5章 魔法使いの後悔

魔法使いの後悔(1)


 人間のように光学情報に頼る生物は、あまりに強烈な光量を視覚に受け入れてしまうと、肉体が一時的に機能停止してしまう。


 見当識失調。


 意識はただ〝まぶしい〟という感覚にぬり潰され、五感がパニックを起こし、正常な身体操作が不能になってしまうのだ。思考は真っ白になり、全身の筋肉は反射的に萎縮して膝を抱えるように身を丸め込む。

 それらは生体的な反射作用であり、意志や胆力で抗えるものではない。


 今の有栖川ありすがわ黎斗れいとは、まさにその状態にあった。


 何が起こったのか? その疑念すらも浮かべられないまま。

 耳の奥で響いているのは音なのか耳鳴りなのか、視界に明滅する赤黒い色彩は視ている光景なのか視えていない闇なのか、ただ、息苦しさにさいなまれるままに大きく息を吸い込んだ。


「……ッカッ……ガハッ!」


 ヒリついた喉の感覚を皮切りに、失調していた五感が急速に回復していく。


 静まっていく耳鳴りに替わって届く喧騒。


 未だ漂白されたままの視界。


 身を起こそうとするが、うまくいかず、前のめりに倒れ込んだ顔面を、柔らかな感触が受け止める。

 柔らかな、それはやけに心地良い感触。


(あー……何だこれ? スゲーふにょふにょして、いい匂い……)


 視界は未だぼやけてよく見えない。

 混乱した意識のままに、その柔らかな弾力を両手で確認する。やがて思考がハッキリしていく中で、解体魔の卓越した立体空間認識能力が、それが女性の胸部隆起──乳房であると理解した。


 同時に、視界が回復する。


 仰向けに倒れた朝凪あさなぎ夏輝なつき、その胸の谷間に思いっきり顔面を埋めている黎斗。


「うわぉ……ッ! いや、これはチガウですよ!」


 思わずこぼれたのは取り乱した謝罪。

 驚きとか役得とか以前に、冷笑と鋭い蹴りの報復を連想して速やかに身を起こす。

 だが、幸いにも……というか、夏輝の方は気を失っていた。

 ホッと息をついたのも束の間、背後から爆竹でも弾けたような炸裂音が立て続けに鳴り響く。


 振り向けば、そこには断線して垂れ下がった二本の電線が青い火花を散らして揺れていた。


 いったい、何が起こったのか?


「……確か、あのチンピラが仕返しに追っかけてきて……」


 そう、黎斗は背後から殴りかかられたのだ。

 その先は覚えていないが、状況から察するに頭上の電線が断線して降ってきたのだろう。そこを夏輝がかばってくれたというところか。


 視界に弾けた閃光は、電線からの高圧電流を何かが受けて発生したのだろう。


 黎斗も夏輝も、見たところどこにも電熱の焦げ跡など見当たらない。

 そもそも、あんな閃光を放つほどの電圧を受けていたとしたら無事では済まないはずだ。


「……あの野郎は、逃げたのか?」


 周囲には遠巻きに集まっている野次馬たち。

 彼らが恐々とざわめきながら注視しているのは、黎斗たちよりも、地面に放射状に拡がった黒い焼け跡。


 否、黒いというよりも赤黒い。

 その色彩と、鼻の奥に絡みつくような臭気の意味を、黎斗はようやく理解した。


 つまり、トンガリ髪の少年は逃げたのではなく──。


「……ん……ぅ……」


 かすれた呻きをもらした夏輝。

 気絶から覚醒したのだろう。まだ朦朧もうろうとしたまま、起き上がろうと身をよじる彼女を、黎斗は舌打ちも激しく抱え上げる。

 突然に抱き上げられて驚く夏輝。


「……? なッ!? どうしたんですかアリスちゃん」

「だから! その呼び方はやめれ!」


 腹いせのように吐き捨て、黎斗はその場から駆け出した。

 野次馬をかき分け、喧騒を後目に、ともかくこの場を離れるために全力疾走する。


「ちょ、ちょっとアリスちゃん! 下ろしてください! こ、これは色々と無理があります!」

「うるせぇ! ただでさえ重くてキツいんだから騒ぐな!」

「お、重くないです! 平均値です。身長差のせいでそう感じるだけ、つまりあなたが小さいんです!」

「うわ、わかったから! 動くなって……ぇ!」


 抱え上げられているのが恥ずかしくて食ってかかる夏輝と、胸のふくらみを押しつけられて動揺する黎斗。


 互いに赤面して争いながら、ともかくも喧騒の範囲から逃れたところで黎斗は立ち止まり、そのまま力尽きてヘタり込んだ。

 巻き添えに倒れた夏輝は憮然ぶぜんと立ち上がりつつ、黎斗を睨み下ろして問い質した。


「いったい何が……!? ちゃんと説明してください!」


 怒っているというより焦っている風の剣幕に、黎斗は呼吸を懸命に整えながら苦笑う。


「ハッ、おたく……何だよ、このくらい……で。だいたい、こないだは、裸で組み伏せてきた、クセに……抱き上げられるのは……恥ずかしい……って、意味わかんねえ」

「う……それは……っ……。ともかく、説明!」

「……おたくが、かばってくれたんだろう? あのトンガリ髪が襲ってきたから」

「そうですよ。そこに千切れた電線が降ってきて……その後はわかりません。状況を把握する前にあなたが……あんな、抱き上げて……」


 言葉の最後はゴニョゴニョとしぼんでかき消える。

 普段の夏輝らしからぬその反応。

 チビに抱き抱えられたのがそんなに恥ずかしいのかと憤慨しつつも、黎斗はダメ押しの深呼吸で調息して立ち上がる。


「多分、あのトンガリ髪のチンピラが死んだ……というか、電線の高圧電流くらってんだと思う」


 あの激しい閃光と、地面に残った赤黒い跡。高圧の電気に人体が耐え切れず、蒸発して弾けたのだろう。


 電気というのは実際にはとても非効率的なエネルギーであり、発生した端から急速に衰えて消えてしまう。ゆえに電力を安定して送電するためには、供給量の何千倍何万倍もの高圧電気を生み出さなければならない。


 だから、送電線に流れている電圧は想像以上の高圧であり、漏電に巻き込まれると、時に感電どころでは済まない惨事になるのだと、以前に松雪まつゆきが言っていた。


 黎斗の説明に、夏輝は真剣な怒りを示す。


「人死にが出たのなら、なおさらあの場から逃げてはダメでしょう。面倒でも、警察に説明しないと……」

「うるせえな。事情聴取でも何でも、後で改めて出向けばいいだろ。状況だって、後から聞けばいい。わざわざ逆算して見るもんじゃねえ!」


 高圧電流で弾け飛んだ人間の痕跡なんて、知覚せずに済むならそれに越したことはない。

 そっぽを向いてぼやくようにそう告げた黎斗。


「ああ、そういうこと……ですか」


 つまり彼は、夏輝に惨劇を逆算させないよう頑張ってくれたということなのだろう。

 夏輝は了解し、吐息とともに微笑した。


「わたしの逆算は、知覚情報をもとに過去を推測する能力です。だから、痕跡を読み取ったからといって、過去の情景を映し視るわけでも、体感するわけでもない。あくまで、という課程を知るだけなんです」


 だから、あの痕跡を逆算したからといって、正確には、人が弾け飛ぶ光景を視認するわけではない。


「……ハッ、そうか。余計な世話だったな」


 苦笑う黎斗に「けれど……」と、夏輝は語気を強める。


「理屈はそうでも、意識に想起される情報は、想起するわたしにとっては実質的に記憶の回想と変わらない。痕跡が強ければ、それだけ生々しく想起されてしまいます…………だから、助かりました。ありがとうアリスちゃん」


 素直に礼を言われた黎斗は、どうにも複雑なしかめっ面でそっぽを向いた。


「……その呼び名はやめろっつってんだろ」


 吐き捨てた抗議もどこか歯ギレが悪い。

 そんな少年の様子を微笑ましげに見やりながら、夏輝が大きく吐いた溜め息は、熱く火照った熱気にあおられたもの。


「それにしても、暑いですね……」


 ただでさえ暑い夏日の中でこの騒動、今すぐ冷水のシャワーでも浴びたい思いでしみじみと呟けば、傍らの黎斗も深くうなずく。


「ああ、暑いな。でも脱ぐなよ」


「………………」


 冷静な警告に、夏輝はすでにたくし上げていたシャツの裾を下ろして静かに反論する。


「こんな往来で脱ぐわけがないでしょう。人を露出狂のように言わないでください」

「……おたく、今、半分脱いでたからな?」


 黎斗は真っ赤になった渋面を背けて吐き捨てる。

 座った黎斗からは角度的に半分どころの騒ぎではなかったのだが、当の夏輝は相変わらず気に留めた風もない。


 そんなことよりも、夏輝の思考を捉えているのは先刻の断線事故である。


 黎斗を襲おうとした者に、たまたま断線した電線が直撃した?

 電線なんて、そうそう断線するものだろうか?


 ならば、さっきの電線の事故は、偶然なのか? 必然なのか?


(まさか、あのトンガリ髪まで告発状を受け取っていたのでは……?)


 ほぼ思いつきのような推測は、わき上がる嫌な予感に急き立てられてやけに重く、夏輝は込み上げるままに呻きをこぼしたのだった。


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