1-2
遠い昔の夢を見た。
妻がいて、娘がいて、父と母と、義父と義母がいて、それから仲間と先生と教官がいた。
古いブラウン管はくだらない選挙戦のニュースを流して、テーブルの上にはうまそうなベーコンと焼きたてのパンが食欲をそそる匂いを放っていた。
いや、仲間や先生が家にいるなんて考えられない。教官なんてもっての外だ。こっちから願い下げだ。
じゃあ、あの窓に広がる酷い景色はなんだ?
向かいの赤いアパートは、子供が砂の城を蹴っ飛ばしたみたいに粉々になっているし、向こうに流れていた川は見慣れた顔が浮かんでいて、産業革命の時より汚い。
ふと、机に目を向けるとそこでうまそうな匂いを立てていたのはベーコンなんかじゃなくてカリカリに焼けた娘の生首だってわかる。
その正面に座っているのは妻だったものだ。
父も、母も、みんな死んでいた。
義父も、義母も、人の形じゃなくなっていた。
戦友も、先生も、教官も、炭になってぼろぼろになっていた。
そして、俺は―――――――――――
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「あ、起きた」
男はぱちりと目を覚ました。
目に映るのは薄暗い天井と、一人の少女。
無意識に触れていた左腿のホルスターの拳銃から手を離すと、ゆっくりと体を起こして辺りを見渡す。
薄茶色の石レンガが積みあがった建物の、なにもない無い窓からまだ高い位置にある太陽によって暖められた風が汗で張り付いた髪を撫でる。
その外の景色は、地獄ではないようだ。
「はい、水」
少女から差し出された水筒を受け取ると、一口飲んで返す。
その手を確認するように何度か握っては開くと
「俺は、どのくらい寝ていた」
男は初めて声を出した。
「んーと、二時間ぐらいかな」
と、少女は答えた。
どうやら砂漠で倒れてからここまで運び込まれたようだ。
「すまない。迷惑をかけた。」
「うん。でも、生きててよかった。」
少女はそう言うと頭を覆っていたストールの一部を取る。短く切られた灰色の髪が現れ、真っ白な肌が露わになった。
顔つきは端正で十四、五くらいを思わせるアジア系。髪は正確には黒髪なのだが、痛んだ白髪が多く混じり灰色に見える。その双眸は見通すことが不可能な黒をしていた。
「あそこから、どのくらいかかった?」
男は自分が枕にしていたバックパックを立てると、中身を漁り始める。
「そんなには掛らなかったよ。坂を上ったら町が見えたし、ここまでも百メートルぐらいかな」
少女が百メートルというなら、そうなのだろう。と男は地図とコンパスを取り出して腕時計を見る。
「それに、下り坂だったから運ぶのも楽だったし」
と、その手がピタリと止まった。
「待て。俺はどうやって運ばれたんだ?」
「え、ええっと」
少女の方に向き直ると、彼女の真っ黒な瞳がふわふわと漂い始める。
「こう、転がして」
男はコンパスその他を放り出すと、傍らに置いてあった風呂敷に包まれた棒を持って丁寧にそれを広げた。
中から出てきた歪な棒の正体は、FM FALと呼ばれるアサルトライフルだった。
元はベルギーのFN社が開発した自動小銃だが、これはアルゼンチンの国営造兵廠であるFM社がライセンス生産したもの。
しかも、この男が使っているのは5.56ミリ弾を使用できるようにしたFALM PⅢというモデル。
その上、ストックをスケルトンストックに変更してあったり、銃身を切り詰めて取り回しをよくしてあったりと細かく弄られてある。
男は小銃を手に取ると、慎重に動作を確認して部品を点検する。
「ご、ごめん……私も疲れてて」
「いや、今回は俺に落ち度がある。謝らなくていい。」
少女が困ったようにそわそわしているのをよそに、点検を終えた小銃をさっきとは逆の手順で風呂敷に丁寧に戻すと、男は大きく息を吐いて床に寝転んだ。
「だ、大丈夫だった?」
「ああ」
「よ、よかったぁ――――で、どうするの」
「ひとまず夜まで休憩だ。交代で見張りをする。日が沈んだら街を見て回ろう。」
「わかった。」
少女は再びストールを被ると、トレンチガンをお気に入りの枕のように抱いてコロンと床に寝転んだ。数秒後、可愛らしい寝息を立てて肩が上下し始める。
男はそれを少しの間眺めていたが、少し経つとバックパックから別の道具を取り出して、風呂敷に包まれた小銃を掴んで壁際まで移動する。
左腿にある拳銃――HK45と呼ばれるアメリカ製の四十五口径の拳銃を取り出すと、道具を使ってそれを整備し始めた。
互いが休憩を取り終える頃には日が沈み、二人は持ち物や武器を軽く点検してすっかり冷え込んだ町へ踏み出した。
二人が休憩を取っていた建物は町の端にあり、それより北は砂漠が、南には同じような黄色い石レンガで作られた低い建物が並んでいた。
男はFALを風呂敷から取り出してスリングで右肩に掛けると、風呂敷を折って首に巻く。ターバンは体に下ろしてマントのように纏っている。
それでも夜の砂漠の風は冷たく、全身を包み体温を奪って行く。
少女は先ほどと変わらない格好をしていたが、今は頭に被せていたストールを首回りに詰めている。
二人は大通りに出たが、人気はなく閑散とした石の道が続いているだけで、道の両脇に並ぶ家々にも人の影――火の光のようなものは一切見られなかった。
「誰も、いないね」
「ああ、いつも通りだな」
それから二人は月明かりを頼りに辺りの家を調べ始める。
水はないか。食料はないか。売れるものは。人がいた痕跡は。
しかし、何もなかった。まるで家だけを建てて、その後誰も住まなかったかのような様子。
「おかしい」
「え、そう?」
「ああ。仮に人がいなくなったとしても、もうちょっと痕跡は残るはずだ。床の擦り減りとか、日焼けとか」
「確かに、そういうものはないね」
いよいよ不気味に思い始めた男は、ライトを取り出して家の壁を照らしながら少女に話しかけていた。
「もう少し、町の真ん中まで行ってみる?」
「そうしてみるか」
男の知識が間違っていなければ、この町はそれなりの大きさがあり、町の真ん中には湖とオアシスがあるはず。
ならば、そこに人が集中していると考えるのが妥当というもの。
二人は大通りを南に進み、たまに周りより少し背の高い建物に上ると、単眼鏡と地図で町の中心を確認しながら進んで行く。
その間も、何処の家からも明かりを確認することはできず、二人の不安は募るばかりだった。
そして、大通りから民家が少し開けた東の道に曲がり、湖から流れるとても水位の低い川の上の橋を渡り始めた時だった。
今まで半歩離れて隣を歩いていた少女がピタリと体を寄せてきた。
「誰かいたか?」
男は最小限の声量で、正面を向いたままそう聞いた。
少女はコクリと頷くと「でも、様子と言うか、なんか変だよ」と、こちらも小さく言う。
男にはまだ感じることのできない人の気配を少女は感じ取っている。
男も、少女の行動から何かを感じ取ったことを読み取り、肩のFALをいつでも構えられるようにスリングの位置を少しずらす。
辺りの民家は町の入り口と変わらず人の気配はない。だが、どこかに誰かがいるのは確実。
二人は気づかないふりをしながら徐々に速度を落とした歩調で橋を渡る。
かつーん。
その二人の耳に、隠しようのない音が聞こえた。
程よく響く固い音は自分たちの足元から。それに続いて、誰かを咎めるひそひそとした声が橋の下で響いている。
相手がどんなボロを出そうとも知らないふりをしてやり過ごそうと考えていた男は、その予想を遥かに超える凡ミスに驚き、そして足が止まってしまった。下手をすれば笑っていたかもしれない。
そんな男の引き攣った顔を見上げる少女は、貴重な表情を見られて満足そうに微笑んでいる。
二人の耳によく届く声たちは、よく聞けば若そうな声をしていた。ひょっとすると子供かもしれない。
そして口論が止んだのか、再び静寂が訪れると今度は浅い川を忙しそうにばしゃばしゃと渡る音と、背後で何かが壁を這いあがる音が聞こえた。
「皆銃を持っているよ。全部で四人」
少女は小さく耳打ちをすると、ストールの下から刃渡り40センチほどの片刃のナイフを取り出して、自身の持つトレンチガンの銃口の下に取り付けた。
それはM1917銃剣と呼ばれる銃剣で、体格の小さい少女が持つと小ぶりの剣にも見える。
銃剣を取り付けて全長の伸びたトレンチガンを何度か確認するように振り上げた少女は「よし」と小さくつぶやいた。
なんとかサハラ砂漠の向こうから思考を取り戻した男の方は、進行方向に銃を構える少女と反対に、背中合わせになり辺りを見渡した。
すぐに視界に入ったのは二人の人間。男より一回り小さく、少女より一回り大きいくらいの身長の二人が、砂漠らしい民族衣装に身を包み、手にはAK47によく似たアサルトライフル。
体格からして男だろうが、ターバンで顔を包み表情は読み取れない。
手に持つアサルトライフルは、ソ連で開発され世界中でコピー品が作られた最も安価で扱いやすい7.62ミリ弾を使用する小銃――――によく似たコピー品であろうと男は見た。
この時代、むしろ純正のAK47は高価な骨董品扱いである。
男には見えないが少女の前にも二人、武装した人間がいた。
こちらは反対側とは違い、二人の体格が凸凹である。
一方は男と同じぐらいの身長をしているが、体格は劣っている。もう一方は、少女ほどではないにしろ小柄な体に似たように民族衣装を纏っている。
両手には同じくコピーAK。
両者はしばらく無言で睨みあって――――と言っても睨みつけてきているのは四人の方だけだが――――誰が何を仕掛けるのかを見計らっていた。
そしてついに、男に相対した二人のうち、男から見て右にいた少年が声を出した。少年の声をしていた。
「ここに、何の用だ」
少し震えていて、だがしっかりと芯のある声でそう問う。
「特に、大した用ではありません。水と食料を少し分けていただきたいのです。」
男はあくまで平常心で丁寧に返す。
「嘘つくな!盗賊が!」
大声を出したのは男と話していた少年の隣にいたもう一人の少年。こちらは幾分若い声をしている。
「たった二人で盗賊を名乗る者はいませんよ」
「まだどこかに仲間がいる可能性はあるだろ」
隣にいた若い仲間を手で制すと、また少年は男に話しかける。
「でも、ずっと見ていたのでしょう?」
「――ッ!」
男はやっぱりか、とでも言うように溜息をついた。
二人は町に入ってからここに来る道中、誰かに見られている感覚を拭えないでいた。それが確信に変わったのは、この四人が近づいてきたからだが。
「ここは何度も盗賊に襲われている。お前らがそうじゃないとしても、よそ者を入れるわけにはいかない。帰ってくれ」
「ですが、ここまで来て道を引き返すわけにもいかないんです。水も食料も底をつきそうなので」
「そんなこと知るか!さっさとこの町を出て行け!」
「もちろんタダでとは言いません。我々の力でできることはします。…………たとえば、その盗賊を追い払うとか」
「………………」
少年は黙り込んだ。
隣にいる幼い少年が「騙されるな」と囁いたのが男には聞こえたが、どちらも踏ん切りがつかない様子だった。
「たった二人で…………何ができる」
「相手は何人なんですか」
「いつも十人以上は必ず来る。でも同じやつらだ」
「それぐらいなら、あなた達が協力さえしてくれれば」
苦渋の表情を浮かべる少年を真っ直ぐ見つめ、男はもうひと押しをしようとした。
しかしそれは、もう一人に遮られる。
「いや、これは俺たちの町の問題だ。俺達で解決する。それに、アンタたちにあげられる物もない」
遮るように前に出ると男に銃口を向けた。
「一度、ここで一番偉い人に会わせていただけませんか?それか、一度判断をその人の所まで持って行ってみるのは。少なくともここで悩むより有意義だと思いますが」
「いいや、その必要はない。ここから出ていくか、死ぬかだ」
声の幼い少年は、にじり寄る。少女の前に立ちはだかる二人も、同じようにして少しずつ距離を詰めている。
男が先ほどまで話していた方の少年は、その挑発行動をやめるように言うが彼らは無視していた。
「それでは、直談判と行きましょう。まずは、その人の場所を聞かなくては」
「教えるわけないだろう。さっさと――――」
「スー。〝殺すな〟」
幼い声の少年を遮った男は、後ろにいた少女にそう言った。
スーと呼ばれた少女は
「わかったよ。ジョン」
とだけ言った。
そこからは一瞬の出来事であった。
まず、先程まで目立っていた少年がそのやり取りに困惑している隙にジョンと呼ばれた男は堂々とFALを床に置く。
そして、前方二人の視線が床に置いたFALに向かうと同時に、距離を詰めてきていた方の少年にアンダースローで石を投げた。
先程辺りから拾った手のひら大の石は一人目の額に鈍い音を立てて当たる。
大きく怯んだ隙をついて、ジョンは距離を詰める。コンパクトにつきだした左拳が顎を捉え少年の意識を奪うと、その手からAKを奪いその後ろでもたつくもう一人に腰を低くして近づき、懐に潜り込むと同時に木製のストックでこめかみを強打した。
時間にして三秒に満たない一方的な戦闘。
こめかみを殴られた少年が床に倒れると同時に、反対側でも同じように床に倒れる音がした。
ジョンが見ると、そこには白目を向いて倒れる二人の人間。傍らにはトレンチガンから銃剣を外して、腰にしまうスーの姿。
「殺してないよな」
「殺してないよ」
スーはゆったりとした足取りでジョンの下に近づく。
「でも、しばらくは起きないよ」
ジョンは二人に重い後遺症が残らないことを軽く祈った。
それから少し経って。
夜が更け、夜空には地平線まで続く星が町を見下ろしていた。
その視線が届かない、特に民家が密集した場所の一軒に二人と両手両足を拘束された四人がいた。
両手両足を拘束された四人は皆気絶していて、先程までその顔を隠していたターバンは取り外されている。
皆、子供だった。スーに相対していた小柄な子は、スーと同じか少し年上の少女だった。
ジョンは四人のうち、最初に話した少年の頬を軽く叩いて目を覚まさせると正面に座った。
「別に殺したりしませんよ。安心してください。」
なかなか口を開かず。ただずっと見つめてくる少年にジョンはそう言った。
「二つ、お願いしたいことがあります。」
「お願い?」
「ええ、お願いです。だから嫌ならやらなくても構いません。」
「家族は、裏切れない。」
「別に裏切ってほしいわけでもありません。まずは聞いてみてください。判断はそれからでも大丈夫です。」
「……………………」
沈黙を了解と認めたジョンは続ける。
「まず始めに、この町で一番偉い人、もしくは決定権のある人たちに会わせていただけませんか?次に、そこで伸びている三人を説得してくれませんか。」
「説得?」
「はい。私たちがこの町の人に会うことを許してもらえるよう。」
すると、少年は儚げに笑った。
「それは、難しい。そもそも、私たちの家族にお前たちを会わせるわけにはいかない。」
「では、判断を持っていくだけでも構いません。また別の場所に決定を伝えに来てください。」
「どうしてそこまでして」
少年は訝しんだ。
男は平然と答えた。
「言ったでしょう。食べ物と水が欲しいんです。」
「そうじゃなくて。ここでそんな危険なことしなくても、もっと大きな町が近くにあるでしょう」
「もう行ったよ」
ジョンの代わりに答えたのは、窓から外を見ていたスーだった。
「どこも、もぬけの殻だった」
ジョンは続ける。
「皆どこかに移動してしまったか、あるいは、前の紛争で……」
「……………………」
少年はまた沈黙した。
そして「わかった」と小さく答えた。
「できる限りのことはしてみる。彼らが私の話を聞いてくれるはわからないが。」
「ありがとうございます――――勇敢な部下を持つと大変ですよね。」
ジョンは少年の後ろに回ると手を拘束していた結束バンドをナイフで切る。
「部下じゃない。兄弟だ」
「ここに残っているのは皆あなたの家族なんですか」
「…………これ以上話す気はない」
「それもそうですね」
そしてジョンは床に置いてあったAKを一丁手渡しする。
「いいのか?」
「ええ、大丈夫です。それで背中から撃たれるなら、それまでの人間だったということなので」
本当は、撃たれるより前にスーが殺してしまうから。とは言わなかった。
「それと」
とジョンは少年がAKを受け取る瞬間に、お預けをするように手を引く。
「本気で敵を脅すなら、銃口はしっかり敵に向けた方がいいですよ。初めから殺す気なら、引き金に指をかけても構わないと思います。」
「…………………………」
「訓練を受けた経験は?――――――失礼、これ以上は話さないんでしたね。」
わざとらしくそう言うと、ジョンは今度こそAKを渡してスーと共に家から出る。
「橋を渡った先に、一番高い三階建ての建物がある。日が一番高くなるまでに誰も来なければ、ここから出て行け。」
二人の去りゆく背中に、少年はそう吐き捨てた。
「朗報を、待っていますよ。」
ジョンの声は少年には届かなかった。
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