどを投げかけられれば、事前に道具や武器でも用意していない限り対処できない。
「でも、その包囲網すら予測されてたら?」
「だから多重に罠を張り続けて追い込むのさ。扉を開けたら罠だ……と予測して、開けずに回避という程度はできるかもしれない。だが、その先や、さらにその先、
例えば、将棋に置き換えて考察すると──。
「普通の者が〝三手先までわかる〟というハンデつきでプロの棋士と対戦しても、何十手も先まで組み上げて打ってくるプロを相手に勝つ見込みは薄い。逆に、定石もルールもろくに知らぬ素人が適当に打ち回したことで算段を崩され、プロが負けてしまうケースもある。
九×九の八十一マスという盤上で、計四十の駒を用い、特定のルールに則った範囲でも、戦局の予測は不確定要素が多大に絡むのだ。ルールから解き放たれた現実世界ではどれほどに膨大な変動値を生むことか……。
いいかい有栖川君。未来予測というのはね、ごく近い未来、それこそ数秒後とか、次の行動とか、そういう短いスパンでしか有効ではないのだよ」
計算である以上、先の未来になるほど指数関数的に可能性は肥大していき、選択肢は無限に増えていく。
仮に、夏輝のように、脳の情報処理機能の暴走によって未来を計算する者がいたとしても、その予測範囲は知れたもの。
確定された過去を逆算することでさえ、脳や心肺に多大な負荷が生じるのだ。変動する未来ともなれば負荷の重さは尋常ではない。
「現実の未来を確定的に算出するなどと、そんなバカげた処理には、それこそ量子コンピュータでも開発しなければ無理だろう。どのみち、不確定性原理の問題を乗り越えなければ、百パーセントの未来予測などできはしない」
「量子コンピュータ?」
「やれやれ、キミの知識は本当に偏っているね。まあ、要するにスーパーコンピューターよりさらにハイパーでターボなドリームコンピューターだ。仮にも解体魔を名乗るなら勉強したまえ。いつか解体に挑むことがあるかもしれないからね」
多分、冗談の類なのだろうが、表情と声音は相も変わらず大マジメなので、何とも判断に困る。
あるいは、どうせならそのくらいまで極めてみせろという、彼なりの叱咤激励なのだろうか?
微妙に反応に困っている黎斗だが、当の松雪は特に構う風もない。
「ともかく、未来予測とは、先の出来事になるほど非常に曖昧で不確定になるということだ。まあ、例外を知らなくはないが…………いずれにせよ、該当する症例者も容疑者も見つかっていないよ」
松雪はしゃべり疲れた様子でそう結び、玄関のドアを開く。
途端に室内に流れ込んできたのは、ジワリとした湿気と、ザワめく雨の音。
街灯に照らされた景色には無数の流線が降り注ぎ、彼方には遠雷も響いている。
「やれやれ、本格的に降っているね。まあ、雨の中を歩くのも一興か」
苦笑しつつ、松雪は自前の傘を片手に帰っていった。
静かに閉じられた玄関ドア、それを睨みつつ、黎斗は今の会話を脳裡に
「未来予測……か」
松雪によれば、現実的にあり得ないとのこと。
確かに、今回の犯人は一週間後の罪を予告している。未来予測の有効範囲ではないのだろう。
だが、それは医学的、科学的解釈での未来予測である。正真正銘、超常的な未来予測を行う者がいたとしたら……?
否、あるいは犯人の異能力が、結果的に未来予測に見えている。もっと言えば、そう見せかけているのだとしたらどうだろうか?
「……どっちにしろ、調べてつきとめるしかねえのは変わんねえか」
そのためには、やはり、夏輝の協力が必要だ。
今日が七月四日で、黎斗が受け取った告発状に記された日付は七月八日である。
もう、猶予はないのだ。
黎斗はわき上がる焦燥を抑え込みつつ、居間へと戻る。
ベッドで寝息を立てている夏輝を何の気なしに見やって──。
ふと、その枕元にあるものに目を留めた。
枕とシーツに挟まれるようにして覗いたそれは、コンパクトな液晶板。スマートフォンかと思ったが、それにしては薄く幅広だ。
あんなもの、ずっとあっただろうか? もしかして枕の下にでも隠していたのか?
何にせよ、そんなところにあったら寝返りで落としたり壊したりしそうだったので、そっと取り上げた。
改めて見れば、どうやらそれはデジタルフォトフレームのようだ。
デジカメやらケータイやらで撮った写真を保存して、スライドショーしたりする、要は電子アルバムだが──。
黎斗はしばし逡巡しつつも、結局、好奇心に負けて電源を入れた。
フレームに映し出されたのは、ふたりの少女が並んで写った姿。
学校? 養護施設? 何となくそんな印象の施設を背景に、白いレインコートを着たポニーテールの少女と、同じく赤いレインコートを着たセミロングの少女が手をつないで、カメラに向かって微笑んでいる。
白いレインコートにポニーテールの方は、たぶん、幼い頃の夏輝だろう。見た感じ十歳前後の頃か?
赤いレインコートの少女は、誰なのかわからない。やはり十歳前後に見えるが、顔立ちは特に夏輝に似ていない。なら、普通に友人だろうか。
保存されている写真データはその一枚だけのようだ。
家財を処分した上で、なお、その一枚だけが保存されたフォトフレームを後生大事に枕元に置いている。なら、夏輝にとってはよほど大切なものなのだろう。
黎斗は多少の罪悪感と自責を抱きつつ電源を切り、フォトフレームをもとの位置にそっと戻したのだった。
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