第三話 ~灰色世界と灰色旅人~
シベリア鉄道。
それはモスクワからウラジオストクまでロシア連邦の大陸を横断していた約一万キロの鉄道。
ロシア帝国時代に建設され、シベリアの農業発展に大きく貢献し、人とモノを結ぶ大きな役割を果たした。
だが、それは昔の話。
「少し長続きした戦争の影響で、今はノヴォシビルスクからイルクーツク一帯までの線路が無くなっている。モスクワ連合の指示で直しているようだが、あの辺は長居できないから噂程度の話らしい」
電車が引っ張る寝台車の中で、灰色の空を見ながら男が呟いた。
「ふーん」
それを受けて、隣にいた少女が興味なさそうに応える。
寝台車には天井が無く、ただ重くのしかかる灰色の空が四角く切り取られている。窓は枠ごと無くなり、冷たい風が車内を抜けていた。
そしてベッドには冷たい鉄の板の上に敷かれたカビ臭いマット。天井が無くなったおかげで、二段ベッドは広々としている。
二人は同じストールと借り物のブランケットを共有し、凍てつく風を凌いでいた。
男の方は大柄で、傍らに大きなバックパックと風呂敷に包んだFALを置いている。
大きな体は器用に折り曲げられ、纏っている灰色のトレンチコートの下はカーゴパンツとワイシャツ、ミリタリーベストを羽織っている。
男の顔立ちは英国系でいかにも平凡。青い瞳は伏せがちになり、ぼさぼさに伸びた黒髪は後ろで雑に括られていた。
そして少女の方は男より二回りほど小柄で、短く切られた灰色の髪と真っ白な肌が分厚い雲を抜けた日差しに晒されている。
顔つきは端正で十四、五くらいを思わせるアジア系。髪は正確には黒髪なのだが、痛んだ白髪が多く混じり灰色に見える。その双眸は見通すことが不可能な黒をしていて、目蓋が重そうだった。
服装はワイシャツの上にショットシェル用のポーチを縫いつけたフィッシングベストを着て、その上に詰襟を羽織っている。
詰襟は何処にもボタンが無い代わりに安全ピン二つで前を閉めているが、元は日本の学校用の制服。それも男物だ。裏地にはケブラー(防弾材)が縫い付けられている。
下はカーキー色のショートパンツと黒いタイツ。真っ白な安全靴を履いているが、汚れきって元の色はもう戻らないと思われる。
「次の停車まであと一時間はあるはずだ」
男は左手首内側の腕時計を見てそう言う。
「うん」
少女はうとうとしながら応える。
「眠たいなら、寝ていてもいいぞ」
男はその様子を見て少女に小さく言う。
「そうする」
少女は男の腕に頭を預けるとすぐに寝息を立てた。
列車は雪が融けてぐちゃぐちゃになった線路の上を進む。
通り過ぎる町は何処も崩壊し、自由を手にした動植物たちの巣窟と化していた。
二人が死の町を進む寝台列車に乗ったのは二日前の、モスクワでのこと。
その日もやはり冬の厳しい寒さが残り、雪解けのモスクワは全盛期から大きく衰え、八車線の大型道路に走る車の姿は見る影もなかった。
ちらほらと路肩に停めてある車こそあるものの、多くは埃被り恐らく持ち主はいないものと思われる。
その中の一つ、ぶるぶると震える小さな車の中に二人はいた。まるで寒さに耐える小動物のようだ。
「さすがに…………空いている喫茶店はないか」
男はハンドルに寄り掛かって辺りを見ている。
道路は所々ひび割れていて、両脇には同じような超高層アパートが並んでいる。
アパートはどれも同じ形をしているように見え、それどころか窓の形や数、密度すら整然としている。それを重厚で美しいと捉えるか、物静かで不気味な様と捉えるかは個人の感性によるだろう。
今現在の男の感性は「ヒビが多くていつ崩れるかわかったもんじゃない」と訴えている。
しかし、この一見荒廃して見える町でも決して無人のゴーストタウンという訳ではないらしく、先程からちらちらと視線を感じる。
おそらくはどこかの窓から誰かたちが二人を見ているのであろう。
「ひとまず…………出るか」
「うん」
二人は車を降りた。
男は降りる前にダッシュボードからとても古い型式の使い捨て携帯を取り出すと電源を入れる。
携帯はすぐにどこかに繋がり、男は耳を当て「――はい、ジョンです。回収をお願いします。」と二言、三言やり取りをする様子を見せた。
ジョンと名乗った男は少女をスーと呼ぶと
「二十分で来るそうだ。とりあえずここを離れよう」
と言い、携帯を二つに折り道へ捨てた。
彼らが乗っていた車は、元はジョンの物。
ミニと呼ばれる車の1967年モデルの外観をしているが、中身はまるで別物でジョンが母国で軍人になる以前から使用していたものだ。
中身を魔改造が如く弄ったのはジョンではないが、わかる人間にはそのこだわりがわかるのだと言う。
そして現在は世界で暗躍する『ロッカー』と言う組織に所持権限を半分預けている。
世界で傭兵という職業が盛んになる前後から活動を見せ始めたその組織は、あの世界を牛耳る武器商人カヌスですら実態を掴めないというほど謎に包まれている。
その活動内容はと言うと、世界中の人間の所有物を契約によって保管し、要請に応じて世界中どこででも取り出すこと。
物品は大型船舶からブレスレットなどの小物、栄養状態の管理された人間までとなんでもありらしい。
しかし実際にモノを取り出したり受け取ったりした人間の姿を見た者はいないらしく、厳重に管理されたシステムで円滑に仕事をこなしているらしい。
そんな彼等を見ようとした人間こそいたらしいが、いずれも不慮の事故に遭ってしまうだとか。
そんな都市伝説じみた組織にジョンもいつの間にか契約していた。誰の紹介だったか。
「…………そう言えば、あいつは今も傭兵をやっているのかな」
「あいつって?」
後部座席から大きなバックパックを取りだしながら小さく呟いたつもりだったのだが、スーの地獄耳は聞き逃さなかったらしい。
「ああ、昔の友人と言うか同じ部隊にいた奴の話だ」
「ふーん」
「気になるか?」
「んー、ちょっとだけ」
「そうか」
そんなやり取りをしながら二人は歩き出した。
人のいないモスクワの道を、堂々と道路の真ん中を歩きながらどこか休める場所はないかと散策する。
両脇に並ぶ高層の集合住宅に切り取られた空が徐々に薄暗くなる間、二人は言葉を交わすことなく歩く。
いざとなればどこかの部屋を使えばいいのだろうが、たまに二人を確認してはアパートの隙間へ消える人影を見る限り、それは少し面倒な気がした。
そんな折についに二人は手ごろな喫茶店と思しきものを見つける。
道に面してガラス張りで店内を見せるその店は、元はテラス席があったのだろう。
店の前に幾つか倒れた机や椅子が並び、その上に位置していた店の上部から突き出したビニールの日除けは朽ち果て、錆びた鉄骨がむき出している。
そして店の天井からは見慣れた赤い集合住宅が突き出していた。
二人はガラスが割れた入り口から入ると、日が入らない暗い店内を見渡す。
スーはカウンターの上に並んだメニュー表を興味深げに見ていたが、すぐに飽きたのか窓際に並べられた椅子にちょこんと座った。
ジョンはカウンターの裏に回りキッチンを認めると、確認するつもりで蛇口やコンロのつまみを捻った。
「よし、ガスも水道も通ってない。いつも通りだな」
そう言うと、バックパックを床に置いた。風呂敷に包んだ歪な棒は肩に掛けたままだ。
「今日はここで一晩過ごそう」
「わかった。明日は?」
「明日考える」
スーとそうやり取りをするとバックパックを開けてがさごそと中を漁り始める。
取り出したのは軍用携帯食料とスモークベーコン。コンパクトなキャンプ道具や純正の備長炭、固形燃料、水と銀色の缶ケースだった。
「?」
「どうかしたの」
「いや」
ジョンはコンロに備長炭を並べると網を乗せてお湯を沸かす。
ステンレスのコップを二つ取り出すと、缶ケースから紅茶のパックを一つずつ入れてお湯を入れる。
次に備長炭を調整すると缶詰を二つ温める。
これは日本製の鶏肉野菜煮。もう一つはフランスの物。合間にスモークベーコンをパクつく。
十分に温まったら網ごとトングで持ちスーの座っている机まで持っていく。紅茶とベーコンを運んだら、炭の処理を手早く行い後片付けをする。
スーの所へ戻ると、スーは自分の銃剣で鶏肉をつついて食べていた。
「フォークを使え」
「はーい」
出会った時はぎこちなかったフォークの持ち方も、今では違和感が無くなっている。
少し早めの夕食が済んだ時には辺りが真っ暗になっていた。
二人は三枚ずつビスケットを食べて紅茶を飲み干した後、窓の外の景色を見ていた。
道路の反対側に見えるアパートは、所々窓に弱々しい光がチラついている。
「明るいね」
スーは目蓋を半分閉じかけながらぼんやりとそんなことを言う。
「明るいか?」
ジョンはランプを机に置いて本を読んでいた。
スーが外を見ているので外の事を言っているというのはわかったが、明るいとは思えなかった。
「明るいよ。人がいるだけで」
スーはそう応えた。
「そうかもな」
ジョンは一瞬だけ外を見た。
それからスーが耐え切れず電池切れのように机に突っ伏すまで少しかかった。
ジョンがランプを消すと二人は闇に呑まれる。
二人は日の出まで床で休息を取った。
しかし日の出を迎えても正面のアパートが遮る日差しで店の中はまだ薄暗い。
店の奥はさらに暗く、人影が動いてもそれが誰かはわからない。人影はカウンターの横の扉から店に入り、息を殺してゆっくりと窓の方へ進んでいた。
窓際の机の下には布にくるまったふくらみがある。
人影は徐々にふくらみに近づくと、両手に持った小さな箱を突き出す。
それはKS23と呼ばれるロシア製の散弾銃。何の飾り気もない古い型式の銃だった。
人影は一歩、また一歩とふくらみへと近づいたが一瞬の後に床に叩き伏せられた。
「――ッ!」
手に持っていた散弾銃はもぎ取られ両手が拘束される。
「だ、誰!」
床に押し付けられた顔を必死に傾けても自分を拘束する人間は確認できず、人影は思わず声を上げた。
「あー、放していいぞ」
声のする方を見るとカウンターの裏からぬっとジョンが現れた。
すぐに拘束は解け、体を起こす女性の前に大柄の男と自分の散弾銃を持った小さな少女が並んだ。
「そんな……」
布のふくらみに銃を向けた人影は、壮年の女性だった。
女性は布を乱暴に剥ぎ取るとふくらみの正体を確認する。それは大きなバックパックだった。
「すみません。一晩だけ借りるつもりだったんです。」
ジョンはそう言ったが女性は警戒し、一歩距離を取る。
「………………どうして」
そしてそう小さく言った。
「?」
「どうして、気づいたの」
「ああ」
ジョンはカウンターの奥のキッチンを指さした。
「何年も使われていないように見えますけど、埃も無くきれいにしてあったので」
「それで、誰かいると」
女性は少し驚いた様子だった。
「いえ、人がいるのはわかってはいるのですが」
ジョンはちらりと外の集合住宅たちに目配せをすると
「皆恥ずかしがり屋のようで」
と続ける。
「いつもそうよ――ただ」
「ただ?」
「あなたここの人じゃないでしょ?皆怖がっているのよ」
女性は最後に「早く町から出て行った方がいい」と付け加えた。まるで、でなければ自分が殺すとでも言うかのような雰囲気だ。
ジョンはそれに素直に従うことにすると、スーが持っていたKS23を女性に返し、布をしまいバックパックを背負った。
女性は銃を向けることはなかったが、警戒をしたままカウンター横の扉まで下がった。もし怪しい動きをしたらすぐに構えて撃つだろう。
二人はそれを気にすることなく店から出ようとした。その時だった。
「車が――」
スーがそう言った。
そしてジョンがエンジン音に気づき行動を起こすより先に店の前に二台の車が止まった。
相当な速度を出していたらしく急ブレーキをかけても少し前に進んでから止まった。
それでも二台の間隔は一定に保たれている。
それはジョンと女性には見慣れた装甲車だった。
黒い装甲に覆われている大きな車体には武装はなく、後方の扉が派手に開くと同時に武装した軍人が機敏に飛び出し店を囲んだ。
その数は二十人ほど。
スーはすぐにトレンチガンを構えたがジョンがこれを制す。
女性はというと急すぎる展開に困惑し身動きが取れないでいた。
ジョンは店を囲み短機関銃を構える兵士たちを油断なく観察する。
皆一様に黒い戦闘服に身を包み、黒いヘルメットを被り、透明なフェイスガードを下ろしているものの目だし帽で顔は見えない。
誰も何も話さないまま少し経つと、黒い壁をかき分け一人の男が現れた。
黒い厚手の外套に身を包み山高帽を被った男は両手を肩の高さまで上げたまま店に近づくと、そのまま三人のいる店内まで入ってくる。
「いやいやお騒がせしてすみません。危害を加えるつもりはありませんので、どうか警戒なさらずに」
少ししわがれた声は少し訛りのある英語でそう言うと、三人が睨む中ゆっくりと右手を動かして帽子を取った。
その下には口ひげを蓄えた初老とも中年とも取れる男が柔和に微笑んでいた。
「警戒するなと言われても、いささか登場が派手すぎると思いますが」
ジョンはすぐに攻撃されることはないと確信すると、自然体で男に応じる。
「上が連れて行けと言うのでね。あなた方を警戒して損はないと」
「あなた方が何の組織に属しているのかは知りませんが、少なくとも銃を向けられるほどには有名らしいですね。私たちは」
「ええそれはとても」
ジョンの売り言葉に男は淡々と答える。
「申し遅れました。私は連合安全保障局のイワノフと申します。」
男はイワノフと名乗ったが、ジョンは鼻を鳴らした。
「初めて聞きましたね。FSBは解体されたのですか?」
イワノフは笑みを崩さない。
「おや、意外と世界情勢には疎いようですな。ともかく、我々に同行していただけませんか?詳しい話は、車内で」
「拒否権は」
ジョンは露骨に嫌そうな顔をした。
「悪いようには致しません。あなた方にとっても損の無い話のはずです」
イワノフは「それに」と言うと、少し距離を縮める。
「あなた方がこの状況から脱すること自体は容易でしょうが、あまりお勧めはしたくありません」
と小声で言った。
確かにジョンには店からも、包囲網からも脱出する案はあった。
しかしそれに確信はなく、実行する気にもなれなかった。
何より、嘘か真かはさて置きこの男が国に属する人間なら人質にするのはリスクがある。イワノフ自身に人質以上の価値があるかもわからない。
それに、この国をもう二度と安全に観光できなくなるかもしれない可能性がある以上無茶は出来なかった。
「可能ですか?」
イワノフはそこまで考えて選択を迫っていた。
「ずる賢いのは工作員の特権という訳ですか」
ジョンはスーに合図をすると店を出たイワノフの後に続いた。
店に取り残された女性は最初から最後まで蚊帳の外だった。そして何事もなかったかの如く去っていった車が残したエンジン音の残響がぽつりと頭に響く。
「な、なんなのよ」
女性はその後自分の部屋へと戻ったのだった。
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