天使と悪魔の食べ歩記
猫田芳仁
001 ライス、ケチャップ、その他あれこれ
朝。
彼は欠伸をしながら冷蔵庫のドアを開けた。なかを検分し、ラップの包みを2個取り出す。片方は手のひらにやや余るほど、もう片方はその半分ほどだ。大きいほうを電子レンジで温め、小さいほうはフライパンに開ける。上から少しだけサラダオイルをたらし、火をつけて菜箸でほぐす。挽肉だ。
おおむね火が通ってきたころ合いでレンジが鳴るので、返事をしつつブツを取りに行き、それもまたフライパンに開ける。こちらは炊いた米である。最近彼の中でブームが来ている麦飯であった。鼻歌を歌いながらそれも良くほぐし、ひき肉と混ぜ合わせる。塩とトウガラシを少々、たっぷりのケチャップ。真っ赤なケチャップライスを彼は意気揚々と皿に盛り、お好み焼きにするかのようにマヨネーズで格子模様を描いた。
さあ食卓へというところで、折悪しく電話が鳴った。しかし彼は気にしない。電話の相手にはお待ちいただいて、テーブルに着いたところで通話ボタンを押し、相手かまわずケチャップライスをスプーンに大盛りで口に入れて噛み締めた。相手も相手で勝手知ったるようであり、皿とスプーンのぶつかる音が止むまで静かにしていた。
『やあ、食事中だったかい。悪いな。今日の朝食はなんだ?』
「ヘイ、ボス。ケチャップライスさ。挽肉入りのね」
『肉は?』
「牛豚合挽」
『最高のやつじゃないか』
「最高のやつだよ。でも卵があったらオムライスにできてもっと良かった。ま、それはいいや。用件を聞こう」
ボスによれば、近々彼の住む街に、天使が降りてくるのだという。比喩ではなくて本物の、背中に翼、頭上に蛍光灯みたいな輪っかを戴いたあの天使である。
なぜそんなことを知っているのかと言えば、彼らが天使の宿敵、悪魔の一派だからである。
天使と悪魔がご近所同士となれば、やることはひとつだけだ。
「ボス、皆まで言うな、おれだってわかる。その天使ちゃんを誘惑してこっち側に引っ張って来いって言うんだろ」
『話が早くて助かるな。やり方は任せる』
「おれのやり方はいつだってひとつさ」
『だろうな。では健闘を祈るぞ、ベルゼビュートが系譜、ニスロクの徒、悪魔ラミントンよ』
「ありがたきお言葉! 同じくニスロクの徒、悪魔バクラヴァよ」
電話を切ったのち、ラミントンはまず食器を水に浸した。そのあとで、おやつをどうすべきか、少々悩んだ。
***
ラミントンが「天使」の降臨をその邪悪なる英知でもって知ったのは、それから数日後のことであった。
彼は、善意から少し待った。
というのも予感があったからだ。それは決して悪魔的な超常の予感ではなく、かつて己がバクラヴァの手引きで地上にやってきたときの経験のもとにした、どちらかといえば「予想」だった。
そしてその予想は、見事に当たることになる。
「御免なさい、片付いてなくて」
主に好奇心から待ちきれなくなったラミントンが天使の家――近所のアパート――に向かうと、まず困り顔の天使、続いてその後ろに群れを成す段ボールが目に入った。そう、いまどき超常の存在といえど、魔法や奇跡で引っ越しをするわけにはいかないのである。理由を話すと長いのでここでは割愛。
今お茶を淹れるからと、荷物をがたがたやりはじめる推定天使をラミントンは慌てて止めた。それはこの荒れた部屋が、さらに荒れるやつだ。天使の彼――中性的な外見だが便宜上こう記す――は「こういうときは、お客さんにお茶を淹れると習ったんだ」だなんて抜かしている。お茶よりもずっと大事なことが、今この場にはあるのだけれど。
「……御免なさいとかお客さんとか、そんなこと言ってるけどな。おれがなんだかわかってるのか、天使ちゃん」
そう言ってラミントンは両手を広げて胸を張った。ついでに足など交差させる。
わかっていなくとも、まともな人間であれば「やばい」ということだけはわかりそうないでたちを彼はしている。全身黒を基調にし、ダブルのジャケット、革のズボン。一等目を引く銀髪を、細身のサングラスが引き立てる。勿論目元が見えないくらい、真っ黒のやつだ。おもむろにそれを外し、おもちゃめいて青い目をぱちくりさせる。中の瞳孔は横に長く、人間じゃありませんよと声高に主張していた。
「わかっているとも、悪魔くん」
天使のほうも面白そうに、深い緑色の眼で瞬きする。そのたびに瞳の中を流星が走り、はっとするほど美しかった。
「わたしを誘惑しに来たんだろう。そういうものだと聞いている」
予想より早く来たけれど、と段ボールの山を誇示する天使。
「もしもきみが片づけを手伝ってくれるならば、わたしは誘惑に屈しないまでもちょっと揺らぐかもしれない」
「もとよりそのつもりさ。魔法にも奇跡にも、限界くらいある。悪魔と天使じゃなく、まずはご近所さんとしてよろしくな」
「よろしく。きみみたいないい奴でも、悪魔って務まるんだな」
「おいおい、どういう意味だい」
「言った通りの意味だよ」
お茶を出すのは後回し。
2人は腕まくりをして、段ボールに挑みかかった。
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