002 禁忌の果実の引っ越し祝い

 人間を装っての引っ越しは、たいていの人外にとって頭痛の種だ。住民票だ、戸籍だという根本的なところは周囲が協力してくれるが、そこから先はよほど親しい、そのうえ人間の作法に慣れている友人でもいない限り果ての見えぬ苦境となる。ラミントンとて人間としての暮らしに詳しいわけではなかったが「多分」と「そうだったかも」を振り回しながら様々な点でこの不慣れな天使を助けてやった。棚の組み立てという大仕事も2人でやりとげたが、そこで限界がやってきた。

 はずなのだ、が。

 最後の力を振り絞って、ラミントンは棚の上に大きな「箱」を載せた。「箱」から伸びるコードを的確な穴に繋く。まだまだ。持参したビニール袋から三角形の何物かを2個、「箱」に入れ、閉じて、ボタンを押す。

 そこまでやるとさすがに天使同様床に寝そべり、息を整えながらラミントンは言った。


「どう? 揺らいだ?」

「まさか!」


 天使は木漏れ日さながらきらきらと笑って「ブロンディ」と名乗った。


「悪魔に名乗っちゃっていいわけ?」

「下界用の名前だからね。いいのいいの。きみは何かある? 名乗れる名前」

「あるよ。ラミントン、っての」

「天使が呼んでも?」

「大丈夫」


 そこで「よいしょ」と跳ね起きて、ラミントンは箱の中を探った。あっちい、と指を引っ込める。先ほど出てきた紙皿に四苦八苦しながらご案内。もう1個も、そうした。「お近づきのしるしに」彼が差し出したのは、たっぷりのシロップを纏って輝く、アップルパイだった。シロップの甘い匂いと、その中に混じるシナモンの香りにあてられたのか、ブロンディはゆっくりと上体を起こし、控えめに鼻をひくつかせた。


「それは……”お菓子”というものかい?」

「そのなかでも”パイ”というものだぜ。食べたことは?」


 天使にあるまじき物欲しげな顔で、ブロンディは首を左右に振った。視線は、まだほんのりと湯気を上げるアップルパイに釘付けだ。

 ラミントンは考えた。この反応からして「お菓子=美味しいもの」という知識はありそうだ。そして眼前に現れた、複雑なお菓子に心奪われた――というところか。もう少しいじめてやっても良かったが、ラミントンはそうしなかった。お菓子が食べられないのも、温かいお菓子が冷めてしまうのも、かわいそうだ。よくない。


「さ、お食べ」


 宝物でも賜ったように、震える手でアップルパイを受け取るブロンディ。ラミントンは慣れたもので、大口を開けて「ざくり」と、無遠慮にかぶりつく。小麦とバター、パイの味。さくさくのところと、しっとりのところ。お店で煮ている滑らかなりんごジャムと、大胆にカットされたごろごろりんごのマリアージュ。下に敷かれた濃厚なカスタードクリーム。まぶしたシロップにもりんごジャムが混ぜられているのは気づく人だけが気づける幸福な秘密。もちろんラミントンは「気付く」側である。いったい何回、この祝福に似たパイを味わったと思っているのだ。ざくり、ざくり、そして、ぺろり。綺麗に平らげて無作法に指まで舐め、ブロンディはどうしていたかと確認する。我知らず、にやりと笑うラミントン。ブロンディはパイのカスだらけになった手を未だ宙に差し出した格好のまま、なぜパイが消えたのかわからない、という顔をしていた。どこに消えたのかについては、彼の口元にシロップの跡があることから明白だ。


「これが、美食……美食という、悪徳……」

「おいおい、全部ひとっからげにするなよな」


 忘我の境地にイっちゃっているブロンディの額に、でこぴん一発。

 戻ってきた彼は「邪魔するなよ」とでも言いたげに、鼻の頭にしわを寄せてみせた。あまり天使らしくない表現だ。


「確かに美食が悪徳であることは多いぜ。だけどな、美食を求めて真摯に腕を磨いたり、美食を提供することで優しい気持ちになれたり――美食がきっかけで友情が芽生えたりすることまで悪徳にはならんだろ? もし『なる』っていうんだったら、こっちが大忙しになっちまう」

「……なるほど。確かにそうだね。失礼しました」

「罪の果実だってこんなにうまいんだもんな」

「……?」

「このパイに入ってるのは、林檎なんだ」

「ああ、なるほど……!」


 ブロンディはむくむくと口を動かした。残り香でも探しているのだろうが、実に不作法だ。


「もうひとつ、罪の果実を使ったお菓子があるけど、食べるか」

「ぜひ。おいしいんだろう」

「全く。気をつけろよ、おれのいないところで堕天しないように」

「気をつけるよ。きみにはお菓子の恩もある」


 ブロンディの悪戯っぽい微笑に見守られながら、ラミントンは箱――電子レンジに、マフィンを2つ入れた。アップルパイと同じ店で買ってきたもので、こちらもラミントンのお気に入りだ。じきに甘ったるい、でも優しげな香りが部屋中に広がってゆく。ジャムにされても切れ味を失わないリンゴとは対極の果物だ。酸味がないわけではないのだが、よく熟させて使うことで、ほぼなくなる。温まって柔らかさが増した生地を割ると、さきほど部屋を満たしたのと同じ、しかしもっと濃厚な香りが立ちのぼる。興味津々の顔をしているブロンディに、手つかずの1個を指し示せば、おっかなびっくり手を出して「あちっ」と引っ込めた。その様子に微笑しつつ、手元のマフィンを大口で齧り取るラミントン。そうそうこれだ。どっしりした生地、もったりした甘み。鉄板のチョコチップ入りも嫌いじゃないが、こういう素朴なバナナマフィンが、ラミントンの好みだった。ブロンディの好みにも合致したようで、熱そうなそぶりを見せながらもちょっとずつ、ちぎっては食べしている顔つきは魔法にかかったようだ。


「知恵の実はバナナだという説もあるらしいな」

「この際どっちでもいいし、どうでもいい」

「そんなにお気に召した?」

「うん。地上って素敵なものがあるね。食べたら『ごちそうさま』と言うんだっけ」


 満足げな笑みを満面にたたえるさまはまさしく天使。常人ならば跪いてしまいそうだ。

 だがラミントンは悪魔なので、跪かないしこれじゃあ終わらない。


「忘れるところだった。最後のお土産」

「まだ何かくれるのかい? お返しがしきれないや」

「そんなのいいんだよ。はいこれ」


 差し出されたのは円筒状の小瓶である。艶消しゴールドの蓋とシックなラベルが「良いもの入ってますよ」と言いたげだ。


「これは?」

「同じパン屋さんで買ったジャム。ここ、こういうのもおいしいんだぜ」

「有難う! 何のジャムだい?」

「天使に贈るならひとつしかないだろ」

「林檎でもバナナでもなさそうだけど」

「……イチジク」

「……はっはっは! 本当に洒落の利いた悪魔だ!」


 是非またおいでと天使に言われた悪魔なんて、きっとラミントンが紀元後最初に違いない。

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