魔法使いの考察(2)
朝凪夏輝は、自身の預かり知らぬはずの過去を知覚することができる。
ある場所にて、過去に起きた出来事を、あたかも時を
その異能は、物心ついた時にはすでに発現していた。
幼い頃、見ても聞いてもいないはずの事柄を、まるで今まさに見て体験してきたかのように語る夏輝を、周囲は気味悪がったものだ。今思えば当然であるが、当時の夏輝は己の特殊性を理解していなかった。
長じるにつれて、自分が感じているものは、他の者にはわからないものであり、自分が知覚しているものが過去の情景なのだと了解した。
そして、七年前──。
あの〝魔法使い〟に出会い、彼の示した通り、持って生まれた才能として受け入れてからは、それに翻弄されることもなくなった。
否、なくなっているつもりだった──というべきか。
夏輝は込み上げる歯がゆいものを呑み込みながら、眼前の医者を問い質す。
「わたしのサイコメトリーが、脳の障害ですか?」
「サイコメトリーは、物体の残存思念を読み取るという創作上の超能力だよ。キミの症例はそんないかがわしいものではない。そもそも、厳密にいって、キミは過去を視認しているわけではないだろう?」
松雪の指摘は、その通りだった。
夏輝は、その場に起きたことを、すでに知っていたかのように知覚するのである。
落ちている空き缶を見て、その空き缶がいかにしてそこに放置されたのかの課程が知識の中に滑り込んでくる。それは記憶の
「私は、キミのような症例を〝知覚逆算〟と呼称している。それは言葉の通り、今この場に残った痕跡情報をもとに計算することで、この場がいかにしてそうなったのかを知覚してしまう……すなわち、結果から過程を逆算するという症例だ」
例えばだが──と、松雪は窓の外を示す。
「普通の者でも、ふと窓の外を見て庭全体が濡れていたなら〝ああ、雨が降ったのだろうな〟と、過去の雨天を逆算できるだろう。
もちろんそれは、誰かが大量の水をバラまいたという可能性もあるかもしれないが、そうする必然性というものが見出せない以上は、雨が降って濡れたという解答は限りなく事実の可能性が高い推測であるはずだ。
さらには土の湿り具合、陽射しの強さや角度、軒下への降り込み具合、室内と外の湿度差や庭木の様子なども検証すれば、いつ、どのくらいの雨が、どのように降ったのかも計算して導き出すことが可能だろう」
〝外が濡れている〟という痕跡から、〝雨が降った〟という過去の事象を知覚する。
その原理自体には特異も何もない。
朝凪夏輝が特殊なのは、その知覚範囲、つまりは情報の獲得量が常人を遥かに
「物事の痕跡というのは、膨大な情報量を秘めているものだ。人がただ数メートル歩いただけでも、そこには必ず痕跡が残るものさ。靴底と床との摩擦。衣服から散った繊維クズ。それらは非常に微細な痕跡だが、もし読み取れたならば、通常とは比べようもない精度と規模で過去の事象を逆算できる」
そして、実はそれらは、人間の感覚器の精度ならば、本来読み取っているはずのものなのだと松雪は言う。
「意識とは脳の奴隷である──などという無粋な言葉をキミは知っているかね? 言葉はともかく、示していることは確かな事実だ。人が目で見た映像は、まず脳によって処理をされてから、意識野に上がる。それは五感の全てに同じこと。前述の通り、自然界に満ちる情報の量というのは非常に膨大だ。それらの全てを感じるままに通していたら、認識の負荷に意識が耐えられない。だから脳は最低限必要な情報だけをわかりやすく補正して、余計な情報をカットすることで意識への負担を可能な限り軽減しているのだ。これは脳という器官が
膨大な情報整理は非常に複雑で消耗も大きい。
だから生物は眠る。
起きている間に溜まりに溜まった知覚情報。その整理に脳が専念するために、肉体を休眠させる。
睡眠時に見る夢とは、脳が情報を整理している課程にて、意識野にこぼれてもれた情報の断片なのだという説もある。
「さて、ここでカットされていく情報というのは、当然ながら、五感から入ってきたその場の確かな情報なわけだが、もしもこの〝脳が切り捨てた情報〟までも、意識が知覚することができたなら。その上で、知覚した情報を処理して組み上げることができたなら、意識には何が浮かび上がるだろうか?」
今この場に残る膨大な痕跡情報が示すもの。
「結論を言えば、夏輝君、キミの〝知覚逆算〟とは、本来は意識の外で行われるはずの脳による情報の取捨選択を、その整理課程を、意識野で捉えてしまっているがための症状だ。だからこそ、キミは過去を感じ取るたびに激しい頭痛と疲労、心肺の乱れにさいなまれることになる。いや、むしろそれで済んでいる分、キミの神経系や精神力が
今日の鉄骨落下の現場。あの柱のキズ。
夏輝の脳は知覚したキズの形状から得物を解き、キズの位置から身長を解き、前後の状況と合わせて理由を解いた。
その脳の情報整理過程を、夏輝は意識で捉えていたということ。
「まあ、長々と小難しいことを並べたが、要するにキミは、〝風が吹けば桶屋が儲かる〟──という
痕跡から逆算して組み上げた、あくまで情報整理による過去の推論。
だからこそ夏輝には、そこで何者かが行った行為は読み取れても、その何者かの姿は読み取れない。刻まれた痕跡から推測できることしかわからない。
「キミは病人だ。症状は大脳機能の不順による記憶障害。とはいえ、それが生命に別状なく、日常生活にも支障をきたしてはいないため、治療の必要性はないというだけのこと。……もっとも、それは三ヶ月前までのことだがね。今のキミは、
淡々と問診結果を告げた松雪。
夏輝はただの病人。
魔法使いでも、ましてや超能力者などでもない。
なるほど、松雪の示した理論は、確かに理屈が通っている。
少なくとも、物体の残存思念などという不確定な架空の概念よりは、確かな理論だろう。
しかし、それならば──。
「あなたは、いったい何なのでしょうね……」
誰にも聞こえぬほどに微かな声で呟いた夏輝。
斜めに睨んだ視線の先には、あのレインコート姿の少女がいた。
外周沿いに並ぶ窓ガラス、その内の一枚が開け放たれ、今まさにそこから建物内に侵入しようという体だ。
少女はその幼い体躯で器用に窓枠に足をかけ、こちらに背を向けた姿勢でふわりと、いかにも衝撃を感じさせない軽さで床に着地する。
その瞬間、リノリウムの床がキュッとやけに甲高い音を立てた。
振り向いた少女。
目深にかぶったフードの下、恨めしげな眼差しが夏輝を射貫く。
「さて」
先行していた松雪が手を打ち鳴らした。
途端、レインコートの少女は跡形もなく消え失せた。無論、窓も開いていない。全ては夏輝の意識に、その記憶に流れ込んできた幻影である。
「話が脱線している間に到着してしまった。まあ、これを見てくれたまえよ」
松雪が指し示したのは廊下の突き当たり、角を折れたところにある扉。
他の部屋の入り口とは違い、頑丈な両開きの鉄扉が設えられたそこは、どうやら部屋ではなく、外に通じる裏口のようだが──。
「出入口のひとつだが、便が悪いので創立当初からずっと閉鎖されていてね。奥まっていて人目につきにくく、監視カメラも設置していないし、警報の類もない。もしも隠れて出入りするなら絶好のポイントなわけだが、見ての通りだ」
扉は、本来シリンダー錠があるべき場所がポッカリ空洞になっている。
横の松雪がツイと差し出したビニールパックには、バラバラの残骸となった元シリンダー錠の部品が収められていた。
「誰かが隠れて出入り……いや、出ていったわけですか」
「ふむ、昨日の夕方五時過ぎだ。廊下の清掃をしていた女生徒が、開け放たれたままになっている扉と、床に散っている鍵の残骸を発見した。そして、同日、当学院に所属する生徒がひとり、行方不明となっている」
松雪の説明に、夏輝は吐息も浅く「アリスちゃんですか……」と、力なく呟いた。
「その通り。ああ、そういえば、彼はキミのところに転がり込んでいたらしいね。なにも
「……いえ、特には。むしろわたしの方が、彼を二回ほど蹴り倒してしまいました」
少なからず申し訳なさそうに言うものだから、松雪は思わずという様子で笑いをこらえる。
「まあ、キミに蹴られたなら御褒美みたいなものだろう。ところで、この扉だが、女生徒が発見するほんの五分ほど前には、錠前はキズひとつなく健在だったのだよ。寸前に私自身が見まわりで確認しているからね、間違いない」
発言の前半はともかくとして──。
ビニールパック内の鍵は
これを五分かからずにやってのけたというのは、確かに驚きだが。
「これが、あのアリスちゃんの異能力なのですか?」
呼称よりも、異能という表現に松雪は苦笑しつつ、「まあ、そうだ」と肯定する。
「アリスちゃんこと
松雪の説明に、夏輝は脱力して肩を落とす。
(……〝魔眼〟持ちときましたか……)
その自称〝魔眼〟の力で、黎斗は鍵を解体して脱走したわけか。
「彼はもともと、世間で自分の解体能力を勝手気ままに行使して騒ぎを起こしまくった果てに、更正のため、この学院で預かった子なのだよ」
「そんな問題児はちゃんと見張っておいてください」
「ふむ、まったく面目ない話だ。まあ、それはそれとして、ひとつ、キミに読み取って欲しいのだ。逃走経路だと思われるこの裏口だが、実は扉の外には足跡をはじめ、痕跡が全く残っていなかったのだよ。普通に調べた範囲ではね。だから、実際問題としてどういう経路で脱走したのか、確かな結論が出ていないのだ」
「本人に訊けば良いのでは?」
「それができれば苦労はしないよ。仮に訊いても、素直に応じてはくれまい」
肩をすくめる松雪に、夏輝も内心で同意する。
確かに、あの少年が正直に答えてくれるとは思えない。
「脱走経路を解き明かすことは、今後の脱走劇に備える意味で有意義であるし、わからないことを放置するのは気分的にもスッキリしない。そして何よりも……」
松雪は、その表情と声音を至極真剣に引き締める。
「ひとりの科学者として、キミの〝知覚逆算〟を直に観測してみたいというのが本音だ」
「それは……」
「ダメかね? 少なくとも、これに関しては血なまぐさい悪意はありはしないよ」
何が気に入らないのかね? と、小首をかしげる松雪。
その白衣姿を斜めに睨み上げて、夏輝はウンザリと吐き捨てる。
「わたしはもう、そういうことはやめたんです」
夏輝の拒絶に、松雪はしばしその心変わりを期待するように黙していたが、やがて、いかにも仕方がなさそうに吐息をこぼしつつ切り出した。
「こういう露骨な挑発や誘導は好きではないが……有栖川君の脱走に関してはひとつ気がかりがあってね。どうやら彼は魔法使いに会うために、ここを脱け出したのかもしれないのだよ」
微かに息を呑んだ夏輝。その動揺は傍目からも歴然と。
「その魔法使いというのは、わたしの知っている〝魔法使い〟ですか?」
「さて、そもそも、魔法使いなどというものが現実にはそうそういないだろう」
「…………」
夏輝はそれ以上は追及せず、口を
正確には、これから襲いくる頭痛と吐き気をこらえるために歯を食い縛ったのだ。
直後──。
夏輝の意識野にて、鍵の部品が床にバラけた情景が、逆回しに思い出されていく。
バラされていた部品が次々と舞い上がり、崩れる前の形を取り戻していく。
その課程には、打ち壊すような荒々しさはない。
流れるような復元の様。
けれど逆回しの終わり──つまりは、解体の最初の一手、金属カバーを外す時だけは、一撃と表するべき鋭い衝撃がくわえられていた。
ただ、その衝撃は金属部品を破壊するほどではない。パッと見てわからないレベルの細かなキズや歪みは生んでいるが、その程度だ。
痕跡からの事象の逆算。
松雪の説明を受けたせいか、いつもよりもスムーズに状況を認識できている自分に、夏輝は複雑な思いを抱きつつ、読み取った内容を吟味する。
不可解なのは──。
その速度はもとより、作業工程だ。
見る限り、この解体作業は、それこそ機械的なまでにスムーズに解体されている。まるで各部品の連結が即座に解き放たれたかのように、散らばる部品の流れは少しの淀みもとどこおりもなく、それこそ砂がこぼれ落ちるように流麗であった。
器用──と、そのひと言で片付けるには異様である。
あの解体魔の少年は、真実、物体の構造を読み取る〝魔眼〟を持っているということなのか?
「……松雪先生。この解体魔の能力も、あなたに言わせれば病気なのでしょう? どういう理屈で物の構造が視えるのですか?」
「さて、キミなら解体作業を直接に読み取ればわかるのではないかな。今も、ある程度は推測できているのだろう?」
推測ならば、確かに。
だが、あえて遠回しに隠されるのは良い気分がしない。
「じゃあ、〝魔法使い〟を捜している理由は?」
「ふむ、それは本人に訊かないとわからないね」
わざとはぐらかしているのか、本当に知らないのか、何とも食えない返答に、夏輝は「……もういいです」と吐き捨て、
「む、どこへいくのかね?」
揺れるポニーテールを呼び止めれば、彼女は切れ長の
「そこには、逃亡の痕跡は残っていませんよ」
あるいは調査に当たった学院の職員たちの痕跡に上書きされてまざり合っているのか、鍵の解体状況以外は良くわからない。
時間が経っているせいもあるだろうが、ともかくだ。
脱走の痕跡というなら、もっとハッキリとしたものが別の場所に残っている。
「そちらの扉は、ただの擬装だと思います。鍵を解体しただけで、多分、扉からは出ていない。実際に出たのはこっちです」
窓ガラスの一枚、あのレインコートの少女が入ってきた窓。
否、あれはきっと逆回しだ。
少女は入ってきた姿ではなく、出ていった姿を見せたのだ。
だからリノリウムの床を踏んだ音がトンと打つようではなく、キュッと蹴りつけるように響いた。
あれは、窓枠に飛びつくためにジャンプした際の音。
この窓の鍵はバネ仕掛けの自動ロック。
内側のスライド錠を押し上げて開け、閉めれば自動でスライドが下りて施錠される。別に裏口を使わなくても、ここから普通に出られるのだ。そして、だからこそ、わざわざ裏口の鍵を解体して、そちらから逃げたのだとアピールし、調査の意識をそちらに誘導したのだろう。
「外には……ああ、普通に見ても痕跡が残っています」
外を覗き見る夏輝に示され、松雪も傍らから確認すれば、なるほど、彼の目にも、外の地面や茂みを何者かが通った痕跡が、微かながらも認められる。
道理で裏口側には痕跡がないはずだ。
そもそもそこからは出ていないのだから、痕跡などあるわけがない。
「ふむ、単純な心理トリックに引っかかったか。情けないことだね」
そう言う松雪は声音も表情も全く平然としたまま。
果たして本当に気づいていなかったのか疑わしいものだった。それこそ、夏輝に逆算を実演させるための擬装だったのではと思える。
「ともかく、これで満足でしょう。わたしは帰ります」
これ以上、ここにはいたくない。
強い拒絶を示す後ろ姿に、松雪はやれやれと肩をすくめながらも、了承を返した。
「入学する気はナシか……まあ、もとより無理強いすることでもないさ。が、だからといってまたヒキコモリに戻るようならば話は別だ。そこのところは、心得ておいてくれたまえ」
事実上の
何にせよ、帰って良いなら長居は無用。夏輝は歩みも早くエントランスに出た。
車寄せにはすでに黒ぬりの送迎車がつけられていた。
夏輝が帰るのを見こして当に待機していたのだろう。
「それと、言い忘れたがもうひとつ。近く、キミに専属の護衛をつけることになった」
背後から響いたわざとらしい補足に、夏輝は抗議と拒絶を込めて睨み返す。
玄関先にたたずむ松雪は、コホンッ──と、これみよがしな咳払いをひとつ。
「解体魔の件もある。キミは、どうも自分を客観的に見れていないようだしね。まあ理由は他にも色々とあるが……要約すれば、いい加減、キミも天下の九条家の御令嬢としての自覚を持つべきだということだよ、夏輝お嬢様」
「…………」
決定しているのなら、拒絶するだけ無駄なのだろう。
夏輝は無言のまま、松雪のエスコートに従って車内に乗り込んだ。
正直なところ、どうでもいいし、何だっていい。
どこにいても、何をしていても、どうしたって痕跡は流れ込んできて巻き戻るのだ。
夏輝はただ、押し潰されないように息をひそめてやり過ごすしかない。
ドアを閉じる寸前、松雪はその長身を折って車内を覗き込む。
「では、いつまでも
松雪の朗々と響く声質は無闇に重厚で、それは本気の激励なのか、茶化しまじりの皮肉なのかわからない。
だが、どちらであろうと関係ない。
「二度と、そのフザケた呼称でわたしを呼ぶな」
それだけは低く鋭い拒絶をこめて、夏輝は松雪を睨み返した。
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